「神との交わりを第一にしたら、日々の必要も満たされる」という言い方は、神との交わりを目的達成の手段とすることかもしれません。 “詩篇73篇「神に近くあることの幸い」” の続きを読む
マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」
フィンランドで25年間国会議員務めてきたラサネン女史は、マタイ19章をもとに「結婚は一人の男性と一人の女性の間のものである」と述べ続けていることで、LGBTQ の方々を差別する「民族的扇動」を行っていると、最長六年間の禁固刑に相当するという告発がなされ、キリスト教会が一斉に反発していると報じられています。 “マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」” の続きを読む
詩篇36篇「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」
イエスは私たちに、「あなたの罪は赦された」(ヨハネ9:2) と宣言してくださいました。しかし、あなたが身近な人に、このイエスのことばをそのまま伝えても、多くの場合、「あなたは私を罪人と見ているのですか」と反発されるだけです。それは、「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2) と記されているからです。 “詩篇36篇「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」” の続きを読む
マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」
9月号の「百万人の福音」の表紙が、「すべてを赦さなくてはいけないのですか?」という不思議な表現になっています。依頼されてそこに聖書の説き明かしの記事を書かせていただきました。ただ、その冒頭に、「私たちが『さばく』とか『赦す』というとき、無意識のうちに自分を神の立場に置いているのかもしれません」と、ことばの使い方を聖書から見直す必要があるということから書き出しました。 “マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」” の続きを読む
詩篇71篇「神の義の現われとしての救い」
「心が傷つく」とは自分が無価値な者と見られること、つまり「恥」の意識から生まれます。ただ、ときにそれはキリストにあるアイデンティティーが確立していない結果と見られ、信仰の未熟さの現われとして「傷ついてしまう」と評価されることがあります。しかし、それこそ人の感性に対する暴力かもしれません。 “詩篇71篇「神の義の現われとしての救い」” の続きを読む
マタイ18章10〜20節「目の前の一人にどのように向き合うのか」
私たちは日々、新型コロナの感染者数の記録更新とオリンピックのメダリストの物語の両方に一喜一憂しています。どれほどオリンピック開催に反対していた人でも、メダルを獲得した人の物語に感動し、喜ぶことができます。それは「神のかたち」に創造された人間の心の目が、統計数字よりも一人ひとりの人生に目が向かうものだからです。 “マタイ18章10〜20節「目の前の一人にどのように向き合うのか」” の続きを読む
詩篇40篇「巻物の書に私のことが書いてあります」
イエスの救いの物語が旧約聖書の中に記されていますが、それは同時に、私たちのこの地での働きの可能性が記されていることでもあります。キリスト者に与えられた「罪の赦し」は驚くべき恵みではありますが、神に仕える生き方の出発点に過ぎません。 “詩篇40篇「巻物の書に私のことが書いてあります」” の続きを読む
詩篇46篇、エレミヤ29章10〜14節「わたしはあなたがたの繁栄を回復する」
「困難(試練)の中で教えられること—3.11から10年、コロナ禍の中で」というテーマで考えさせられていることがあります。
多くの信仰者は、このようなわざわいの中に神からのメッセージを汲み取ろうとします。それは人間の傲慢さに対する創造主からの最後の審判の前触れとしての罰であるとか、人間が神のあわれみなしには一瞬たりとも生きていられないことを教えるための神の招きであるとか、今、人々が不安を味わっているときこそ福音宣教のチャンスであるとか、これらすべては間違っていないと思います。 “詩篇46篇、エレミヤ29章10〜14節「わたしはあなたがたの繁栄を回復する」” の続きを読む
創世記41章41〜52節「今ここに生きる」(下村明矢先生)
2021年7月11日
マタイ17章22節~18章9節「人をつまずかせる者とは?」
しばしば信仰者は、「この社会で尊敬されることが、証しになる」と誤解します。そして、反対に、人々から軽蔑されると、「人をつまずかせてしまった」と、さらに自分を責めてしまい、「私のような者がクリスチャンであるとわかると、みんなのつまずきとなる」とまで思う人がいます。 “マタイ17章22節~18章9節「人をつまずかせる者とは?」” の続きを読む