旧約後半の中心テーマはエルサレム神殿の再建です。それはソロモンの神殿に比べれば「無いに等しい」ほどに小さなものでした。しかし、預言者ハガイはそれを指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさる」と主のことばを伝えました。それは、この神殿に神の栄光が戻って来ることを期待してのことばで、それがイエスにあって成就しました。私たちの教会も約10年前に、この慎ましい教会堂を建てるための第一歩を踏み出そうと教会総会を開きましたが、その日の説教箇所が今回の聖書箇所です。創世記から順番に説き明かし始め、はからずもこの箇所になりました。会堂建設に伴う「主へのささげ物」の話などは、個人的にはしたくない話でしたが、まさに主の摂理の中で、この箇所に当たり、多額の献金が与えられる契機になりました。それを覚えながら、謙遜に主のみことばをともに聴きましょう。 “エズラ記3章「主 (ヤハウェ) の神殿の基が据えられた日” の続きを読む
マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」
イエスは山上の説教で、「だれも二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と言われました (マタイ6:24)。 “マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」” の続きを読む
エズラ記1、2章「わざわいではなく平安の計画の実現」
私たちは自業自得でとんでもない苦しみに会うことがあるかもしれません。そこで、「もう、私の人生は終わってしまった……」と落胆しながら、後悔の思いで一杯になることがあります。しかし、そこで神に立ち返るとき、どんな悲惨な中からも、不思議な道が開かれてきます。 “エズラ記1、2章「わざわいではなく平安の計画の実現」” の続きを読む
ルカ5章12〜16節「心にふれる主のみわざ」
詩篇71篇1〜14節「神の義の現れとしての救い」
マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」
多くの女性はルツ記のストーリーに感動します。しかし、女性の人権の観点から考えると、これはとんでもない話とも言えます。物語の核心は、没落したエリメレクの家の再興のために、ユダヤ人から軽蔑されていたモアブの女が自分の身を、親戚の家に差し出すという話です。 “マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」” の続きを読む
詩篇73篇「神に近くあることの幸い」
「神との交わりを第一にしたら、日々の必要も満たされる」という言い方は、神との交わりを目的達成の手段とすることかもしれません。 “詩篇73篇「神に近くあることの幸い」” の続きを読む
マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」
フィンランドで25年間国会議員務めてきたラサネン女史は、マタイ19章をもとに「結婚は一人の男性と一人の女性の間のものである」と述べ続けていることで、LGBTQ の方々を差別する「民族的扇動」を行っていると、最長六年間の禁固刑に相当するという告発がなされ、キリスト教会が一斉に反発していると報じられています。 “マタイ19章1〜9節「結婚の聖別」” の続きを読む
詩篇36篇「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」
イエスは私たちに、「あなたの罪は赦された」(ヨハネ9:2) と宣言してくださいました。しかし、あなたが身近な人に、このイエスのことばをそのまま伝えても、多くの場合、「あなたは私を罪人と見ているのですか」と反発されるだけです。それは、「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2) と記されているからです。 “詩篇36篇「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」” の続きを読む
マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」
9月号の「百万人の福音」の表紙が、「すべてを赦さなくてはいけないのですか?」という不思議な表現になっています。依頼されてそこに聖書の説き明かしの記事を書かせていただきました。ただ、その冒頭に、「私たちが『さばく』とか『赦す』というとき、無意識のうちに自分を神の立場に置いているのかもしれません」と、ことばの使い方を聖書から見直す必要があるということから書き出しました。 “マタイ18章21〜35節「自分の兄弟を心から赦す?」” の続きを読む