ヘブル13章8節〜25節「イエスの辱めを身に負い、天の都を目指す」

2019年9月1日 

この日本の社会ではキリスト者はある程度の尊敬を受けられる可能性があります。私の学生時代の友人や職場の同僚も、私がキリスト教会の牧師であることを喜んでくれる人がほとんどです。それは明治以降の先輩クリスチャンや初期の宣教師たちの生き方が、評価されているおかげとも言えます。

しかし同時に、私たちは日本人の心に深く根差した先祖崇拝の慣習の中で、様々な誤解や非難を受けることがあります。そのとき身近な人々の評価は一変します。ヘブル人への手紙を受けた人々も、当時のユダヤ人社会から、自分たちが命がけで守ってきた習慣を否定する者として、非難され、迫害されました。しかし、そのようなとき、私たちの主ご自身が、人々から不当な非難を受け、辱められたということを忘れてはなりません。

クリスチャンであることが社会的に評価されることは悪いことではありませんが、それがゆえに、人々の評価を気にする信仰生活になってしまうなら、まさに本末転倒です。私たちは「イエスの辱めを身に負い」ながら、この世で受け入れられ、評価されることではなく、「天のエルサレム」を目指して生きているということを決して忘れてはなりません。「私たちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)のですから。

1.「私たちは一つの祭壇を持っています」

8節の「イエス・キリストは、昨日も今日も同じです、いついつまでも」とは、続く記述の前提でもあります。9節では「様々な異なった奇妙な教えに惑わされてはいけません」と記されますが、ESVなどの英語訳では Do not be led away by diverse and strange teachings と訳され、「奇妙な」を訳出した方が良いと思われます。

当時のユダヤ人はレビ記などにある食物律法を厳格に守っていましたが、それが本来の律法の意図と離れた方向に向かい、聖書をもとにしながら「奇妙な教え」になったのだと思われます。

そのことが、「恵みによって心が堅くされることは良いことです。食物によってではありません。それによって歩んでいる人にとってそれは益とされませんでした」と説明されます。当時のユダヤ人たちは命がけで食物律法を守っていましたが、「キリストの恵みによって心が堅固にされる」ことの方が何より大切だというのです。

イエスの時代の人々は、旧約外典を愛読していました。Ⅱマカバイ記7章1節では、「七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や革ひもで責め苦を受け、律法に反して豚肉を食するように王から強いられることとなった」という書き出しから始まる壮絶な殉教のようすが描かれています。

兄弟たちは、ギリシャ人の王に向かって、「我々は、父祖の律法に違反するぐらいなら死ぬ覚悟がある」と言いますが、王はそのように言った者の舌を切って、頭皮をはいで、手足を切り取って、鍋で焼き殺しました。残りの兄弟たちは互いに励まし、主の律法への忠誠を誓いあい、同じように殺されて行きました。母親も最後に残った息子に「この死刑執行人を恐れず、兄たちに倣って、死を受け入れなさい」と励ましたと記されています。

しかし、レビ記11章は、豚肉を食べないことを神の民のしるしとする規定ではありません。その意味は、「自分の身を聖別して、聖なるものとならなければならない……自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主 (ヤハウェ) であるから」(44、45節) と記されていました。

そこでの「汚れ」とは、「死骸に触れる者はだれでも夕方まで汚れる」(24節) などのように、死骸に触れずに生きられる人はないのですから、命がけで守るような規定ではありませんでした。

ところが当時の律法学者たちは、食物律法を「異邦人や罪人といっしょに食事をしてはならない」という規定へと発展させます。彼らはイエスが取税人や罪人たちとともに食卓に着いていることを非難しましたが、主はそれに対し、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と答えられました (マタイ9:12、13)。

本来イスラエルの民は、異邦人にまことの神を紹介する祭司の王国、聖なる国民」として選ばれたにも関わらず (出19:6)、律法を、異邦人を軽蔑する根拠に変えてしまいました。同じように私たちも世の人々を「偶像礼拝者」として軽蔑してはなりません。私たちが神の「聖さ」に倣うのは、神との愛の交わりの中で生かされながら、この世に遣わされるためです。

世との分離ばかりを強調するのは「奇妙な教え」です。私たちがこの世の偶像礼拝者と距離を保つ必要があるにしても、その目的は「恵みによって心が堅くされる」ための環境設定にすぎません。

10、11節では「私たちは一つの祭壇を持っており、そこからのものは、幕屋で仕える者たちは食べる権利を持っていません。それは、動物の血は罪のきよめのために大祭司によって聖所に携えられますが、からだは宿営の外で焼かれるからです」と記されます。

これはレビ記16章の「贖罪の日」のいけにえの規定を思い起こさせるもので、「罪のきよめのささげものの雄牛と……雄やぎで、その血が宥めのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に運び出し、皮と肉と汚物を火で焼く」(27節) と記されます。

ただ、ここでときに見落としがちなのは、「私たち(キリスト者)は一つの祭壇を持っている」という不思議な宣言です。それは8章1、2節では、「私たちはこのような大祭司を持っており、「この方は、天におられる大いなる方の御座の右に座し、聖所で仕えておられ」ると記されていました。

つまり、私たちは「天の祭壇を持って」おり、「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができる」(10:19) というのです。

イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(ヨハネ6:54) と不思議なことを言われましたが、これは私たちが守る聖餐式を指し示すものです。

私たちは聖餐式において、その霊が天の祭壇に引き上げられ、イエスご自身の尊いみからだと御血をいただきます。聖餐式とは、復活し天に座しておられるイエスとの交わりの機会なのです。それは私たちがすでに、天の真の祭壇につながっていることを喜ぶ機会でもあります。

2.神に喜ばれるいけにえ 賛美(証し)とコイノニア

12節では、「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」と、主が「贖罪の日」のいけにえとなったと描かれます。

ただ、それは「過越の子羊」として「ほふられる」という苦しみのためというよりも、「ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られ」るためであり (9:12)、それによって、私たちのためにも神に近づく「新しい生ける道」が開かれたのです (10:20)。

不思議なのは、それを受けて13節では、「ですから、私たちは宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか、イエスの辱めをその身に負いながら」と記されます。イエスが「門の外で苦しみを受けた」のは私たちが「聖なる神との交わりを回復」できるためでしたが、それがどうして私たちが「イエスの辱めを負う」ということにつながるのでしょう。

しばしば、中世のカトリック教会では、キリストの「苦しみに倣う」ことで私たちの罪がきよめられると教えられ、イエスの十字架の苦しみの姿ばかりを思い浮かべる祭壇が築かれてきました。それに対しプロテスタントの教会では、十字架にイエスの苦しみの姿を現すことはほとんどしません。それは、イエスの十字架を、「罪と死の力に対する勝利」として強調するためです。

ですから「イエスの辱めを身に負う」のは、私たちの「罪の贖い」のためではなく、イエスがそれによって「神の右の座に着かれた」というその勝利にあずかるためと言えます。

パウロも、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります」(ローマ12:2) と記しています。

特に日本の社会では、「同調圧力」がどの集団にも働き、ときにキリスト教会にさえも作用しますが、私たちはみな一人で神の前に立ち、神のみこころを思い巡らすという個人的な交わりが何よりも大切です。

イエスが十字架を忍ばれた理由が12章2節では、「この方は、目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました、辱めを軽蔑することによってですが、神の御座の右に着座されたのです」と記されていました。イエスはこの世的な辱めを軽蔑することによって、栄光の御座に着かれました。私たちもそのように人生のゴールを明確にする必要があります。

そのことが14節では、「それは私たちがいつまでも続く都をここに持っているのではなく、むしろ来たるべきものを探し求めているからです」と記されます。私たちの主が、ユダヤ人から異端者呼ばわりされ「辱め」を受けたのですから、当時のユダヤ人クリスチャンが、ユダヤ人の交わりから排除されることを恐れる必要がないということがここで強調されているのです。

15、16節では、「ですから私たちはこの方を通して、賛美のいけにえを絶えず神にささげようではありませんか。それは、唇の果実であり、この方の御名を告白するものです。善い行いと、分かち合うこと(コイノニア)を忘れてはなりません。そのようないけにえこそ、神に喜ばれているからです」と記されています。ここでは「いけにえ」ということばが繰り返され、キリストによる永遠の贖いが完成していることを前提に、新約時代の新しい「いけにえ」が命じられています。

それは第一に、「イエスこそが救い主であることを告白する賛美」です。

それはまた第二に、「善い行い」としての兄弟姉妹が互いに愛し合う「分かち合い(コイノニア)」です。初代教会は、「信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有 (コイナ) していた」(使徒4:32) という交わりが実現していました。それは決して私有財産制の否定ではなく、「これは私のもの!」と互いに主張しない、聖霊のみわざでした。

旧約の時代の人々は、神への感謝と献身を現わす「全焼のささげもの」、「罪のきよめのささげもの」、過失賠償のための「代償のささげもの」、神と人との「交わりのいけにえ」などを献げる必要がありました。それは聖なる神が彼らの真ん中に住んでくださるという、神との交わりを継続するために必要なことでした。しかし、神の子イエスが、ご自身の血を天の聖所にささげられたことによって、すべての「いけにえの血」が必要なくなりました。

その代りに私たちが献げるのは「賛美のいけにえ」です。それは何よりもイエスの救いのみわざをたたえる「唇の果実です。そこには賛美の歌を歌うことばかりか、主のみわざを証しすることが含まれます。初代教会の礼拝では、次から次と、礼拝参加者が自分のうちになされた主のみわざを証しするということがあったようです。私たちの礼拝でも、礼拝の場で、次から次と人々が立って、イエスのみわざを証ししあうことができればと願っています。

また、同時にもう一つのいけにえは、「善い行い」、特に、自分の持ち物を「分かち合う」ことです。それは特に食事の交わりとして表現されました。私たちの教会で毎週、食事が用意され、それをともに味わうことができていることは本当にすばらしいことです。

なお、旧約の時代にはレビ人が神への奉仕のために聖別され、その生活の必要を他の十二部族が負うという形で、様々な礼拝儀式が守られました。そのためにすべてのイスラエル人には、収入の「十分の一」を主に献げることが命じられ、それがすべてレビ人に与えられました (民数記18:21-24)。

それは現代的にはキリスト教会の働きが健全に運営されるための資金になります。これは上記の二つのいけにえとは全く趣旨が異なります。十分の一献金は信仰者が守るべき最低限の責任とも言えますが、残念ながら、現代的な「いけにえ」にばかり目が向かい、聖別献金が軽んじられ、教会財政が逼迫することがあります。

3.平和の神が、ご自身の「望み」を私たちに行わせてくださいますように

17節は「聞き入れなさい(説得されなさい)あなたがたの指導者(のことば)を、また従いなさい(自分を権威の下に置きなさい)この人たちはあなたがたのたましいのための見張りをしているからです、神に説明責任を負う者として。彼らが喜んでそれをなし、嘆きながらでないために。そうでないと、あなたがたの益になりません」と記されています。

これは牧師に絶対服従しなさいという意味では決してありません。厳密には、「牧師の権威を尊重し、説得されるような謙遜な聞き方をしなさい」と命じられ、その理由が、牧師は神に対して、礼拝者のたましいに関しての説明責任を負わされているからということです。教会の牧師は、ここにいる一人ひとりが、誤った教えに惑わされ従ってしまうことがないように見張りをしているからです。

当教会の入会申請書には、このみことばが確認事項として記されてあります。キリスト教世界には、みなさんの牧師よりも信頼できそうな人はいくらでもいます。しかし、あなた個人のことを知って、祈っている牧師は、他に多くはいません。

「うちの先生は、こう言っていたけど、別の先生はこう言っていた……」などと安易な比較をすることはこのみことばに反します。どのような文脈の中で、どのような状況の人に語っているかが大切だからです。

ただし、牧師の権威は、みことばの解釈に関することですから、結婚、就職、住居、その他、日々の生活などの細々な判断は、一人ひとりが自分の責任においてなすべきことです。

18節は「私たちのためにも祈ってください。私たちは正しい(きよい)良心を持っていると確信しており、すべてにおいて正しく(ふさわしく)行動したいと望んでいるからです」と訳すことができます。

それは9章14節で、「キリストの血は、私たちの良心をきよめないわけがありましょうか、それは死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にします」と記されていたことを思い起こさせます。

著者はキリストの血が自分の「良心」をきよめて、自分が生ける神に堂々と仕えたいと「望む」ようにさせてくださったと告白しています。「良心のきよめ」とは、私たちが何を「望むようになるか」という心の奥底の願望を変える働きがあります。

19節では、先の「祈ってください」ということばを受けて、「さらにいっそう、そのようにすることを懇願します。それによって、私があなたがたのもとに早く戻ることができるように」と記されています。この記述によって、この書の著者は囚われの身として、自由に行動できなくなっていることが想像できます。

20、21節では、「平和の神が、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出されましたが、あらゆる良いものをもってあなたがたを整え、ご自身の望み(みこころ)を行わせてくださいますように、また、御前で喜ばれることを私たちのうちに行ってくださいますように、イエス・キリストを通して、この方に栄光が世々限りなくありますように」と記されています。

この文章の主語は「平和の神」で、羊の大牧者であるイエスを死者の中からよみがえらせたと描かれます。これはこの書で唯一明確に、キリストの復活を描いている箇所でもあります。

この地には人間の「牧者」がいますが、イエスこそが真の「大牧者」であり、ご自身の血によって「新しい契約」を実現してくださいました。そして神はこのイエス・キリストを通して私たちの「望み(意志)」を「整えて」、「御前で喜ばれること」を私たちが行いたくなるように変えてくださるというのです。「平和の神」ご自身が、聖霊によって、私たちの意志を整えてくださいます。

22節では「あなたがたに懇願します。兄弟たちよ、このような励ましのことばを耐え忍んで(我慢して)ください。私は手短に書いたのです」と記されます。「耐え忍んで(我慢して)ください」とか、「手短に書いた」というのは不思議な表現です。

たぶん、著者は、読者の耳に痛いことばばかりを書かざるを得なかったことを非常に残念に思っており、厳しい警告を補うようなもっと長い手紙を書きたかったのかもしれません。

その上で23節では、「私の兄弟テモテが釈放されたということを知ってください。もし彼が早く来れば、私は彼と一緒にあなたがたに会えるでしょう」と記されます。テモテはパウロの弟子のような存在であることは周知の事実でしたから、これによってこの手紙の著者はパウロとも親しい関係にあったということが示唆されています。

しかも24、25節では、「よろしくと伝えてください、あなたがたのすべての指導者たちとすべての聖徒たちに、また、イタリアから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがたすべてとともにありますように」と記されています。

イタリアから来た」という表現には、ローマから追放された人々が著者のもとにいるということが示唆されます。これによって、著者はローマ教会の信徒たちとの交わりの中で、この手紙を書いていると解釈することができます。

すると、ヘブル書の著者は、パウロがローマ教会に向けて書いた「ローマ人への手紙」を読んでおり、それを補うような意味でこの手紙を書いていると解釈することもできましょう。そのように考えるとヘブル書には大きな意味が加えられます。

私たちはローマ人への手紙とヘブル人への手紙を合わせて読むときに、キリストのみわざをより多角的により立体的に思い巡らすことができるとも考えられましょう。

村瀬俊夫先生は、ヘブル人への手紙の講解の本のタイトルを「とこしえに祭司であるキリスト」としていますが、それこそこの手紙の核心を現わしたものと言えましょう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」(4:15) と言われるイエスは今、あなたのためのとりなしを天においてしておられます。

たしかに、ヘブル書では、背教に対する厳しい警告が記されていますが、それはローマ人への手紙と合わせて読む時に、私たちの救いは、失われようのない確かなものであるということがより明らかに伝わってくることでしょう。

日本の価値観の中には、「和をもって貴しとなし、逆らうことなきを宗とせよ」ということばが深く根付いています。それは教会にも起こりえることです。日本人とユダヤ人には、伝統的な共同体への強い帰属意識という共通点があり、キリスト者になるには、村社会のカルチャーから飛び出す勇気が必要です。そのため両民族に福音を信じさせるのには大きな困難が伴います。

ヘブル人への手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンに向けて記されましたが、これこそ村社会に生きる日本人クリスチャンに向けての最高のメッセージと言えましょう。この世の社会で評価される信仰者の姿から、「イエスの辱めを身に負う」生き方への転換が求められます。