コロサイ2章6〜23節「キリストにあっての満ち満ちた歩み」

2013年6月2日

「クリスチャンは、こんな場合どう振舞ったら良いのでしょう?」と質問されながら、ふと「そんな外面的なことより、もっとキリストとの生きた交わりを意識して欲しい」と思うことがあります。イエスは、あなたの教会生活ばかりか、仕事や家庭、日常生活に深い関心を持っておられます。 “コロサイ2章6〜23節「キリストにあっての満ち満ちた歩み」” の続きを読む

コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」

2013年5月26日

多くの人は、何かの大きな課題や締め切りのある仕事のプレッシャーがないうちには自分の心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスに会うたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表にでてきてしまいます。そしていつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。 “コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」” の続きを読む

使徒2章「聖霊による礼拝の交わり」

2013年5月19日

しばしば礼拝が、守るべきお勤めになってしまったり、聖書の勉強会になってしまうことがないでしょうか。また、時とともに、出来上がったカルチャーに合わない人が排除されたり、またその反対に、外部の人への配慮ばかりが優先されて信者が駆り立てられるように動かざるを得ないなどということがありえないでしょうか。 “使徒2章「聖霊による礼拝の交わり」” の続きを読む

コロサイ1章15〜29節「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」

2013年5月12日

1960年代に、「小さな親切」運動が全国的に盛り上った時期がありましたが、その後、「小さな親切、大きなお世話!」となどと言われ、急速に冷めて行ったと言われます。多くの人は、何か人の役に立ちたいと思っていながら、「余計なお世話」と言われることを恐れ、「私などがやらなくても・・」と自分に言い聞かせます。しかし、今回の東日本大震災を契機に、また少し変化が生まれてきているのかもしれません。 “コロサイ1章15〜29節「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」” の続きを読む

アモス3章1節〜5章17節「主(ヤハウェ)を求めて生きよ」

2013年4月21日

しばしば、私たちは、わざわいに会ったとき、「バチが当たった」という解釈をします。聖書を読むときに気を付けなければならないのは、すべてのわざわいは、神の御手にあって、神の御許しの中で起こっているという霊的な現実を知ることと、それに対する解釈を区別することです。 “アモス3章1節〜5章17節「主(ヤハウェ)を求めて生きよ」” の続きを読む

アモス1章〜2章「神は侮られるような方ではありません」

2013年4月7日

現在の安倍政権は、二十年あまりのデフレ経済からの脱却を至上命題としています。この政権の誕生の方向が見えて以来、平均株価は過去四か月間で五割も上昇しており、四か月で二倍以上になった株も多くあるようです。 “アモス1章〜2章「神は侮られるような方ではありません」” の続きを読む

ヘブル2章5〜18節「いつくしみ深き兄なるイエス

2013年3月31日

激しい不安を抱いている人は、自分の意識を無くするために、死ぬことを自分から願ったりさえします。しかし、「死」は、すべてを失うことのシンボルです。私たちは死において、家族や友人と引き離され、それまで築いたもののすべてを失います。 “ヘブル2章5〜18節「いつくしみ深き兄なるイエス” の続きを読む

マルコ15章33節〜16章8節「産みの苦しみの初め」

2013年3月24日

今から60年ほど前は、自宅出産が普通でしたが、そこには大変な危険も伴いました。私の誕生は予定日より15日間も遅れていました。夜中に陣痛が起き、助産師さんが呼ばれてきましたが、大きくなりすぎていたため、近所のおばさんが母のお腹に乗るようにして胎児の私を押し出す必要がありました。どうにか生まれたものの、母は血が止まらなくなりました。それで今度は、家の外から雪を持ってきて母のお腹を冷やしました。そのため今度は激しい腹痛に襲われ、そのうち母の意識が朦朧としてきました。祖母は母がそこで眠ったら、永遠に意識を失ってしまうと心配し、必死に母の名を呼びかけ続けたとのことです。 “マルコ15章33節〜16章8節「産みの苦しみの初め」” の続きを読む

マルコ15章16〜34節「私たちの悲しみを担われた救い主」

2013年3月17日

シスター渡辺和子の著書「置かれた場所で咲きなさい」が昨年から一般の書店でベストセラーの一角を占め続けています。彼女は36歳の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任じられた時、様々な葛藤の中で、「くれない族」になっていました。それは、「分かってくれない」「ねぎらってくれない」「褒めてくれない」「お詫びしてくれない」など、周囲への不満を持ちながら生きる生き方でした。彼女は自信を喪失し、修道院を去ろうと思い詰めますが、そのときにある宣教師が、「Bloom where God has planted(神が植えたところで咲きなさい)」と書いてくれたことばが彼女の歩みを変えました。 “マルコ15章16〜34節「私たちの悲しみを担われた救い主」” の続きを読む