創世記2章4節〜3章24節「神のようになることの悲劇」

2014年7月6日

神は調和に満ちたすばらしい世界を創造してくださいました。しかし、この地には今、混乱と争い、不条理があります。それは人間が神のかたちとして生きるのをやめてしまった結果です。 “創世記2章4節〜3章24節「神のようになることの悲劇」” の続きを読む

Ⅰペテロ2章9節「王である祭司として生かされる」

2014年6月22日

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、
聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、
ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の
すばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」

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創世記1章1節〜2章3節「神の神殿としての世界の創造」

2014年6月15日

今回、自動車産業のメッカのデトロイト郊外の地で、現地に住む日本の駐在員の家族の伝道に熱心な教会を訪ねました。そこのカルチャークラスには、何と、300人もの日本人が出入りしています。その目玉は、survival English class(生き残りのための英会話)で、米国での生活に最低限必要な英語を教えるものです。 “創世記1章1節〜2章3節「神の神殿としての世界の創造」” の続きを読む

マラキ2章17節〜4章「主のさばきを侮る者へのさばき

2014年6月1日

バビロン捕囚からの帰還者は、最初は、感激に満たされて主の宮の再建に情熱を傾けましたが、やがて気力が萎え、再建工事は停滞しました。そのような中で預言者たちが民を励まして、神殿は完成しました。 “マラキ2章17節〜4章「主のさばきを侮る者へのさばき” の続きを読む

マラキ1章〜2章「神殿再建後の倦怠感の中で」

2014年5月25日

イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、約束の地に戻り、神殿を再建できました。その際、預言者ハガイは、ソロモンの神殿とは比較にならないほどに貧しい神殿を指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう……わたしはまた、この所に平和を与える」(2:9) と述べました。民は、このことばに励まされ、大きな夢を抱きながら、神殿を完成させました。 “マラキ1章〜2章「神殿再建後の倦怠感の中で」” の続きを読む

ヨハネ2章1〜11節「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」

2014年5月18日

日本の高度経済成長は僕の誕生の翌年の1954年から1973年までの20年間続きましたが、その末期1970年に流行った曲がビートルズのLet it be(そのままに)でした。世界的にも経済成長の限界が見られ、力づくでの問題解決への反省が生まれていました。 “ヨハネ2章1〜11節「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」” の続きを読む

ゼカリヤ12章〜14章「その日、一つの泉が開かれる」

2014年5月4日

私たちは目の前の問題の解決をいつも求めます。しかし、主の救いは常に、苦難のただ中に現されるものです。イエスはゼカリヤ書を読みながら、エルサレムを襲う苦難を知り、それに先立ってご自分が弟子たちから裏切られ、十字架にかけられるということを通して人々の悔い改めが生まれると知っておられました。 “ゼカリヤ12章〜14章「その日、一つの泉が開かれる」” の続きを読む

「福音の再発見」牧師会レポート(自由福音教会連盟牧師会 講演ノート)

20144月 高橋秀典

愛する家族を津波や地震で失われた方に、「神の怒りのさばきからの救い」というかたちで福音を提示することに葛藤を持つ方々が増えている。たとえば、原発事故の影響を始め、この世界で様々な悲惨を味わっている人に、「あなたは罪人であり、神はどんな小さな罪をもさばく方であられる・・・」という「悪い知らせ」で相手の恐怖心を煽って初めて、「イエスは罪からの救い主」という良い知らせを伝えることができるというアプローチは、本当に良いことなのだろうか・・・ “「福音の再発見」牧師会レポート(自由福音教会連盟牧師会 講演ノート)” の続きを読む

ヨハネ20章1〜23節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」

2014年4月20日

現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。 “ヨハネ20章1〜23節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」” の続きを読む

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

2014418日 聖金曜日

イエスは大祭司の尋問に対し、ご自分をローマ皇帝に匹敵する「神の子」と認めたばかりか、父なる神の右の座に就く、栄光の雲に座す方であると、ご自分が全地の支配者であることを証しされました。当時の宗教指導者たちが、イエスを、「神を冒涜する者」として死刑に定めたというのは、当時の常識にかなったことでもありました。 “「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」” の続きを読む