イザヤ48章12〜22節「あなたの平安は川のようになったであろうに」

2019年10月13日 

多くの人々は、天国の祝福以前に、地上の歩みにおける平安を求めていますが、旧約聖書でも、死後の希望以前に、地上的な苦しみと「平安 (シャローム)」のことが書いてあります。

私たちの人生にはストレスの種が満ちていますがアーロン・アントノフスキーというユダヤ人の医療社会学者は、ナチスの強制収容所という想像を絶するストレスを体験したユダヤ人を徹底的に調査した結果、その後に心の健康を回復して人生を豊かに生きた人の割合が予想外に多いという事実を発見します。

そこから首尾一貫感覚 (Sense of Coherence) という「世界に対するある種の向き合い方」が心の健康に何よりも大切であるということを提唱するようになりました。多くの人は「病気になる要因を減らすこと」を考えますが、それよりもはるかに大切なのは「ストレス対処能力、健康保持能力などの生きる力」が養われることと言えましょう。

私たちは小さい時から、様々な問題を解決する能力が訓練されてきています。キリスト教会のカルチャーも、目の前の問題を解決する方向にばかり向かう傾向があるかもしれません。しかし、問題を抱えながら、変わることのない礼拝式の中に身を置くというのも良いのかもしれません。

人には明日のことはわかりませんが、私たちは明日を支配する神を知っています。私たちはどんなに弱くても、私の神には不可能がありません。私たちの人生には、「何で私ばかりがこんなひどい目に……」と思うようなこともありますが、私の神は、それらすべてを益に変えてくださるという確信を持つことができるからです。

その生ける神との交わりの中で、「あなたの平安は川のようになる」という約束をこの地上で体験するのです。

1.「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ」

神はイスラエルの背きの罪に対して激しい苦難を与えましたが、それは彼らを反省させ、神に立ち返らせるためでした。しかし、それは、「イスラエルの神は、自分の民を守ることができない……」と誤解される可能性も秘めていました。

また、現実にイスラエルの民をバビロン捕囚から解放するのは45章1節に記されていたペルシャの王キュロスですが、彼こそが神として崇められる可能性がありました。

キュロス2世

それに対して主 (ヤハウェ) は、「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ  (I am He)。わたしは、初めであり、また、わたしは、終わりである」(48:12) と言われます。これは「(ヤハウェ) こそが歴史の支配者である」ことを改めて強調する表現です。

そして主は、「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を延べ広げた。わたしが呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる」(48:13) と、ご自身こそがこの世界を自由に動かしているのだと強調します。私たちはこの目に見える世界が、神の一言の呼びかけで簡単に動くということをどれだけわきまえているでしょうか。

その上で主は、「みな集まって聞け」(48:14) と言いながら、ご自身の奇想天外な救いのみわざを語られます。それは、「 (ヤハウェ) は彼を愛された。彼が主のみこころをバビロンに行う。主の御腕はカルデヤ人に向かう」(私訳)というものです。それは、主がペルシャ王キュロスを用いてバビロンを滅ぼすことを意味します。

そして、主は、「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ。彼をわたしが来させた。彼はその道で成功を収める」(48:15) と、主ご自身がキュロスに勝利を与えると言われます。

さらに主は、「わたしに近づいて、これを聞け。初めから、隠れた所で語ってはいない。それが起こった時から、わたしはそこにいた」(48:16) と、キュロスの勝利は、神がご自分のみわざを預言したことの成就であると言われます。

かつて、「まことに、あなたはご自身を隠す神」と告白されていましたが (45:15)、その神がキュロスを立てるのはご自身であることを、これが起こる前から告げておられたというのです。それは預言者によって明らかにされました。

それでイザヤは、「今、主、ヤハウェは私と御霊を遣わされた」と敢えて、これがご自身を隠す神による特別の啓示であることを強調しています。なお、『私』をイエスに当てはめると、父なる神が御子と御霊を遣わされたという三位一体の神秘を表しているとも解釈できます。

2.「わたしの命令に耳を傾けさえすれば……」

17節の初めは、「(ヤハウェ) はこう仰せられるーこの方は、あなたを贖うイスラエルの聖なる方」と記されています。これは当時としては、主 (ヤハウェ) がイスラエルの民をバビロン捕囚の状態から解放することです。

ただ現代の「あなた」に語りかけておられる方は「あなたを贖う方」でもあります。パウロは「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることも待ち望みながら、心の中でうめいています」(ローマ8:23) と、復活の身体が与えられることを切実に待ち望んでいましたが、そのような最終的な「救い」を保証してくださる方の宣言がここから始まります。

最初は、「わたしは主 (ヤハウェ)、あなたの神」と記され、十のことばの書き出しと同じで、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。

続いて、「あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道に導く」と記されますが、これは私たちが右か左の選択に悩むときに、どちらが良いかが示されるというよりは、日々の生活において何を優先するかという導きが明らかにされることです。

そして、「わたしの命令に耳を傾けてさえいれば……」とありますが、それは、何かの具体的な義務を果たすというより、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛する」(申命記6:5) という心のあり方を指しています。それは戒律で自分を窮屈にするということではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。

そしてそのように生きるときの祝福が、「あなたの平安は川のように、あなたの正義は海の波のようになったであろうに……」と約束されます。「平安」とは原語でシャロームと記され、平和ということ以上に繁栄とか「しあわせ」とも訳すことができ、すべての必要が満たされている完全な状態を指します。

また、「正義は海の波のようになったであろうに」とは、誰にも屈する必要のない力を現わします。神はかつて、「義が平和をつくり出し」(32:17) と言っておられましたが、正義と平安は切り離せない関係にあるのです。

その祝福がより具体的に、「あなたの子孫は砂のように、あなたの中から出る者は真砂のようになったであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもなかったであろうに」(48:19) と描かれます。

これは、神が一人子のイサクを惜しまなかったアブラハムへの祝福を、「あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす……あなたが、わたしの声に聞き従ったからである」と約束されました (創世22:17、18)。聖書が語る「祝福」とは、極めて現実的な身近なことを意味しました。

3.「彼らは渇くことがなかった……悪しき者には平安がない」

バビロンから出よ。カルデヤから逃れよ。喜びの声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで届かせて、言え。『主 (ヤハウェ) が、そのしもべヤコブを贖われた』」(20節) との訴えは、神がキュロスを通してイスラエルをバビロン帝国から解放することに対して、喜びをもって応答するようにとの勧めです。聖書の示す第一の救いは「出エジプト」ですが、これは「第二の出エジプト」と呼ぶことができます。

第一の「出エジプト」は、モーセに率いられてまとまって約束の地に向かいましたが、この「出バビロン」は、各自の判断に任されていました。「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンで生活の基盤を作っていましたし、ペルシャ帝国による少数民族保護政策によって一定の自由が与えられたからです。

彼らはアブラハムの出身地ウルに近い所に住んでいましたが、主はアブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって、心地よい住まいを離れて、約束の地に向かうことを勧めています。

ティグリス・ユーフラテス両河地域

その際、第一の出エジプトのことを、「彼らは渇くことがなかった。主がかわいた地を通らせたときも、彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた」(48:21) と思い起こさせながら、今回も、神は約束の地への旅を祝福すると保障されます。これは従ってみて初めて分かる「祝福」です。

最後に「『悪しき者には平安 (シャローム) がない』と主 (ヤハウェ) は仰せられる」(22節) と記されますが、これは先の、「あなたの平安は川のようになるであろうに」(48:18) と対照的で、48章全体のまとめのことばと言えましょう。

私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように常に召されているのです。

イエスは十字架において、この世のサタンの勢力に打ち勝たれ、恐れ閉じこもっている弟子たちに復活の身体を現わされ、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われました (ヨハネ20:21)。これはストレスに満ちた世界の中で体験する神の平安です。

多くの人々はストレスの種を避けて生きようとしますが、そこに待っているのは、互いに孤立した、退屈な人生に過ぎません。「あなたの平安は川のようになったであろうに」とは、バビロンの偶像礼拝に結び付いた権力や富に頼って生きようとする者に、主に従う歩みに踏み出すようにというチャレンジです。

現在も大バビロンの支配が続いており、私たちは一瞬一瞬、主に従うかこの世の平安を求めるかの選択を迫られています。しかし、主は常にあなたと共におられ、あなたのために真の平安に至る道を開き続けてくださいます。私たちは平安 (シャローム) が満ちる新しい天と新しい地に向かっています。