今日の箇所には、「楽しみにふけり、安心して住み、心の中で『私だけは特別だ……』と言う者」の破滅が宣告されています。自分の人生の土台が、神の御心しだいで一瞬のうちに崩れ得るということを知ることは、何よりも大切な知恵ではないでしょうか。 “イザヤ47章1節~48章11節「破滅への道と祝福への道」” の続きを読む
マタイ28章1〜15節「イエスの復活の証人は?」
イエスの復活の記事は、各福音書によって描き方が異なり、明らかな矛盾も見られます。そのために私は以前、聖書を誤りのない神のことばであると信じられなくなったことがあります。しかし、誰に目にも矛盾と見える記述がそのまま残されているということ自体が、聖書が弟子の集団の中で編集されたものではなく、目撃者の記録をそのまま残そうとしたことの証拠とも言えましょう。 “マタイ28章1〜15節「イエスの復活の証人は?」” の続きを読む
イザヤ45章15節〜46章13節 「生まれる前から運ばれている私」
私たちの教会では、イエスを救い主と告白したときのことを「救いの証し」として分かち合います。その中で、つい、昔の自分や生まれ育った家庭環境を悪く描く傾向があるかもしれません。私も、自分の幼児期を過度に暗く描いた時期があります。 “イザヤ45章15節〜46章13節 「生まれる前から運ばれている私」” の続きを読む
マタイ27章55〜66節「イエスの復活の舞台を備えた人々」
一般的なキリスト教の教えでは、イエスの十字架の死の後に、弟子たちの間に復活信仰が芽生えたという説明がなされます。それこそが科学的な表現だとさえ言われます。確かに、イエスの身体の復活は万人が認められることではありませんから、それは客観的な表現のようにも思えます。 “マタイ27章55〜66節「イエスの復活の舞台を備えた人々」” の続きを読む
マタイ11章28〜30節「わたしのもとに来なさい」(山形宣洋KGK主事)
2023年6月25日
イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」
アメリカ北部で高速道路を走っている家族の車に鹿が飛び込み、車が大破しました。それに乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言いました。それに対し13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我しなかったのよ!」と答えたとのことです。 “イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」” の続きを読む
マタイ27章45〜56節「十字架の忌まわしさと麗しさ」
イエスの十字架での苦しみは私たちの想像を超えるもので、そこでの主の「大声」での「叫び」が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と記録されています。それはイエスの絶望的な叫びです。 “マタイ27章45〜56節「十字架の忌まわしさと麗しさ」” の続きを読む
イザヤ43章14節〜44章22「見よ。新しいことをわたしは行う」
私たちの喜びは、この礼拝のただなかにあります。今、この場が、目に見えない神の恵みに包まれています。そのように考えることは、現実逃避ではありません。事実、全能の神が働いている中で、あらゆるわざわいが起きてしまうからです。 “イザヤ43章14節〜44章22「見よ。新しいことをわたしは行う」” の続きを読む
マタイ27章27〜44節「神のお気に入りとしての苦難」
今日はペンテコステ、聖霊が信者の上に下ったことを記念する日です。イエス・キリストは、三回に分けて私たちの人生に現れてくださるという神学的な解釈があります。 “マタイ27章27〜44節「神のお気に入りとしての苦難」” の続きを読む
イザヤ42章10節~43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
残念ながら、ときに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、余りにも軽く扱われてきたということがわかります。 “イザヤ42章10節~43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」” の続きを読む