ヘブル2章5〜18節「いつくしみ深き兄なるイエス

2013年3月31日

激しい不安を抱いている人は、自分の意識を無くするために、死ぬことを自分から願ったりさえします。しかし、「死」は、すべてを失うことのシンボルです。私たちは死において、家族や友人と引き離され、それまで築いたもののすべてを失います。 “ヘブル2章5〜18節「いつくしみ深き兄なるイエス” の続きを読む

マルコ15章33節〜16章8節「産みの苦しみの初め」

2013年3月24日

今から60年ほど前は、自宅出産が普通でしたが、そこには大変な危険も伴いました。私の誕生は予定日より15日間も遅れていました。夜中に陣痛が起き、助産師さんが呼ばれてきましたが、大きくなりすぎていたため、近所のおばさんが母のお腹に乗るようにして胎児の私を押し出す必要がありました。どうにか生まれたものの、母は血が止まらなくなりました。それで今度は、家の外から雪を持ってきて母のお腹を冷やしました。そのため今度は激しい腹痛に襲われ、そのうち母の意識が朦朧としてきました。祖母は母がそこで眠ったら、永遠に意識を失ってしまうと心配し、必死に母の名を呼びかけ続けたとのことです。 “マルコ15章33節〜16章8節「産みの苦しみの初め」” の続きを読む

マルコ15章16〜34節「私たちの悲しみを担われた救い主」

2013年3月17日

シスター渡辺和子の著書「置かれた場所で咲きなさい」が昨年から一般の書店でベストセラーの一角を占め続けています。彼女は36歳の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任じられた時、様々な葛藤の中で、「くれない族」になっていました。それは、「分かってくれない」「ねぎらってくれない」「褒めてくれない」「お詫びしてくれない」など、周囲への不満を持ちながら生きる生き方でした。彼女は自信を喪失し、修道院を去ろうと思い詰めますが、そのときにある宣教師が、「Bloom where God has planted(神が植えたところで咲きなさい)」と書いてくれたことばが彼女の歩みを変えました。 “マルコ15章16〜34節「私たちの悲しみを担われた救い主」” の続きを読む

マルコ15章1〜20節「預言された王の道を歩まれたイエス」

2013年3月10日

世の多くの人々は、家内安全、商売繁盛や災いを退ける厄払いを願って神社に参拝します。そのような中で、「イエスを救い主と信じることによって、今ここで、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。私はしばしば、「どの人の人生にも闇の時期が訪れます。しかし、イエスに信頼する者は、痛み、苦しみ、悲しみの中にも、喜びと平安と希望を見いだすことができます。それを知っていることで、自分の損得勘定を超えて目の前の課題に真正面から向かう勇気をいただくことができるのです」と答えるようにしています。 “マルコ15章1〜20節「預言された王の道を歩まれたイエス」” の続きを読む

マルコ14章43〜72節「人の弱さを知っておられる救い主」

2013年3月3日

ペテロは確かに弟子たちのリーダーでした。カトリック教会の総本山はペテロの墓の上に立っており、まもなく異例の交代を迎えようとしているローマ法王はペテロの後継者と呼ばれています。それは根拠のないことではありません。確かに、イエスは弟子のペテロに向かって、「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩 (ペトラ) の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18) と言われたからです。そのように考えると、ペテロはよほど立派な人間であると思われて当然ですが、よくよく聖書を見ると、彼は救いようのないほどの偽善者、臆病者、嘘つきであることが赤裸々に記されています。
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ヨエル2章18節〜3章28節「主に呼ばれて主を呼ぶ者の集まり」

2013年2月24日

今も昔も、信仰者たちは、「おまえの神はどこにいるのか」(詩篇42:3,10)という嘲りを受けることがあります。私たちはそこで、「主は私たちの交わりの真ん中にいてくださいます」と答えるべきなのですが、ふと、「主が真ん中におられるなら、なぜ、どこの教会にもこうも面倒なことが起こるのでしょう……」と言いたくなることもあります。 “ヨエル2章18節〜3章28節「主に呼ばれて主を呼ぶ者の集まり」” の続きを読む

ヨエル1章1節〜2章17節「主に向かって叫ぶ者の幸い」

2013年2月17日

私たちはときに、「取り返しのつかない失敗を犯してしまった」という後悔に苛まれることがあります。しかも、その失敗から生まれたわざわいの背後に神のさばきを見るときに、絶望感が深まることがあります。 “ヨエル1章1節〜2章17節「主に向かって叫ぶ者の幸い」” の続きを読む

詩篇1篇〜2篇「問題に追われているとき」

2013年2月10日

何年か前ですが、健康診断を受けた時、いつもは低い血圧が上がっていることがわかり、驚きました。医者からは、「あなたには、血圧が上がりやすい傾向があるということを知っておいたほうがよいですよ……」と言われ、ショックを受けました。私は何が起きても動じない平静な心 (Serenity) にあこがれていました。牧師として二十四年がたち、すでに還暦を迎えるというのに、ストレスに弱く、いろんなことに心が敏感に反応してしまいます。 “詩篇1篇〜2篇「問題に追われているとき」” の続きを読む

ホセア13章〜14章「いのちの喜びの復活」

2013年2月3日

ポール・トゥルニエというスイスのクリスチャンの精神科医は、あるカトリック教会の司祭が、「私たちの教会に、意気消沈していて一人前の大人になり切っていない人が、これほどたくさんいるのは、いったいどこに原因があるのでしょう」と尋ねに来たとき、自分たちの教会も「過半数は生気がなく、もの悲しげで疲れた心の持ち主によって占められています」と答えざるを得ませんでした。 “ホセア13章〜14章「いのちの喜びの復活」” の続きを読む

マルコ14章26〜42節「強がりから自由になった祈り」

2013年1月27日

証券営業の仕事をしていた時、「上司からの余計な叱責を受けないための知恵」を教わりました。それは、営業目標の達成に関して少々不安があっても、「大丈夫です!お任せ下さい」と言い張ることでした。なぜなら、当時の営業店は、ノルマを果たせないと人間扱いされない世界でしたから、弱音を吐くと、上司を心配させ、自分の個性を殺すような介入を招いてしまうからです。要するに、人の干渉を避けるためには、強がっているのが一番なのです。しかし、そのような態度が身についてしまうと、神の前でも同じような態度を持ってしまうことになります。神は人間とは違い、私たちの個性を全面的に生かすことがおできになる方です。神に対しても強がる者は、真の意味での神の力を体験することができなくなります。
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