ヨハネ6章24〜51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」

2015年2月1日

後藤健二兄殺害のニュースが世界を巡り、イスラム国と称するテロリスト集団への残虐さが、日本人には理解できないかのように報道されています。しかし、今から四百年前、多くのヨーロッパの宣教師たちがはるばる船で来ましたが、その百数十人がこの日本の地で殺され、また、数万という日本のキリスト者が悲惨な死を遂げました。その残虐性はこの国にも存在しました。しかし、それは幸い、復讐の連鎖は生んでいません。なぜなら、死を遂げた方々は、憎しみではなく愛によって行動していたからです。

後藤健二兄は、あるインタビューの場面で聖書を持参し、詩篇54篇4節の「見よ。神は私を助けてくださる。主は私の魂を支えてくださる」(新共同訳)が自分にとっての支えであると語ったとのことです。その直前には、「見知らぬ者たちが私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます」と、まさに今回の状況が記されていました。彼の肉体の命は失われましたが、彼は自分のいのちが主イエスによって守られていることを確信して、愛によって生きようとしたのでしょう。それは本日の箇所で、イエスが三回に渡って、ご自分の民のいのちを守り通し「終わりの日によみがえらせる」と約束しておられるからです。

それにしても今回、「I am Kenji」というネットの書き込みが世界に広がっていました。それは人の痛みを自分の痛みとする兄弟愛の現れです。主の祈り後半部分最初では、「パンを、私たちに必要なものを今日もください」と、毎日祈るように教えられています。

そこで、問われているのは「私たちの」の枠の広さです。世界中の人々の必要を覚えながら、真心から祈るなら、餓死はなくなるとも言われます。なぜなら、先進諸国で無駄にされている食物の量は、貧しい人々の必要を満たして余りあるからです。多くの人々は、一生の間の安心を得ようとして、皮肉にも、いつも不安を先取りして生きています。一日一日の必要が満たされることに感謝できたら、悩みはぐっと減ります。

1.「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」

イエスはガリラヤ湖の北東部分の辺鄙な地で男だけで五千人にもなる大群衆にパンと魚を分ち合い、満腹させることができました。その後、「群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来」ました(6:24)。

彼らはイエスが湖の上を歩いて渡ったとは思いもよらなかったので、「湖の向こう側でイエスを見つけたとき」、「先生。いつここにおいでになりましたか」と尋ねました(6:25)。それは、彼らが向こう岸で、イエスを乗せる舟が一艘も残っていなかったことを知っていたからです。

それに対し、イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(6:26)と言われました。「しるし」とは、イエスへの信仰を生み出す神のわざですが、彼らはイエスご自身よりも、主が与えるパンの方に興味がありました。

それで主は、敢えて彼らの貪欲の問題を指摘しながら、「なくなる食物のために働いてはなりません。そうではなく、永遠のいのちにまで続く食物のため、それは人の子があなたがたに与えるものです。この者を、父すなわち神が認証されたから」(6:27私訳)と言われました。

そこで主は何よりも、なくなる食物に全人生をかけるような生き方をたしなめているのです。一方、永遠のいのちは、人が労して獲得するものではなく、「人の子が・・・与えるものであると強調されました。イエスがこのように言われたのは、彼らがパンの給食の奇跡を見た後で、イエスを王にしようとしたということがあったためです。彼らは自分たちの願望を満たしてくれるためだけのための救い主を求めていました。

それに対し、彼らは、「私たちは神のわざを行なう(働く)ために、何をなすべきでしょう」と、なおも、労し獲得する生き方を尋ねます。彼らの頭にあったのは、たとえば安息日律法を皆がそろって守るとか、また命をかけてローマ帝国の圧政と戦うような具体的な行動指針でした。

しかしイエスは、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(29節)と答えました。「神のわざ」とは、「神が喜ばれる働き」のことです。社会のシステムを変えるために何かの貢献ができることはすばらしいことですが、神が最も喜ばれる働きは、それ以前に、神が世の救いのためにご自身の御子を遣わしてくださったことを感謝を持って受けとめ、イエスに信頼することなのです。

多くの人々は、なくなる食物を得るために具体的に何かをすることで安心が得られると思っています。しかし、平安を体験する秘訣は、「永遠のいのちに至る(まで続く)食物」であるイエスご自身を、今ここで心に迎え入れることなのです。神が遣わされたイエスへの信頼こそが、最高の良い働きです。つまり、平安のみなもとは、神のみわざに心を開くことなのです。

そして、信仰の確信は、与えられたしるしにとどまり、それを思い起こすことによって深められるのです。目の前の環境を変えることに夢中になる生き方、獲得を目指す生き方は、絶え間ない争いと、さらなる渇きを生み出します。社会的な何らかの結果を出せたとしても、そこには平安がなく、当然、神の愛に満たされた交わりも生まれません。

マルティン・ルターが宗教改革運動を始めたとき、ルターは一方的な恵みによる救いばかりを強調して、人間の側の善行の必要性を否定しているという非難が沸き起こりました。それに対して、ルターは、主イエスが、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と言われたことを引用しながら反論しました。

人はしばしば、個人的な名誉心やまた義憤に駆られて善行に邁進することがありますが、そこに創造主への愛が欠けているなら、善行のはずがそこに争いやさばき合い、緊張感ばかりが生まれるなどということがあります。人と社会にとってどんなに良い働きと思えても、そこに喜びが伴っていないなら、真の意味で人々の心を変えるような働きにはなりません。

伝道者の書9章7-10節の次のようなみことばを味わってみましょう。

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな。日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に・・・これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから」

2.神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの

そのような会話の中で、そこにいる人々はイエスに向かって、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(6:30、31)と言いました。

この引用がどこからなのかに関しては諸説がありますが、詩篇78:23、24では、原文では代名詞の「彼」を用いながら、「しかし、彼は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた」と記されています。

当時の人々は、この「彼を」、神ではなく、モーセとして理解したのかと思われます。イエスは五つのパンで、男だけで五千人にのぼる人を満腹させました。それでも、彼らはイエスを神が遣わした救い主と認めることはできず、さらなる「しるし」として、モーセの場合と同じように、天からパンが降ることを求めたのです。

それに対し、イエスは、「モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります」と不思議なことを言われました(6:32)。これは、「モーセではなく、わたしの父が」という対比と、「天からのパンを与えた」という完了形と、「天からのまことのパンを与え続ける」という現在形の対比が記されています。

これはモーセがかつてイスラエルの民に、「あなたの神、主(ヤハウェ)は・・・私のようなひとりの預言者を起こされる」(申命記18:15)と言ったので。彼らは神よりもモーセが起こした不思議と見ていたのです。

それに対して、イエスはここで、天からのパンを与えたのはモーセではなくイスラエルの神であるというよりも、「わたしの父が与えた」と言われたばかりか、それは過去の一時期の事、すでに終わったことであると言いながら、今は、イエスの父なる神が、天からのパンを与え続けてくださると大胆なことを言われたのです。

そしてイエスは、続けて、「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」言われました。ここでは「神のパン」を擬人化して、その方が「天から下って来る方」であり、また、「世にいのちを与える方である」と記されています。

ところが、その意味を理解できなかった彼らはイエスに、現実のパンのイメージを拡大するようにして、「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」と願いました。それはイエスが「永遠のいのちへの水」の話をしたときにサマリヤの女がかつて、「私が・・もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と願ったのと同じです(ヨハネ4:14,15)。

多くの人間は、目の前のパンや水の問題の解決ばかりに心が向かいますが、イエスはその感覚に寄り添うように、力強く、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(6:35)と保証してくださいました。「わたしが・・です」という表現はここから何度も続きます。これは、6章20節でイエスが嵐の中、湖を歩いて弟子たちの舟に近づいて来た際に言われた「わたしだ(エゴー・エイミー)」、ご自身の神としての性質を表す表現です。

このみことばの背景にはイザヤ55:1,2があると思われます。そこでは終わりの日の希望が次のように記されています。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。銀を持たない者も、来て、穀物を買って食べよ。来て、銀を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、食糧にもならない物のために銀を量り、腹を満たさない物のために労するのか。わたしによく聴け。そして、良い物を食べ、たましいを脂肪で元気づけよ」と記されていました。

なお、これは、先に、天から下って来た神の御子イエスご自身が「世にいのちを与える方」であるということに対して、彼らが超自然的なパンばかりを意識したので出てきたことばです。多くの人々は、お金を獲得し貯めることで、身体の必要が満たされると思っていますが、お金は単なる交換手段に過ぎません。

お金で腹は満たされません。何よりもすべての食べ物は、創造主ご自身から与えられるということを忘れてはなりません。神の御子イエスとの交わりの中でこそ、気力が湧き、健康が守られ、家族、友人、職場などが与えられるのです。

「決して飢えることがなく・・・渇くことがない」というみことばは、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」という文脈の中で理解されるべきです。神の御子は、私たちの日常生活のただ中に降りて来てくださいました。何よりも大切なのは、先のイザヤ書でも、神ご自身が、「わたしによく聴け」と言っておられることばを味わうことです。

現実の生活の中では、いつも様々な問題や葛藤に直面せざるを得ません。しかし、イエスが聖霊として私たちの内側に住んでくださることの結果として、いつでもどこでも、イエスの父なる神に向かって「アバ、父」と祈ることができ、神が私たちの真の必要を満たしてください

ます。以下の詩は、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられており、「病者の祈り」または、「苦しみを超えて」という題でもよく知られています。今から百五十年ほど前の米国の内戦、南北戦争で、南部連合軍の傷病兵士が残したと言われています。

私は神に 大きなことを成し遂げるようにと 強さを求めたのに、慎み深く従うことを学ぶようにと 弱い者とされた
より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに、より良いことができるようにと 病弱さをいただいた。
幸せになれるようにと 豊かさを求めたのに、賢明であるようにと 貧しさをいただいた
人の称賛を得られるようにと 力を求めたのに、神の必要を感じるようにと 弱さをいただいた
いのちを楽しむことができるようにとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを楽しめるようにといのちをいただいた
求めたものは 何一つ得られなかったが、心の願いは すべてかなえられた
このような私であるにも関わらず、ことばにならない祈りはすべてかなえられた
私は あらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。

3.わたしを遣わした方のみこころは・・・ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです

そしてイエスはそこにいるユダヤ人たちに向かって、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(7:36,37)と言われました。

それは、彼らの不信仰を責めながらも、同時に、御父のみこころ次第で彼らはイエスのもとに来ることができるという意味ですが、ここでは何よりも、イエスはご自分のもとに導かれて来る者を決して捨てないということが強調されています。イエスの責任は、救われる人を選ぶことではなく、守ることであるというのです。これは私たちの信仰を守ってくださるのはイエスご自身の御業であるという意味になります。

そして続けてイエスは、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(6:38,39)と言われました。これは、イエスが保証してくださった私たちのいのちは、地上の肉体のいのちを超えて続くという意味です。

続けて主は、「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(6:40)と言われました。

「永遠のいのち」とは、現在のいのちが永遠に続くというのではなく、終わりの日の復活のいのちが、今この時から始まっているという意味です。

ところが、ユダヤ人たちは、イエスがご自分のことを「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、「イエスについてつぶやいた」というのです(6:41)。そして、彼らは互いに、「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか」(6:42)と言い合いました。彼らはイエスを自分たちと同レベルの人間と見ましたが、主はモーセのように人間の親から生まれた人ではありませんでした。

それに対して主は、弁明する代わりに、「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(6:43,44)と、権威を持って言われました。当時のユダヤ人はモーセを神の人としてあがめていましたが、実際には、彼らの先祖たちはモーセにつぶやいてばかりいました。彼らのイエスに対する態度は、モーセに対する態度と全く同じでした。

ここでイエスは、淡々と、イスラエルの神を「わたしを遣わした父」(44節)と呼びながら、イエスを主と告白する信仰が、人間の思いから湧き上がるのではなく「父が引き寄せ」てくださる結果であると述べました。ここでイエスは彼らを説得しようとするのではなく、信仰の現実をただ述べられたのです。

その上で再び、「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(6:44)とご自身の神としての力を明かされました。私たちの最終的な復活が三度も保障されています。

4.「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

そして、「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」(6:45)と言われました。

これは、「あなたの子供たちはみな、主(ヤハウェ)の教えを受け」(イザヤ54:13)ということばと、「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(エレミヤ31:34)ということばを意識したものと思われます。

私たちの信仰こそ、神が起こされた最高の奇跡なのです。なお、イザヤの文脈ではその前の54:7,8節に 「ほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されています。イエスはここで、ご自分こそがそのような救いの時代をもたらすと言われたのです。

イエスはさらに続けて、「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです」(6:46-48)と言われました。

それは、改めて、ご自身こそが「神から出た者・・父を見た」者であり、そのことを「信じる者」に「永遠のいのち」を生み出す「パン」を与えてくださると言われました。ここで大切なのは、イエスを信じるという人間の側の働きよりも、イエスを「いのちのパン」として受け入れるために、自分自身を開くことなのです。

イエスはさらに、天から降ってくるパンをしるしとして求める人々に、「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました」(49節)と、目に見えるパンに固執する生き方をたしなめました。地上のパンは一時的に人間の身体を生かすだけだからです。

それと同時に、ご自分のことを指しながら、「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです」(50節)と言われました。そればかりか、イエスは「わたしはいのちのパンです」以降をまとめるように、「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(51節)と驚くべきことを言いました。

目に見えるパンは単なる物質ですが、イエスは「生きているパン」だと言うのです。それは、イエスこそが、私たちの心とからだの両方を養って下さる、真のいのちのみなもとであられるからです。

なお、最初の人アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、神はいのちの木への道を封じられました。それに対して、イエスの肉こそは、私たちのための贖いとなることによって、この「世」に対して「いのちの木」への道を開くことになるというのです。なお、「食べる」とは、「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(47節)ということばの言い換えで、信じることを意味します。

私たちも、イエスご自身との交わりよりも、主が与えるパンや富のほうに目が向かってしまいがちです。その結果、肉体的には生きていても、人生の意味も目的も分からなくなることがあります。それは真の意味で生きていることにはなりません。

永遠のいのちとは、いのちの喜びが永遠に続くことです。しかも、それを与えるイエスへの信仰も、私たちの働きではなく、父なる神のみわざです。私たちはみな、自分の力で生きているかのように錯覚をすることがありますが、このいのちも信仰も、父なる神とイエスの協同の働きとして与えられているのです。

私たちは、『平安の祈り』において、「この世のいのちにおいては適度に幸せに」と祈るように召されていますが、箴言30章7-9節にはすばらしい祈りが記されています。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主(ヤハウェ)とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

イスラエルの民の荒野の四十年の旅路は、天からのマナによって守られました。そして今、イエスは、「わたしが天から下って来たのは・・・わたしを遣わした方のみこころを行うため・・みこころは、わたしに与えてくださったすべての者を・・・ひとりも失うことなく・・・終わりの日によみがえらせること」と言われました。

イエスが何よりも強調しておられるのは、私たちのいのちをこの世の荒野の旅路の中で守り通して、「正義の住む新しい天と新しい地」に、新しいからだでよみがえらせることです。

病者の祈りにあったように、私たちは表面的な失望の人生の中でも、「求めたものは 何一つ得られなかったが、心の願いは すべてかなえられた」と告白できるようになるからです。