福音書には、「さげすまれ、人々からのけ者にされた」救い主の姿が描かれています。それは人として最悪の苦しみです。人は最もひ弱な生き物であるからこそ、協力関係の中に生きる必要があります。孤立ほど恐ろしいことはなく、人はそこで精神を病むしかありません。 “イザヤ52章〜53章「見よ。わたしのしもべは栄える」” の続きを読む
ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」
米国の大統領は世界最強の存在ですが、不思議にも、何らかの依存症の傾向を持つ人がその座についています。しかし、隠されもせず、強がりを押し通すことがないことが、あの国の魅力とも言えましょう。 “ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」” の続きを読む
民数記11章〜14章「誰を恐れて生きるのか」
人は心の底で、「もっと良い生活があるはずでは・・・」という期待を持ちます。それは、「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者3:11)とあるように、人の心には、失われたエデンの園への憧れがあるからです。それは、エジプトから出たイスラエルの民にとっての「約束の地」への憧れと同じです。 “民数記11章〜14章「誰を恐れて生きるのか」” の続きを読む
民数記8〜10章「主が先立って歩まれる」
多くの人が落ち込むときの最大の原因は、自分の将来の希望が見えなくなったときです。しかし、そんなときでも、「あなたがたにはあすのことはわからないのです」と断言されると、かえって安心できるかもしれません。 “民数記8〜10章「主が先立って歩まれる」” の続きを読む
ヨハネ12章9〜26節「人の子が栄光を受けるその時」
この社会には様々な不条理が満ちています。私たちはその解決を政治に求めがちです。確かに、テロとの戦いや隣国との対立感情、貧富の格差の解消など、多くの熱い政治の課題があります。 “ヨハネ12章9〜26節「人の子が栄光を受けるその時」” の続きを読む
ヨハネ11章47節〜12章8節「ひとりの人が民の代わりに死ぬ」
イエスはご自身のことを、「わたしは良い牧者です」(10:11)と言われましたが、それはエゼキエル34章が預言する新しいイスラエルの王であるという意味でした。そこでは主(ヤハウェ)ご自身がご自分の羊を直接に世話し憩わせると約束しつつ、その方と一体として民を養う新しいダビデを立てると約束されていました。当時の人々にとって、それはイスラエルの民がローマ帝国の支配から解放され、新しいダビデ王国が誕生することを意味しました。 “ヨハネ11章47節〜12章8節「ひとりの人が民の代わりに死ぬ」” の続きを読む
民数記5章〜7章「主は私たちの交わりに真中に住まわれる」
仏教では「死」を、私たちが受け入れ和解すべき人生の常と観て、死の中に安静と苦悩からの救いを見る傾向があります。一方、日本の神道では、「死」を禊ぎ祓うべき「穢れ」と観ます。それは「生の破滅を防ぐ所以」と言われます。それは3500年前のモーセの影響を受けているのかもしれません。日本最古の書の古事記はたった1、300年前に記されたに過ぎないからです。 “民数記5章〜7章「主は私たちの交わりに真中に住まわれる」” の続きを読む
民数記1章〜4章「勝利を得るための交わり」
2016年1月31日
日本では、「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」ということばが謝罪の定型句になりがちです。そこにあるのは、人々に不安や混乱を与えること自体が、重大犯罪であるという感覚です。 “民数記1章〜4章「勝利を得るための交わり」” の続きを読む
マタイ28章16〜20節他「イエスに倣い神のかたちで生かされ、祝福を分かち合う」
私たちはみな小さい頃から、「この地で成功する」ようにと様々な訓練を受けています。そして、キリスト教会でも「弟子訓練」の大切さが説かれてきました。 “マタイ28章16〜20節他「イエスに倣い神のかたちで生かされ、祝福を分かち合う」” の続きを読む
ガラテヤ6章11〜16節「新しい創造をここで喜び、その完成を待ち望む」
英国の上流階級に生まれたフローレンス・ナイチンゲールは16歳の1837年2月7日に夏の別荘の庭で、神の召しを受けたことを、「God spoke to me and called me into His service」と日記に記しています。 “ガラテヤ6章11〜16節「新しい創造をここで喜び、その完成を待ち望む」” の続きを読む