Ⅰサムエル22章〜24章「恐れを祈りに変えたダビデ」

2017年10月29日

プロテスタント教会にとって、10月31日はハロウィンの日ではなく、宗教改革記念日です。マルティン・ルターは五百年前のこの日に、ウィッテンベルグの城教会の門に、免罪符に抗議する95箇条の提題を張り出したと言われます。 “Ⅰサムエル22章〜24章「恐れを祈りに変えたダビデ」” の続きを読む

Ⅱコリント4章5節「自分ではなくイエスを宣べ伝えるとは?」

2017年10月22日

私たちは関係の中に生かされています。ですから、いつも誰かのために生きることによってこそ、私たちが真に人間らしく生きられるとも言えます。

しかし、依存関係にならないため、人と人との距離感は大切です。あくまでも、「イエスのために」、人間の奴隷となることなく、人々に「仕える」生き方をするのです。 “Ⅱコリント4章5節「自分ではなくイエスを宣べ伝えるとは?」” の続きを読む

ヨハネ21章15〜25節「あなたは、わたしに従いなさい」

2017年10月15日

日本では、「茶道」「華道」「書道」「剣道」「柔道」などのように特定の「道を究める」ことが大切にされます。それと同じように信仰の歩みを、クリスチャンとしての礼儀作法を身につけて「キリスト道」を究めるかのように、無意識に考えてしまっていることはないでしょうか。 “ヨハネ21章15〜25節「あなたは、わたしに従いなさい」” の続きを読む

Ⅰサムエル19章〜21章「信仰と友情」

2017年10月8日

フーストン先生の本の原題は、「the Christian Life East and West(東洋と西洋でのクリスチャン生活)」ですが、そこで改めて感じたのは、人と人との関係の築かれ方の違いです。西洋とはギリシャ・ローマ文明の影響下にある文化圏ですが、その古典では、友情に関しての様々な物語や教えがあります。一方、東洋では、儒教文化の影響下で、個人と個人の友情よりも主従関係の絆で社会の秩序が守られるという価値観がありました。 “Ⅰサムエル19章〜21章「信仰と友情」” の続きを読む

Ⅰサムエル16章〜18章「おびえるサウルと主にまっすぐなダビデ」

2017年10月1日

「神経科学者たちは、恐怖こそが私たちの人間としての基礎的感情であり、脳の視床の下部で感じられると言います。多くの独裁者たちは卓越した力を身につけ、力の神として支配することを狙っています。しかし、そうすればするだけ、彼ら自身が恐怖にのみ込まれて行くのです」とフーストン氏は記しています(「キリストのうちにある生活」P67)。 “Ⅰサムエル16章〜18章「おびえるサウルと主にまっすぐなダビデ」” の続きを読む

ヨハネ21章1〜14節「新しい時代に生きる者として」

2017年9月24日

イエスの復活によって世界は新しい時代に入っています。「新しい創造(New Creation)](ガラテヤ6:15)はすでに始まっています。しかし、多くのキリスト者は、古い生き方に縛られ、新しい時代の生き方に適応しきれていないのかもしれません。 “ヨハネ21章1〜14節「新しい時代に生きる者として」” の続きを読む

Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」

2017年9月17日

ヘンリ・ナウエンは自己嫌悪の危険性について次のように語っています。「人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自分を嫌悪することです。成功や名声や権力は、実際、大きな誘惑をもたらします。しかし、それらに人が魅了されるのは、自己を嫌悪するという、もっと大きな誘惑から出ていることが多いのです。 “Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」” の続きを読む

Ⅰサムエル13章〜15章「人の顔色を気にしたサウルの悲劇」

2017年9月10日

日本では「その場の空気を読む」ことが、社会での成功の秘訣とも言われます。しかし、空気は一夜にして変わります。大戦前に鬼畜米英と言っていた世論は、米国への感謝へと変わりました。 “Ⅰサムエル13章〜15章「人の顔色を気にしたサウルの悲劇」” の続きを読む

Ⅰサムエル8章〜12章「主(ヤハウェ)こそが王である」

2017年9月3日

核兵器の拡散に対して私たちは誰もが反対することでしょう。しかし、米国やロシアや中国に保有が認められて、他の国がそれに対抗しようとすると、それは一方的な悪であるかのように非難されるというのも不合理とも言えましょう。ただ、そこで問われているのは、すでに核兵器という悪が存在している中で、どのようにそれを制御し得るかという知恵です。そこで問われるのは、今ここでの判断と共に、永遠の平和を求めるという動機です。 “Ⅰサムエル8章〜12章「主(ヤハウェ)こそが王である」” の続きを読む

Ⅰサムエル4章〜7章「礼拝の場を壊して礼拝を建て上げる神」

2017年8月20日

どの宗教にも荘厳な儀式がつきものです。ただ、そこで語られている言葉が普通の人には理解できないということが不思議です。

たとえば、仏教の最も有名な経典の般若心経では、「色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是」と唱和されます。そこでは、形あるもの全ては実体がなく、実体がないものが形を持っており、それは人の感覚、想像、行動、認識の全てに当てはまることであり、そのように移ろい行くものへの囚われから心が自由にされるなら、毎日を平安のうちに暮らすことができるという、生活の知恵のことばです。 “Ⅰサムエル4章〜7章「礼拝の場を壊して礼拝を建て上げる神」” の続きを読む