詩篇131篇「乳離れした児のように」

2019年3月10日 

詩篇131篇は120篇から134篇まで続く「都上りの歌」の一つで、これらの中心主題はエルサレム神殿への巡礼の旅です。私たちも「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んで……はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白」しているという旅の途中にあります(ヘブル11:9,13)。

私たちは今、ここでの生活が、旅の途中にあると思えば、少々の居心地の悪さに耐えることができます。また様々の分からないことがあっても、「やがて分かる」という希望の中で「待つ」ことができます。 “詩篇131篇「乳離れした児のように」” の続きを読む

ヘブル7章1〜25節「私たちを完全に救うことができる大祭司」

2019年3月3日 

人は何かのすばらしさを説明する時、「あれにはこのような問題があったけれども、これは、このような点ではるかにまさっている」というように、以前の問題点を明らかにしながら良い物を提示するという発想が身についています。そのような発想で、「旧約には大昔の厳しい教えがあるけれど、新約には神の優しがが満ちている……」などと言われることがあります。そのうちに、「新約聖書と詩篇だけあれば神様のことは分かります。救いの基本とは、イエス様を信じることで罪が赦され、たましいが天国に憩うということですから……」と、福音を過度に単純化しかねません。 “ヘブル7章1〜25節「私たちを完全に救うことができる大祭司」” の続きを読む

詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」

2019年2月24日 

イエスの時代のユダヤ人にとっての神の「救い」とは、ローマ帝国の支配から解放されて、ダビデ王国の栄光が回復されることでした。それは「バビロン捕囚からの帰還」、「新しい出エジプト」と呼ぶことができます。

バビロン帝国によってエルサレム神殿が破壊された70年後に、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ユダヤ人のエルサレム帰還が許され、神殿が再建されましたが、それは捕囚の終わりとは言えません。彼らはなおペルシャ帝国の支配下にあったからです。 “詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」” の続きを読む

ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」

2019年2月3日 

しばしば、多くの人は聖書に誤った問いかけをして、混乱してしまいます。その一つに、「一度、救いの喜びを体験した人が、サタンの攻撃に屈して、信仰を失うことがあるだろうか?」という問いがあります。ヘブル書6章1-8節は、それに明らかに「そのとおり」と語っているように見えます。そして、諸教会の現実としては、洗礼を受けた人々の半数以上が、信仰から離れるという悲しい現実があるとも聞きます。 “ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」” の続きを読む

詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」

2019年1月27日 

今から50年前、米国はベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいる中で、Love & Peaceを掲げた反戦運動が盛になっていました。残念ながら当時の米国においては、キリスト教は戦争を正当化する宗教と見られていました。 “詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」” の続きを読む

ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」

2019年1月20日 

福音派の教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「あなたは救われたのです」と喜び合います。それは誤りではありません。しかし、その後の生き方に成長が見られないばかりか、教会から離れる人さえいるという現実を見ると、「神のかたちとして成熟を目指して生き始めるスタート台に立った」という面の強調も必要かと思わされます。 “ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」” の続きを読む

詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」

2019年1月13日 

サラリーマン時代、「主の教えを喜ぶ人は……何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。主の教えを喜びながらも次から次と厳しい試練に会う人がいるからです。 “詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」” の続きを読む