出エジプト15章22節〜18章「歓喜の後のつぶやき」

2015年3月29日

本日は教会歴では「しゅろの主日」と呼ばれる受難週の始まりの日です。イエスは十字架に架けられるたった五日前に、「ダビデの子にホサナ」というエルサレムの人々の歓呼の中を、エルサレムに入城しました。彼らはイエスがローマ帝国からの独立運動を勝利に導く救い主として期待していました。

しかし、イエスは何の抵抗もせずに捕らえられ、ローマ総督ピラトの前に立たされます。むち打たれたあとの惨めな姿を見て、人々は一転して、「十字架につけろ」と叫び、イエスをののしりました。この人々の心の移ろいやすさは、出エジプトの際のイスラエルの民に似ています。

彼らは海がふたつに分かれてエジプト軍の追撃から逃げて、主のさばきでエジプト軍が海に沈んだとき、心から主を賛美しました。彼らはモーセと共に、「主は輝かしくも勝利をおさめられた。馬と乗り手とを海に投げ込まれたゆえに・・・主(ヤハウェ)よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょう。だれがあなたのように聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、くすしいわざを行なうことができましょうか・・・主はとこしえまでも統べ治められる」(出エジ15:1,11,18)と歌いました。

しかし、荒野に入って食べ物が無くなると、エジプトを懐かしんで、そこで死んでいた方がよかったと、モーセとアロンにつぶやきます。イスラエルの民はこの後、基本的に何かあるたびにモーセにつぶやき続けます。イエスはまさに、このモーセに向けられた怒りを身に引き受けられたのです。

人は、しばしば、順調な生活を望む余り、試練の中で不平が募ります。しかし、肉体が筋肉トレーニングで引き締まるように、心にもある程度の負荷をかけなければしなやかになりません。

主のいやしは病を通して、主の満たしは渇きを通して、また、主の勝利は争いを通して初めて体験されるものです。私たちは平和な生活を望みますが、主は敢えて私たちを荒野へと導き、そのただ中で、ご自身を私たちに啓示されます。

しかも、私たちが苦しむ時、そこに意味を見出すことができるかできないかは、天と地との差があるのではないでしょうか。

1.「わたしは主(ヤハウェ)、あなたをいやす者である」

神は、葦の海をふたつに分けてイスラエルをエジプトの戦車や騎兵の追撃から救い出してくださいました。彼らはモーセに導かれながら、こぞって主に感謝の賛美をささげました。

しかし、三日間、荒野を歩き続け、ようやく見つかった水が「苦くて飲むことができなかった」時、彼らはモーセに「つぶやいて」「私たちは何を飲んだら良いのですか」(15:24)と言いました。そこには、怒り、不満、恨みなど、困難を人の責任にする身勝手な思いがあります。

一方、モーセは「つぶやく」代わりに、「主(ヤハウェ)に叫び」ました(15:25)。その時、主は彼に、「一本の木を示され・・モーセがそれを水に投げ入れると、水は甘くなり」ました。主はモーセの叫びにすぐに応えてくださったのです。その上で、「その所で、主は彼におきてと定めとを授け、その所で彼を試みられた」と記されます。

これは、主が、人の叫ぶのを待ち、不思議な解決の道を示し、それへの応答を見て解決をもたらすという基本原則を授けたという意味だと思われます。つまり、モーセはこの試みによって、問題解決の原則を身につけたのです。

その原則が「もし・・あなたの神、主(ヤハウェ)の声に確かに聞き従い(原文:聞いて聞く)、(自分にではなく)主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け・・るなら」(15:26)、つまり、徹底的に主に聴き、主の思いで心を満たすなら、「エジプトに下したような病気」、つまり、滅びをもたらすほどの病を「下さないという約束です。

なお、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたをいやす者である」には、ご自身が人の叫びに耳を傾け、「苦い」苦しみを「甘い」喜びへと変えてくださるという響きがあります。そのしるしが「エリム」という巨大なオアシスです。

「十二の水の泉」と「七十本のなつめやしの木」という数字には、十二部族、七十人の長老(24:1)などのように、すべてを満たすという意味があります。あなたの人生にも、困難を通しての「いやし」と、荒野の中でのオアシスが与えられます。

2.「主(ヤハウェ)に対する・・つぶやきを主が聞かれたから」

彼らは、エジプトから旅立ってちょうど一か月が経過した「第二の月の十五日」、シナイ山北方320㎞ぐらいの地にある「シンの荒野」に入りましたが、そこで今度は食べ物のことで、モーセとアロンにつぶやきました。

彼らは恐ろしいほどに過去を美化し、「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主(ヤハウエ)の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」(16:3)などと言ったというのです。

彼らはエジプトで過酷な労働で苦しめられ、生まれた男の子がナイルに投げ込まれるような悲惨を味わい、主に叫び求めたのですが、それを忘れて、過去に一瞬だけ味わったことを異常に拡大して懐かしんでいます。

人は目の前に悲惨があると、それをもたらした犯人探しをし、過去を異常に美化することで「つぶやくなどということがあります。残念ながら、多くの人は、苦難に会うと、だれかのせいにすることでようやく精神のバランスを保とうとする傾向があります。そして、そのとき非難の対象となるのは、それまで最も親身に世話し、援助の手を差し伸べてくえた人です。

日本のことわざに「さわらぬ神に祟りなし」などというのがありますが、実際、余計なお世話をしたせいで、いわれのない攻撃を受けるという現実があります。しかし、そのような中で、「見て見ぬふりをする社会」という愛に渇いた世界を作りだします。

私たちはそのような世的な知恵ではなく、困難の中にある人に積極的に手を差し伸べ、その結果として、いわれのない非難まで引き受けるという覚悟が求められています。パウロはコリント教会に向けて、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(Ⅱコリント12:15)と訴えましたが、残念ながら、それこそ愛することの報酬?と言えましょう。

しかし、私たちはそこで、自分はイエスの御跡に従っているという充実感を持つことができます。モーセ、イエス、パウロの歩みに共通するのは、助けることで恨まれるという理不尽です。

ところがここではそのような理不尽なイスラエルの民のつぶやきに対し、主(ヤハウェ)は、「見よ、わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」(16:4)という途方もない解決を示してくださいました。しかも、その理由について、「主(ヤハウェ)に対する・・つぶやきを主が聞かれたから」(16:7,8,9,12)という趣旨のことばが四回も繰り返されています。

神は、彼らをさばく前に、わがままを聞いてくださったのです。そしてその目的を主は、「わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であることを知るようになる」(16:12)ためであると述べられます。それは、主が彼らを、ご自分のかけがえのない子として見、育ててくださるからです。

その「夕方」、「うずらが飛んで来て、宿営をおおい」(16:13)ますが、それは体長二十センチぐらいのきじ科の鳥で、高くは飛べないほど太っていますから、小さいわりには栄養になります。

その上、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りましたが、それが上がると、白い霜、うろこのような細かいものがありました。それこそ神が与えてくださった天からのパンで、蜜を入れたせんべいのようにおいしく、マナと名づけられました(16:14,31)。それを各自が、自分たちの食べる分だけを集めましたが、不思議にも、「多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」(16:18)のでした。

ところが、明日のことを心配し、自分の分だけを残して置く者がいました。しかし、それは朝になると虫がわき、悪臭を放ちました。ここに、自分のためだけに富を蓄える空しさが示唆されます。

そして、主は、「六日目に・・二倍のパン」を集めるように命じ(16:22)、七日目に休むことができるようにさせました。安息日の教えが出てくるのは、創世記2章以後ここが初めてですが、六日目のパンだけは、翌朝まで保存しても臭くもならず、うじもわきませんでした。それにも関らず、民の中のある者は、七日目にも集めに出ました。しかし、何も見つかりませんでした。ここに主のみこころに反した働き方が徒労に終わるという原則が見られます。

主は、七日目に休むことを命じられるとともに、その労働の不足分をも満たして下さる方なのです。「人はパンだけで生きるのではない、人は主(ヤハウェ)の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8:3)とありますが、人はパンばかりに目を向けると無駄な働きで身体を壊します。しかし、主は、ご自身こそがパンの必要をも満たすことができる方であることを示されたのです。

なお、主はモーセに、「マナ」を「一オメル(2.3リットル)たっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ」と命じられ(16:32)、それを「つぼ」に入れて「あかしの箱の前」に置くようにさせました(16:33,34)。それは、主ご自身が、主の民の必要を満たしてくださることを忘れさせないためでした。

主は、このとき、イスラエルの民の「つぶやき」に怒りを発せられることなく、彼らのつぶやきをやさしく受け止めてくださいました。しかし、それはイスラエルの民を幼児として扱っているからに過ぎません。彼らが成長するにつれ、主は彼らに厳しく向き合うようになられます。そこで必要なのは、神を非難する態度ではなく、主にへりくだって必要を訴えることです。

3.「主(ヤハウェ)は私たちの中におられるのか、おられないのか」

彼らは今、「この山で、神に仕える」(3:12)という目的地のふもとの「レフィディム」にたどり着きました。ところが、そこには「飲む水がなかった」(17:1)ので、「モーセと争い」(17:2)ました。その際、彼らはまたも「モーセにつぶやいて」「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか」とまで言いました。そればかりか今回は、「石で打ち殺そう」(17:4)とさえしました。

モーセはすべてを犠牲にして、彼らのために働いて来たのに、何という理不尽な態度でしょう。彼らは、海がふたつに分かれて救い出されたこと、苦い水が甘い水に変えられたこと、巨大なオアシス、エリムでの休息、天からのパンの恵みなどのすべてを忘れたかのように、目の前の渇きに忍耐できずに怒るばかりです。

この情景を思い浮かべると、イエスがローマ総督ピラトの前で無力な姿をさらしていたときに、ユダヤ人たちが一斉に、イエスのことを「十字架につけろ」と叫んだ情景が重なってきます。イエスも男だけで五千人また四千人の人々にパンを与え、多くの病人を癒し、当時のユダヤ人に徹底的に寄り添っておられました。

しかし、当時のユダヤ人は何よりもローマ帝国の支配からの解放を望んでいました。イエスがその願望をかなえられないと分かったとたん、彼らはイエスに死刑を要求したのです。イエスを十字架にかけたユダヤ人たちとモーセを「石で打ち殺そうとして」いたイスラエルの民はまったく同じです。

しかし、モーセが主(ヤハウェ)に叫ぶと、主は答え、「あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう」(17:5、6)と再び不思議な解決を示されました。そして、驚くべきことに、岩から水が湧き出たのです。

その上で、「それで、彼はその所をマサ(試み)、またはメリバ(争い)と名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、『主(ヤハウェ)は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主(ヤハウェ)を試みたからである」(17:7)と記されています。

イスラエル人は、それまで、「雲の柱、火の柱」の導きとともに、様々な偉大なみわざを見ながらも、ここでは何と、主のご臨在自体を疑ったというのです。主がせっかくご自身のご臨在を目に見える形で現してくださっているのに、水がないことを神の不在のしるしと見てしまったのです。

彼らとしては、せっかく当面の目的地に着いたという思いがあり、そこは楽園とは正反対の不毛の地であったことに深く失望したのかもしれません。それにしても、それまでの導きは何だったのかと思います。

ですから、このことに関して、モーセは後に、「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主(ヤーウェ)を試みてはならない」(申命記6:16)と警告しました。

神は、創造主として人を試み、人の成長をもたらされます。しかし、人が神を試みるとは、神を自分の期待通りの姿に成長?させようとする傲慢さです。しかし、神はここでも、民の忘恩をさばく前に、彼らの渇きを癒し、彼らの信仰を育んでくださいました。

残念ながら、この世では、一回の失敗で、それまでのすべての信頼関係が崩れるなどということがあります。しかし、真の信頼関係とは、目先のことが自分の期待外れであっても、それまでのすべての歩みを振り返りながら、今、ここでの不条理と思える状況を、忍耐を持って待つことができることなのです。

ところで、オアシスの占有権は遊牧民にとっての死活問題でした。アマレク人はシナイ半島の荒野を行き来している遊牧民ですが、レフィディムに豊かな泉が湧いたことを耳にし、それを奪おうと攻撃をしかけて来ました(17:8)。これは、一つの民族とされた彼らにとっての、最初の戦いです。

このときモーセは、ヨシュアを司令官として指名しただけで、「神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」(17:9)。そして、実際の戦いでは、「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(17:11)のでした。そして、アロンとフルが両側でモーセの手を日が沈むまで支えることによって、「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った」(17:13)というのです。この剣は、紅海で全滅したエジプト軍が残したものだったのかと思われます。

手を上げるとは、祈りの姿勢です。それにしても、これは主(ヤハウェ)ご自身とアマレク人との戦いだったので、「主(ヤハウェ)は代々にわたってアマレクと戦われる」(17:16)と言われます。

神は後に、サウルを用いて彼らを絶ち滅ぼされました(Ⅰサムエル15章)。私たちも、すべての戦いを、神のご支配と観点から見直すようにしなければなりません。すべての戦いは霊的な戦いであり、勝利の秘訣は祈りです。

4.「あなたも・・この民も、きっと疲れ果ててしまいます」

モーセのしゅうとのイテロは、モーセの働きの様子を見て、助言をくれました。それは、彼が、軍務につく成人男子だけで60万人にもなる大集団の中に起こる事件をひとりで解決しようとしていたからです。それでは、さばきを待つ民も、モーセ自身も疲れ果ててしまいます。彼の務めは、何よりも、「神の前にいる」時間を優先し、「事件を神のところに持って行く」ことでした(18:19)。

そして、「モーセはイスラエル全体の中から力ある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた」(18:25)という秩序ができます。ただし、この集団は、生活の共同体と同時に、約束の地の先住民と戦う軍事組織でした。その点を考慮せずに、これを現代の教会にそのまま当てはめ、ピラミッド組織を作るのは注意が必要です。

モーセが直面していた真の危険は、争いの仲裁に夢中になって、神の御前に静まることができなくなることでした。指導者が「疲れ果ててしまう」(18:18)ことは群れ全体を危うくします。彼には、「ともに重荷をになう」(18:22)指導者を選び、育て、委ねる責任があるのです。

それにしても、百人と五十人の長は、治めるべき対象が重なると思われます。これは、百人をひとつのまとまりとして、複数の指導者を必要とするという意味とも考えられます。今回のドイツの航空機事故で、パイロットをひとりにすることの危険が再認識されています。

それにしても、モーセはしゅうとのイテロのアドバイスをすぐに実行することができましたが、それは彼が最初の四十年間エジプトの王宮で育って、部下を持って指導するという訓練を受けていたからかもしれません。少なくとも私自身のような育ち方をした者にとっては、とてつもなく難しいことに思えて来ます。

しばしば、この教えに従って、人に働きを委ねて行ったらよいのだと、安易にアドバイスされることがありますが、それを教会に適用することは非常な困難が伴います。軍隊や会社のような命令系統で、自主性を何よりも重んじる教会組織を動かすことはできません。それができるのは、よほどの特別なリーダーシップの賜物が必要です。それとも、アメとムチ、報酬と脅しという非聖書的な概念を組織に取り入れる必要があるのかもしれません。

私たちはイテロの結論以前にその動機を見るべきです。彼は、「あなたも・・この民も、きっと疲れ果ててしまいます・・・このことはあなたに重すぎますから・・・ひとりでそれをすることはできません・・・あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷を担うのです」(18:18,22)と言いました。

互いに「こうしたらよいのでは・・・」と言い合う前に、真剣に祈る必要があります。私たちが互いの弱さを認め合い、複数で共通の重荷を負い合うという関係が築けるなら、ある程度の組織化もできましょう。

それにしても、私たちは多かれ少なかれ、どこかでバランスを欠いた生き方をしてしまい、問題を引き寄せてしまいます。そして、波風の立たない平穏無事な生き方に憧れます。

しかし、主の救いは、荒野の生活の中でこそ体験されるということが分かるとき、自分で自分のバランスを保とうとする生き方から、主を見上げる生き方へと変えられるのではないでしょうか。主の再臨まで、問題は絶えることがありません。それを担う覚悟が求められています。

最近、「傲慢症候群」ということばが話題になっています。私たちはこの世界でいつも成功を目指して格闘するのは当然ですが、成功をして、それなりの権力を握ると、多くの人は人格が変わり出すそうです。

助言は求めず、まわりに耳を傾けず、万時につけおおまかなことに目が向いてしまい、ことの細部を気にしなくなる」というのです。そして、そのような人々は周りの人々を取り返しのつかない失敗に巻き込みます。

しかし、イエスの十字架を見る時に、私たちは成功の意味が変わります。イエスは十字架に向かう時、だれも傷つけませんでした。ご自分を十字架にかけた者たちやいっしょに十字架に架けられた強盗の事まで気にしておられました。

人間的な意味で何かを成し遂げることよりもいつも神の御旨を第一にしておられました。私たちはその方の犠牲によって救われたのです。イエスの十字架こそは、あらゆる成功の概念を覆すものです。

モーセは、イスラエルの民の身勝手な「つぶやき」に終生悩まされ続けました。キリストの教会を導くように召されている者にとっても、最大の試練とは、このような「つぶやき」に耐えることなのかもしれません。

当教会においても、いつの日かの時点で、牧師の交代が起きます。どうかそのときに、モーセとイスラエルの民との関係、イエスとユダヤ人たちとの関係は、決して他人ごとではなく、うっかりすると聖霊をそれぞれが受けているはずのキリストの教会でも起こることであるということを肝に銘じていただきたいと思います。

人に関わるとは、また、人を愛するとは、「つぶやき」を引き受ける道でもあります。それは教会の指導者ばかりか、すべてのクリスチャンにとっての課題です。私たちの慰めは、そのような不条理な痛みの中で、主イエスの十字架の苦しみを味わい、自分がイエスの御跡に従っているという健全な意味での誇りを持つことです。

また同時に、指導者を批判したくなったとき、自分がイスラエルの民と同じような状態になっていないかを謙遜に反省する必要もあるのではないでしょうか。私たちはみな、あまりにも近視眼的に、自分自身の置かれている状況からしか物事を見ることができない傾向があるのですから。