イザヤ11章1〜10節「神の平和 (シャローム) をもたらす救い主」

2016年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。

それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。たとえば、しばしば聖誕劇では、ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。

ただ、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」(6節)と記されているだけです。それは、彼らが、ベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆しています。しかも、ギリシャ語ではしばしば主語が明記されなく動詞の形から主語を推測しますが、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)という際のふたつの動詞とも「男子の初子を産んだ」に続く三人称単数形です。つまり、飼い葉おけに寝かせたのはマリヤ自身であるということになります。出産を助けてくれる人が誰もいなかったのです。

また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。それは町はずれの洞穴の中だったとも推測されます。実は、ここで何より強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節)という一点なのです。なお、当時の宿屋は極めて粗末、かつ危険で、豊かな人々は親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でした。ところが、ヨセフは、「ダビデの家系であり血筋でもある」というのに、誰の紹介も受けられませんでした。つまり、彼らは「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」のです。

しかも、マリヤは誰の目にも出産間近と見えたことでしょう。それなのに、その粗末な宿にさえ入れてもらえませんでした。これは、住民登録で町が混雑していたからという理由ばかりではなく、彼らが誰からも相手にされなかったことを示唆しています。暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。

それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

「きよしこの夜」は世界中で最も有名なクリスマスソングです。以前から、この曲は、1818年のクリスマス・イヴに、ザルツブルグ近郊の小さな村のカトリック教会で、そこの司祭補助のヨゼフ・モールがギターで伴奏をしつつテナーで歌い、作曲者のフランツ・グルーバーがバスで歌ったのが始まりであると知られていました。それは、その教会にあった小さなポジティブオルガンが故障して音が出なかったからのようです。ところが、最近の1995年になって作詞者モールの直筆の歌詞が見つかり、この歌詞は2年前の1816年に既に作られていたことが分かりました。ただこの詩に合わせた作曲が1818年のクリスマス・イヴ直前であったことは確かなようです。

これを通して、作詞者のヨゼフ・モールの生涯に改めて注目が集まりました。彼は、1,792年の12月に、貧しさのために兵隊にならざるを得なかった男と、その一時滞在の場で出会った女性との間から生まれました。しかし、父はすぐに別の場所に移動になり、ヨゼフは父親を知らない私生児として育つことになります。結婚をしないまま彼を産んだ母は、人々の冷たい視線に耐えながら、極貧の中で彼を育てます。

ただ、ヨゼフの美しい声に注目した人が育ての親になってくれ、彼は神学校まで行き、教会で仕えられるようになりました。彼はただ、貧しい村の人々の間でギターを奏でて歌うのが大好きで、上司の司祭からは、「従順の霊に欠ける」と言われ、評価が低かったようです。そのためいろいろな教会を転々とさせられ、最後の十年は貧しい人々の学校を作って教えるとともに、自分の手にしたお金はすぐに貧しい人々に施しながら、極貧の中で病気になり、56歳で息を引きとります。しかも、彼は自分の書いた曲がどれだけ世界の人々を慰め、力を与えたかは知りもしませんでした。彼はもともと六節の歌詞を書いています。以下は原文を基にした私訳です。

1.静かな夜、聖なる夜。すべてが寝静まっている。
  信頼し合う、聖なるふたりだけが目覚めている。
  愛らしい巻き毛の赤子が、天的な平安のうちに眠っている。
  天的な平安のうちに眠っている。

 2.静かな夜、聖なる夜。神の御子が何と、微笑んでいる。
  その気高い御口からの愛をもって。
  救いの時が私たちについに到来した。イエス、その誕生の時、
  イエス、その誕生の時。

3.静かな夜、聖なる夜。この世に御救いがもたらされた。
  まばゆく輝く天の高みから。
  満ち溢れる恵みが私たちに現された。人の姿のイエスにおいて、
  人の姿のイエスにおいて

4.静かな夜、聖なる夜。そこに今日、すべての御力が、
  御父の愛から、溢れるように注がれている。
  慈愛に満ちた兄として抱擁してくださる、イエスが世界の民を、
  イエスが世界の民を。

5.静かな夜、聖なる夜。はるか昔から私たちを思い、
  主はご自身の御怒りを鎮めようとされていた。
  御父は、はかり知れないご計画の中で、全世界への祝福を約束された、
  全世界への祝福を約束された。

6.静かな夜、聖なる夜。羊飼いたちは最初に御告げを受けた。
  御使いたちの「ハレルヤ!」によって。
  その声は、遠くに近くに響き渡る。「救い主イエスが今ここに」、
  「救い主イエスが今ここに」と。

私生児として生まれたヨゼフ・モールであるからこそ、居場所がない者の仲間となるために人となられた神の御子イエスの愛が、誰よりも身に沁みたのではないでしょうか。イエスは、父ヨセフの正式な子として産まれましたが、血のつながりはありませんでした。人間的には、私生児と似た境遇とも言えましょう。

この歌詞には、「平和を作りましょう!」という呼びかけは記されていませんが、全能の神であるはずの神の御子が、ひ弱な赤ちゃんとして現れ、その気高い、御口の微笑みによって、私たちの心の中にある怒りや憎しみの思いを消してくださることが歌われています。また、人となられた神の御子を通して、神の愛が目に見えるように私たちの前に現されたことが歌われています。そしてまた、イエスが私たちのすべての痛みや悲しみを知る「兄」として私たちを抱擁してくださることが、告げられ、歌われることで、心が柔らかくされます。

第一次世界大戦が始まった1914年のクリスマス・イブ、北フランスの地で、ドイツ軍とフランス、スコットランド連合軍が対峙していました。ドイツ軍の陣地で真夜中に光が灯りました。何かと思うとドイツ語で、Stille Nacht! (静かな夜)、Heilige Nacht!(聖なる夜)と聞こえて来ました。

それに応じて、スコットランド軍もバグパイプの音色と共に、Silent Night! Holy Night!と応じて歌い出しました。その後、双方の兵士たちは銃を置いて中間地点に集まり、クリスマスの祝福を述べあい、食べ物を分ち合い、フランス軍はシャンパンを分ち合ったとのことです。

その話を基に、「戦場のアリア」という映画が2005年に上映され、世界中の人々に感動をもたらしました。

ところで、救い主の現われと、その方がもたらしてくださる世界のことが、イザヤ11章に記されています。

最初に、「エッサイの根株から新芽が生え」と記されますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。

救い主は人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「主(ヤハウェ)霊がとどまり」ます。そして3-5節では「この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し・・・正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」と記されます。

神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人間に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。

そこで、神の御子である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。そして、その救い主が実現してくださる平和が次のように記されています。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて」(6節)という描写には、食べる側と食べられる側の関係の変化が描かれています。つまり、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

そして、「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。かつて、人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていました。ですからそのときは、熊も獅子も、牛と同じように草を食べることですべての栄養が足りていたのです。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。

また、「乳飲み子がコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」(8節)とは、エデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意」(創世記3:15)が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

神の御子が生まれて間もなく、ヘロデ大王はベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにします。それを思う時に、イエスはまさに乳飲み子として、「コブラの穴の上」に置かれたような状態であったことが分かります。

しかし、「きよしこの夜」の歌詞では、その赤子のイエスから、世界を変える愛に満ちた微笑みが見られたと歌われています。一見、何もできないひ弱な赤ちゃんとなれた「救い主」は、人の目には見えなくても、天の御父の愛の御手の中でしっかりと守られていました。この世界では、必死に自分を守ろうとする防衛本能から、先制攻撃という戦いが始まります。自分を守ろうとすることが戦いを生むというのは、何という皮肉でしょう。

それに対し、赤子の姿で現れた救い主イエスは、何もできないようでありながら、すべてを支配する神の御手の中で安らいでいました。私たちも同じように、天の父なる神の愛の眼差しのうちに守られているのです。

多くの人が、自分は神に愛される資格がないと自己嫌悪に陥っています。しかし、神の喜ばれる信仰とは、欠けだらけのままの自分が、天の父なる神から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけられていることを覚えながら生きることに他なりません。

それは肉の親子関係を見ても分かります。ほとんどの親は、欠けだらけの自分の子を、無条件に愛しています。そして、親にとって一番の悲しみは、その愛を子供が分かってくれないことです。自分の罪深さを見る前に、御父の愛を知ることこそ信仰の始まりなのです。

なお、9節の「わたしの聖なる山」とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になります。現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。

しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」という状態になるので、宗教戦争などはなくなります。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです(エレミヤ31:34)。

つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が創造主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「主(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされるのです。

私たちが求めるべきことは、何よりも、私たち自身が、主をより深く知ることと、より多くの人々が主を知るようになることなのです。

たとい、私たちが。この世界の悲惨に涙を流しているとしても、救い主がこのイザヤ11章に記された神の平和と繁栄(シャローム)を実現するためにこの世界に降りて来てくださったことを思い巡らすとき、そこに希望が生まれます。それは、聖書の預言がひとつひとつ成就していったように、神がご自身の御子を通して、この世界を、神の平和(シャローム)に満ちた状態へと変えられることを信じられるからです。

私たちは、この世界がシャロームの完成に向かっているということに、心の目を向けながら、いつでも喜ぶことができるのです。