投稿日: 2010年12月19日2020年6月18日マタイ1章1〜25節「神の約束の成就をこの地で見る」 2010年12月19日 「約束」という漢字には、目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があります。そして、これはヘブル語の「契約」ということばでも同じです。当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。 “マタイ1章1〜25節「神の約束の成就をこの地で見る」” の続きを読む 0
投稿日: 2009年3月22日2020年6月18日マタイ6章5〜15節「三位一体の神の愛に包まれた祈り」 2009年3月22日 “マタイ6章5〜15節「三位一体の神の愛に包まれた祈り」” の続きを読む 0
投稿日: 2009年3月15日2020年6月18日マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」 2009年3月15日 マタイ福音書での 「山上の説教」と「終わりの日の説教」の対比 〈モーセの最後の説教〉「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く……私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ……」 (申命記30:15,19、20) 〈山上の説教の前提〉 イエスは宣教を開始して、言われた。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17) “マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」” の続きを読む +1
投稿日: 2007年11月18日2020年6月18日マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」 2007年11月18日 人は誰しも、馬鹿にされると傷つき、大切にされると嬉しくなります。そしてこの社会では、人の価値がその人の生産能力で測られているかのようです。そのような中で、あなたの中には、「自分の存在価値を証明しなければ!」という駆り立てる思いがないでしょうか。しかし、その気持ちをイエスの前でも持ち続けるなら、信仰に安らぎは生まれません。それどころか、身体を壊すほどに頑張りながら、イエスを悲しませることになりかねません。 “マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」” の続きを読む +2