マタイ16章21〜28節「自分の十字架を負って、イエスに従う自由」

2021年5月23日

この時代は、何においても最短の時間で問題を解決することが求められます。何かをするにしても、「それが何の役に立つのか」と自問自答することがあります。しかし、それでは、「神がこの世界の問題を解決するためにご自身の御子を十字架にかける必要があった」などという奥義は分かり得ません。

神は私たちを心の奥底から作り変えたいと願っておられます。そのためには私たちは自分に死ぬ必要があります。それは「自分の十字架を負ってイエスに従う」という辛いプロセスです。

ただ、自分の無力さに絶望しなければ、聖霊のみわざは体験できないのかもしれません。そしてそこには真の自由が生まれます。

しかも、神のご計画はあなたをキリストに似た者へと変えることであると同時に、この世界に神の平和を広げることです。

その際、あなたが次から次と問題を解決できる有能な存在であるよりは、何度もつまずきながら、人の助けを得られる柔軟さこそが、神の平和を広げることにつながるとも言えましょう。

1.「ご自身にとって必要であること、多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され……よみがえること」

21節で、「そのときからイエスは、弟子たちに示し始められた、ご自身にとって必要であることを、エルサレムに行くこと、また長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けること、殺されること、三日目によみがえることを」と記されています。

マルコの並行記事では、人の子にとって必要であることを、多くの苦しめを受けること、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられること、殺されること、三日の後によみがえること」(8:31) と記され、ルカの記事もマルコとほぼ同じです (9:22)。

マタイでは「人々は人の子をだれだと言っていますか」(16:13) と問いかけが、マルコとルカでは、「人々(群衆)わたしをだれだと言っていますか」(マルコ8:27、ルカ9:18) という問いかけから始まっています。

つまり、「人の子」という呼び名は、マタイでは最初に来る一方、マルコとルカでは、この受難予告になってはじめて登場します。

どちらにしてもイエスは、ご自身のことをダニエル7章13、14節が預言する「人の子」を意図しておられたと思われます。

そこでは「見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることはない」と記されていました。

そしてイエスは十字架にかかる前の裁判で、ご自身が「神の子キリスト」であることを認めたばかりか、この人の子のような方」の預言を用いて、「あなたがたは今から後に見ることになります、人の子が力ある方の右の座の着いていることを、また、天の雲とともに来ることを」と言われました (26:64)。

そしてそのとき、「大祭司は自分の衣を引き裂いて『この男は神を冒涜した。なぜ、これ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう思うか』と言った時、すると彼らは『彼は死に値する』と答えた」と描かれています (26:65、66)。

つまり、イエスはそこで、今から十字架にかけられようとしているご自身こそが「王たちの王、主たちの主」であり、全世界の支配者であることが、人々の間にも見られるようになるといわれたのです。多くの人はそれを認めませんが、私たちはそれを認めます。それが明らかになったことが「三日目のよみがえり」です。

しかも、三つの福音書に共通することばは、「必要であること(なければならない)」という動詞です。これらは、人間の論理とは異なる、神的な必要性とも言えます。それは救いのための回り道の必要性とも言えましょう。

ペテロは先に、イエスのことを「あなたはキリストです、生ける神の御子です」と告白し (16節)、それをイエスは、天の父なる神から与えられたものと喜んでくださいました。その感覚からすると、今、イエスと弟子たちに求められていることは、どのように、当時のローマ帝国の支配をくつがえし、エルサレム神殿をサドカイ派の支配から解放し、そこでイエスを「イスラエルの王」として即位させるかということであったとも言えましょう。

なお当時のエルサレム神殿は、外面は壮麗でも、その中には契約の箱も入ってはおらず、ご本尊のないお寺のようなものでした。モーセのもとで建てられた神の幕屋にも、ソロモンが建てた神殿にも、そこに神の栄光が満ちて、人々が近づくことができないほどになったということが描かれていますが、バビロン捕囚からの帰還後に建てられた神殿には、一度もそのようなことが起きませんでした。

それに対して、当時、期待された救い主は、エルサレム神殿に神の栄光を取り戻す存在であり、それと同時に、ローマ帝国からの独立を勝ち取ってくれる強力な指導者でもあったのです。

ところがイエスは、ご自身が「多くの苦しみを受け……捨てられ、殺され」、その上で「三日目によみがえる」ことが「必要である」と奇想天外なことを言われたのです。

それに対し、「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起るはずはありません』と言いながら」と記されます。これは簡単に言うと、ペテロはイエスに向かって、「あなたは不信仰だ!」と言ったに等しいことと思われます。

それに対してのイエスの反応は驚くほど激しいもので、「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた『下がれ(わたしの後に)。サタン。あなたはわたしをつまずかせようとしている。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」というものです (23節)。イエスはペテロに、「おまえはサタンの誘惑に負けている」と言ったのではなく、彼自身を「サタンと呼んで退けたのです。

これほどに厳しい叱責はありません。なぜなら、それは武力闘争への道か、神の平和への道かの分かれ道だと思われたからです。しかも、人としてのイエスは、そのことばを、自分をつまずかせるサタンの誘惑ととらえたのです。

事実イエスは、十字架にかかる前の夜もゲッセマネの園で、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(26:39) と悲しみもだえながら祈られましたが、これは簡単に言うと、十字架にかかる以外の道を開いてくださいという意味です。

イエスはその直後、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈られたと記されますが、そこにはイエスの大きな葛藤がありました。

それをルカ22章44節では、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と描かれているほどです。ですから、私たちと同じ人間としての弱さを持っておられたイエスには、十字架の死を避けたいという思いが常にあったと思われ、そのためペテロのことばをご自分にとっての「つまずき」と捉えられたと言えましょう。

さらにイエスはペテロに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われましたが、これこそ先に述べた「神的な必要性」です。それは神のご計画で、そこには常に驚くべき回り道があります。

たとえばヤコブの子ヨセフは兄たちの妬みを買って、奴隷に売られ、無実の罪で牢屋に入れられ、そこで夢の解き明かしから一挙に総理大臣に引き上げられました。

またモーセがファラオの宮廷で育ちながら、エジプト人を殺害してミデアンの地で40年間羊飼いとして暮らした後に、イスラエルを奴隷状態から解放する指導者として立てられました。

さらにダビデは、サムエルから油注ぎを受けたのち、サウル王から何度もいのちを狙われ、サウルがペリシテ人と戦いで自滅して初めて、イスラエルの王に即位しました。

とにかく神は、ご自身が用いる器をどん底に落として訓練し、そのあとで引き上げておられます。

もちろんイエスの十字架の意味は、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(20:28) とあるように上記の三者とは決定的に異なりますが、人知を超えた計画という共通性があります。

イエスはイスラエルの王、全世界の王であるからこそ、すべての民の代表者として彼らの罪を贖うことができました。そして、それを可能にする十字架こそ、イエスの玉座、王としての即位の場だったのです。

2.「もしだれかが、わたしの後について来たいと望むのなら……」

その後、「それからイエスは弟子たちに言われた」と記されますが (24節)、マルコの並行記事では、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた」(8:34) と描かれており、続くことばは全てを捨ててイエスに従った弟子たちばかりか、信仰の曖昧な全ての人々へのことばであることが分かります。

イエスはそこで、「もしだれかが、わたしの後について来たいと望むのなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました (24節)。

ここでの「わたしの後に」とは、先にイエスがペテロに、「下がれ(わたしの後に)。サタン」と言われた真ん中のことばです。それはペテロのようにイエスに向かって意見する代わりに、イエスの後ろに下がることで、それが「自分を捨てる」ことにつながります。

これは、たとえば、ダニエルが目に見える王に祈願することを拒絶して、無抵抗のままライオンの穴に投げ込まれた生き方であり (6章)、また、彼の三人の友人たちが、ネブカドネツァルが作った金の像を拝むことを拒絶して、無抵抗で燃える炉の中に投げ込まれたこと (3章) と同じ生き方です。

神は、ライオンの穴の中でダニエルを守り通し、また、三人を燃える炉の中で守り通しました。神は、彼らを人間の目には死んだ状態にまで追い込んだ上で、その苦しみのただ中で守り通してくださったのです。

そしてダニエル書の結論は、イスラエルの神、主に死に至るまで忠実である賢明な者たちは大空の輝きのように輝くという永遠のいのち」へと復活すると記されています (12:2、3)。これは、人間的には死ぬこと、敗北をすることをも厭わないことによって、神にある勝利を体験できるという、神にある逆転の生き方です。

なお、「自分の十字架を負う」とは、何か重い責任を担うという意味に解釈されることがありますが、これは何よりも十字架を背負ってゴルゴタに向かったイエスの御跡に従う歩みです。イエスは多くのユダヤ人たちから罵声を浴びせられ、唾をかけられ、死刑場に向かいました。「この私は重たい責任を担っている」という誇りを持つこともできなければ、人間的にはいかなる慰めも出口も見えない歩みです。

ですから「自分の十字架を負ってイエスに従う」とは、富も名誉もすべてを捨てる覚悟で、ただ「わたしに従って来なさい」というイエスの招きだけに応答する歩みです。それは、人の称賛を期待せず、ただイエスの眼差しのみを意識して生きることです。

イエスはある意味で、不可能をお命じになられたとさえ言えましょう。ですから誰も、自分の力や勇気ではなく、聖霊の導きがなければキリストに従うことはできません。

そればかりかイエスは続けて、「自分のいのちを救おうと望む者はそれを失います。しかし、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

人は、たとえ全世界を手に入れるようなことがあっても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょう。そのいのちを買い戻すために、人は何を差し出せばよいのでしょうか」(25、26節) と言われました。ここには驚くべき逆説が記されています。

イザヤ52章13節から53章12節には、「 (ヤハウェ) のしもべ」の歌が記されています。

その最初で、「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」と歌われた上で、その方が、一転して、「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:3) という状態に落とされると描かれます。

その上で「彼を砕いて病を負わせることは(ヤハウェ) のみこころであった」と説明されます (53:10)。まさに、栄光の復活への道は十字架の辱めを通して開かれると記されているのです。

ダニエルが、バビロンでもペルシャでも異教徒の王から信頼されたのは、死に至るまで神への忠誠を保ったその信仰が認められたからです。彼が権力者におもねるような生き方をしていたなら、決して信頼されることはありませんでした。しかし、それはダニエルの信仰の力という以前に、神がダニエルを繰り返しさまざまな場面で励まし、守り通してくださった結果でした。

預言者イザヤもエゼキエルもエレミヤも、それぞれ「死に至るまで忠実」(黙示2:10) でした。それこそが「 (ヤハウェ) のしもべ」としての生き方でした。

そしてイエスは、私たちみなにもこれらの預言者と同じように生きることを求めておられるのです。多くの人は自分の名誉のためには、いのちを捨てることができますが、それこそが最大の争いの原因になります。神の栄光のために自分の名誉を犠牲にできる人を通して、神の平和がこの地に広がります。

3.「それぞれの行いに応じて報いてくださいます」

さらにイエスは、人の子は、まもなく来ようとしています、その父の栄光のうちに御使いとともに。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報いてくださいます。

まことにあなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいますと言われました (27、28節)。

この最後のことばの解釈は諸説がありますが、イエスの再臨まで長生きしている人など誰もいないのですから、主の再臨と「神の国」の完成のときを指すと考えることには無理があります。ただ、それ以前に、彼らはすべて殉教の死を遂げるわけではなく、生きてこの地に「神の国が実現する様子を見られるという意味では共通します。

それはイエスの再臨である以前に、イエスの栄光が現れるすべての時を指します。それはイエスの復活であり、聖霊降臨の際の教会の誕生であり、また40年後にエルサレム神殿が破壊され、それとともに、イエスを信じる者たちが爆発的にローマ帝国に増え広がるようになったことを指しているとも思われます。

少なくとも、使徒ヨハネはそれを見る栄誉に預かることができました。どちらにしても、これは苦難に満ちたこの地に生きることの勧めと言えましょう。

とにかく、最初の「人の子は、まもなくその父の栄光のうちに御使いとともに来ようとしている」とは、上記のようにイエスの再臨以前に、イエスの栄光が現わされるそのすべてのときを指すと理解できます。

事実イエスは最後の最高議会の裁判の時、「あなたがたは今から後に見ることになります、人の子が力ある方の右の座の着いていることを、また、天の雲とともに来ることを」と言われました (26:64)。「天の雲とともに来る」というときの「」とは、孫悟空の乗り物ではなく、神の栄光の現れを意味します。

そしてそのとき、イエスは「それぞれの行いに応じて報いてくださいます」と約束してくださいました。それも、キリストの再臨以前に、私たちが生きている間に現わされる「報い」と考えることができます。

それはたとえば、ペンテコステの際にペテロが説教したときに、「その日、三千人ほどが仲間に加えられた」(使徒2:41) というようなことから、ステパノの殉教が使徒パウロの回心の原因になるようなことをも指します。

私たちはあまりにも「報い」を個人的な損得の尺度で考えすぎる傾向があるかもしれません。

マルコの並行記事でイエスは、「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます」(8:38) と言われました。

それは、人の顔色を窺って、イエスが自分の主であることを人々の前で否定するような者は、イエスとともに栄光を受けることはできないという意味です。

なお、ここではイエスは最終的に、この世のすべての悪をさばく方として現れるということが示唆されています。イエスを甘く見てはならないのです。主の「報い」には祝福の報酬とともに「のろい」という刑罰もあるからです。

ある方が、マザー・テレサに、「なぜ、十分にない薬や人手を、死に行く病人に与えるのですか」と尋ねたところ、彼女は毅然と、しかし笑顔で、「私は、与え続けます。なぜなら路上で瀕死の状態の人たちが、身体を拭いてもらって傷口を洗い、包帯を巻き、お薬を飲ませてもらう。初めて温かい看護をしてもらう。そして人によっては数時間後に召される……ほとんどの人たちが、『ありがとう』と言って死ぬのです……世を恨みながら死ぬ代わりに、感謝を持って生涯を終えられる……それは本当に美しい光景なのです……私は死に行く人の最後のまなざしをいつも心に留めています。

人々が死を迎える時に、『愛された』と感じながらこの世を去ることができるなら、何でもしたいと思っています」と答えたとのことです。

彼女にとって、死に行く人に仕えることは、イエスを礼拝することでした。彼らからの感謝のことばは、イエスからのことばとして聞こえました。

彼女はそのために、多くの信仰者が首をかしげたくなるような大胆な行動をとりました。しかし、彼女にとっては、そんな人の評価など、何の意味も持ちませんでした。

一方、私などは、人の評価が気になってたまりません。しかし、イエスが、「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたことばを思い起こすたびに、ふと、人々の評価から自由になれるような気がします。

もちろん独善的になってはいけませんが、いわれのない批判を受けながらも、私は十字架を負っていると思えるなら、そこにはイエスと一つとされているという感動が生まれるからです。

「置かれた場所で咲きなさい」などの名著で、カトリック教会のリーダー的存在であった故 さんは、18歳で洗礼を受けてから、ことあるごとにお母様から、「それでもあなたはクリスチャン?」と言われ、つらい思いをしたとのことです。

その後も、様々なつまずきを体験しながら、「イエス様、きょうもまたしくじりました。倒れてしまいました」と言っていました。するとイエスは、「いいよ。わたしだってゴルゴタの丘を登っているときに、三度も倒れたのだから……倒れてもいいよ。また笑顔で、起き上がってごらん」と言っていてくださるのを感じていたそうです。

私たちも、イエスが死んで生きられたように、より豊かになって生きるために毎日、小さな死を体験する必要があります。それは言い返したいときに言い返さないことなど些細なことに始まり、愛されるよりは愛することを、慰められるよりは慰めることを求めることなのです。

いつでもどこでも、損得勘定を超え、主に喜ばれ、主に従うことのみを考えて生きてゆきたいものです。最善を目指しながら、同時に、自分の弱さを正直に認めるときに神の力が働いてくださいます。


今朝の早朝礼拝と夕方の第二礼拝での応答の賛美は、昔、深く慰められ励ましを受けた以下のドイツの賛美を日本語にし、それに合わせて編曲したものです。以下でお聞きいただけます

これを作詞したジーバルドさんは、それが生まれた経緯を次のように記しています

多くの人々は明らかな病気や経済的困窮以前に、それまでの傷ついた心から心の奥底で『他者への憎しみ』のような気持ちを隠すようになっている。それが他者との関係を妨げ、また自分自身も受け入れることができなくさせている。しかし、イエスはあなたの全ての罪を赦し、その見えない重荷を取り除いて、新しい出発を与えてくださる

歌詞を直訳すると以下のような意味になります

イエス様 あなたのもとに私はこのままの姿で行くことができるのですね。
あなたは、「だれでも来ていいんだよ」とおっしゃってくださった。
私はより良い人間になれるんだ・・・などと証明しなくても良いのですね
そのためのすべてを、あなたは十字架で成し遂げてくださったのだから
あなたは、私が戸惑いを見て、ご自身の手を差し伸べて、言ってくださった
そのままの自分の姿で来て良いのだよと

イエス様 あなたの御前に このままの自分を差し出して良いのですね
私はあなたの御前で、正直であること以上のことは求められない
私は自分のうちにある みにくい思いを一切隠す必要がないのですね
私の内にある あなたに結びつく思いと引き離す思いのすべてをご存じで
また、私のうちにある光の部分と影の部分のすべてを御前に置いて
このままの私を差し出して良いのですね

イエス様は 私はあなた御前で このままの状態にとどまる必要はないのですね
あなたは私のうちにある自分と周りの人を傷つける思いを取り去ってください
このままの私から ご自身のお気に入りの者へと変えてくださるのですね
そして、このまま私をあなたの御手の愛の手紙へと造り変えてくださるのですね
あなたはずっと昔から、私の最善の状態を願って計画してくださった
私はこのままの状態にとどまる必要はないのですね

この歌の日本語訳の歌を原作者の許可を得て作りました。 でご覧いただけます

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