ルカ2章1〜19節「飼い葉桶こそ、救い主のしるし」
「あればあるほど、不足を感じる」ものこそ、お金と信用と力ではないでしょうか。事実、ある程度のお金を手に持つと次から次とやりたいことが生まれます。それは自己中心の罠である前に、社会の役に立ちたいと思う人にこそ起きる現実とも言えます。貧しい人にパンと住まいを提供したいと熱い情念を持ったら、いくらお金があっても足りませんし、信用と力を持っていないと人々の協力も得られません。 “ルカ2章1〜19節「飼い葉桶こそ、救い主のしるし」” の続きを読む
2017年12月10日
私たちはクリスマスのたびに、「闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る」(イザヤ9:2)と読みながら、神の民が「救い主」の到来を待ち続けていたと語ります。ここには逆説が込められています。それは闇のただ中に置かれ続けながら、そこで希望の「光」を見続けるという意味です。 “Ⅱサムエル5章4節〜7章19節「ダビデからキリストへ」” の続きを読む
2017年12月3日
あなたの前に、「目の上のたんこぶ」のような人がいないでしょうか。ダビデは、サムエルから王としての任職の油注ぎを受けたとき、「紅顔の美少年」でした。彼が強くなるにつれ、サウルからの迫害が激しくなり、彼はその状況に十数年間は耐えたと思われます。 “Ⅱサムエル1章〜5章5節「神の時が満ちるのを待つ」” の続きを読む
2017年11月26日
会社勤めをしていた時、ついつい被害者意識で一杯になり、目の前の最低限の課題を果たすことしか見えなくなりがちでした。そんなとき上司から、「社長になったつもりで、もっと高い視点から自分の仕事を見なければならない」と言われました。実は、キリスト者として生きるとは、「イエス様だったら、どうされるでしょう(What would Jesus do?)」と問いかけながら生きることとも言えます。 “エペソ1章15節〜2章7節「私たちに与えられた救いとは」” の続きを読む
2017年11月19日
私たちは父、御子、御霊の三位一体の神の愛に包まれて生きています。それを、「キリストのうちにある生活」と呼ぶことができます。
私たちは今、イエス・キリストの弟、妹として、その傍らに置いていただき、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることが許されています。しかも、そのような祈りを起こしてくださるのは、私たちのうちに住んでくださっている「聖霊」ご自身です。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と告白することはできません」(Ⅰコリント12:3)と記されているからです。 “エペソ1章1〜14節「三位一体の神の愛に包まれたいのち」” の続きを読む
2017年11月12日
目の前の問題にどう対処して良いか分からず、不安に圧倒される人がいます。また、自分の過去の誤った選択を後悔し続ける人がいます。しかし、「キリストのうちにある生活」にあっては、誤った選択というのはないのかとも思います。 “Ⅰサムエル27章〜31章「あなたの明日を支配する主」” の続きを読む
2017年11月5日
人から不当なことばをかけられ、怒りのあまりひどい言葉を返したことがないでしょうか。人の悪には驚くほどの伝染力があります。ひどい仕打ちを受けた方が、「神様の目は節穴ではないから……」と言って、争いから身を引きました。やがて神はその立場を逆転させてくださいました。 “Ⅰサムエル25章〜26章「神の怒りにゆだねなさい」” の続きを読む
2017年10月29日
プロテスタント教会にとって、10月31日はハロウィンの日ではなく、宗教改革記念日です。マルティン・ルターは五百年前のこの日に、ウィッテンベルグの城教会の門に、免罪符に抗議する95箇条の提題を張り出したと言われます。 “Ⅰサムエル22章〜24章「恐れを祈りに変えたダビデ」” の続きを読む
2017年10月22日
私たちは関係の中に生かされています。ですから、いつも誰かのために生きることによってこそ、私たちが真に人間らしく生きられるとも言えます。
しかし、依存関係にならないため、人と人との距離感は大切です。あくまでも、「イエスのために」、人間の奴隷となることなく、人々に「仕える」生き方をするのです。 “Ⅱコリント4章5節「自分ではなくイエスを宣べ伝えるとは?」” の続きを読む