今回の箇所には6回にわたって、「主 (ヤハウェ) の御手」または「神の恵みの御手」の守りが様々な形で表現されています (7:6、9、28、8:18、22、31)。しかも、そこでは「主 (ヤハウェ) の御手」がエズラの上にあったからこそ、ペルシアの王がエズラの働きを全面的に応援し、保護したというように記されています。神の御手による守りと、異教徒の王の保護は、まったく矛盾せずに描かれます。 “エズラ7、8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」” の続きを読む
マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」
キリスト教は奴隷制を擁護してきたと批判されたことがあります。実際、イエスは弟子たちに向かって「皆のしもべ(奴隷:slave)になりなさい」なとど、とんでもないことを命じられました。 “マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」” の続きを読む
エズラ4〜7章「神の目が注がれることの幸い」
キリスト教会はときに目に見える慈善事業や社会奉仕に熱心になりすぎ、異教社会の論理に巻き込まれ、信仰の純粋さを失ってきたという面があります。そのような教会はしばしば社会派と呼ばれます。 “エズラ4〜7章「神の目が注がれることの幸い」” の続きを読む
マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」
多くの人は他者との比較で自分が受けている祝福を測ります。それゆえあまり苦労していない者が特別に祝福されると、それを不公平と思いたくなります。 “マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」” の続きを読む
エズラ記3章「主 (ヤハウェ) の神殿の基が据えられた日
旧約後半の中心テーマはエルサレム神殿の再建です。それはソロモンの神殿に比べれば「無いに等しい」ほどに小さなものでした。しかし、預言者ハガイはそれを指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさる」と主のことばを伝えました。それは、この神殿に神の栄光が戻って来ることを期待してのことばで、それがイエスにあって成就しました。私たちの教会も約10年前に、この慎ましい教会堂を建てるための第一歩を踏み出そうと教会総会を開きましたが、その日の説教箇所が今回の聖書箇所です。創世記から順番に説き明かし始め、はからずもこの箇所になりました。会堂建設に伴う「主へのささげ物」の話などは、個人的にはしたくない話でしたが、まさに主の摂理の中で、この箇所に当たり、多額の献金が与えられる契機になりました。それを覚えながら、謙遜に主のみことばをともに聴きましょう。 “エズラ記3章「主 (ヤハウェ) の神殿の基が据えられた日” の続きを読む
マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」
イエスは山上の説教で、「だれも二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と言われました (マタイ6:24)。 “マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」” の続きを読む
エズラ記1、2章「わざわいではなく平安の計画の実現」
私たちは自業自得でとんでもない苦しみに会うことがあるかもしれません。そこで、「もう、私の人生は終わってしまった……」と落胆しながら、後悔の思いで一杯になることがあります。しかし、そこで神に立ち返るとき、どんな悲惨な中からも、不思議な道が開かれてきます。 “エズラ記1、2章「わざわいではなく平安の計画の実現」” の続きを読む
ルカ5章12〜16節「心にふれる主のみわざ」
詩篇71篇1〜14節「神の義の現れとしての救い」
マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」
多くの女性はルツ記のストーリーに感動します。しかし、女性の人権の観点から考えると、これはとんでもない話とも言えます。物語の核心は、没落したエリメレクの家の再興のために、ユダヤ人から軽蔑されていたモアブの女が自分の身を、親戚の家に差し出すという話です。 “マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」” の続きを読む