どんな極悪人でもイエスを救い主と信じることで天国に行けます。それこそ福音の核心とも言えます。
実際に、イエスの十字架の場面で、ともに十字架にかけられた犯罪人の一人が、「自分のしたことの報いを受けている」ことを認めたうえで、「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と願いました。それに対して主は、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださいました (ルカ23:41–43)。
しかしそれは、あなたに身近な話でしょうか?
多くの人にとって、今、ここでの生活こそが大切です。そこには、目の前の人間関係やこの地上での将来の不安こそが課題です。
しかも、子どもたちに「君は、死んでも天国にいけるかな?」と問いかけすぎることは、地獄の恐怖で心を縛るという「宗教二世」への心理的虐待の可能性が含まれます。
それよりも、イエスとともに生きることの幸い、どんなに大きな失敗をしても、どんなに人から誤解されることがあっても、イエスにすがって生きることには、今この世での大きな報いと喜びがあるということこそ聖書の一貫した物語です。
最後の審判は、「今ここで」自分が神から喜ばれている存在であるかという問いかけ、今ここでの生き方やいのちの延長としてあります。大切なのは今も永遠にも、主とともに生きられることに他なりません。
1.「あなたに弁解の余地はありません、すべてさばく者よ」
2章最初の接続詞の「ですから」は、1章24節と同じく「そこで」とか「それゆえ」とも訳すことができ、前節からの必然的な結果を指し示します。1章の結論は、「彼らはこれらに対する神の定めを知りながら、それはそのような行いをする者たちが死に値するということですが、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです」(1:32) と記されます。そこでの「彼ら」とは、「神を知ることに価値を認めなかった」(1:28) と言われる「すべての人々」を指します。
そして2章1節は原文の語順では、「ですから、あなたに弁解の余地はありません、すべてさばく者よ。それはあなたが他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。同じことを行っているからです、さばく者自身が」と記されています。これは、しばしば、人差し指で他の人を指して非難する人は、他の三本の指が自分を非難していることを心に留めるようにと言われることに似ています。私たちはそこで、他の人を非難する同じ基準を自分に適用する必要があります。
そしてさらに、そのように「さばく」資格がないのに、他の人をさばく者に対する、神のさばきに関して、「それは私たちが知っているからです、神のさばきが、真理に基づいて、そのようなことを行っている人々の上に下ることを。あなたがたは考えているのですか、そのようなことを行う者たちをさばく人よ、そして同じことを行っている者よ、あなたが神のさばきを免れるとでも」(2:2、3) と記されています。
たとえば、1章26、27節で同性愛行為が「恥ずべきこと」であると非難されましたが、その背後には、創造の秩序に沿った夫婦の性の営みだけを「自然な機能」の用い方と見る厳しい基準でした。
イエスは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」(マタイ5:28、29) と言われました。それに従うなら、同性愛を「さばく」ことができる者は、そのような情欲から自由な人だけということになります。それに従うと、最近話題のLGBTの方々を教会の交わりから排除するような人がいるとするなら、それこそ最も恐ろしい「神のさばき」の対象となるということになります。
しかし、それは同性愛行為を正当化するという意味ではありません。
2章4節では、その微妙なバランスのことが続けて、「それとも、神のいつくしみ (goodness) と忍耐と寛容の豊かさをあなたは軽んじているのですか?神のいつくしみがあなたを回心(悔い改め)に導くことを知らないままに」と記されています。
これは、人の行動が変えられるのは、その行動を「さばく」ことによってではなく、「神のいつくしみと忍耐と寛容の豊かさを」、心の底から味わってもらうことによってであるという意味です。人を「回心に導く」のは、どの宗教にもつきものの「地獄」や「災い」への「脅し」ではなく、「神のいつくしみ (goodness)」なのです。
最近、「宗教二世」の葛藤のドラマが反響を呼んでいますが、そこで問題になっているのは教義の中にある「脅し」と「思考停止」の呪縛です。しかし、私たちの成長とは、愛する人どうしが互いに似た者へと徐々に変えられて行くの同じように、神のご性質に似た者へと変えられることです。
それは、「その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱペテロ1:4) と記されているとおりです。
ただ、その成長のプロセスは人間的に測られるものではありません。人為的に信仰の成長を生み出そうとすることは、心の暴力になり得ます。
それに続けて、「あなたの頑なで、心を改めようとしないことのゆえに、怒りを自分のために蓄えています、それは御怒りの、神の正しいさばきが現れる日に向けてのことです。神はそれぞれの行いに応じて報われます」(2:5) と記されます。
「心を改めようとしない」ということばは、先の「回心」の否定形で、「回心に導こう」とする神の愛の招きに反抗し続ける心の姿勢です。それはたとえば、「あなたはいつまで経っても成長しない!」と非難されるような心の状態のことではなく、「自分は絶対に変わることはできないし、変わりたいとも思わない」と心の底で言って、聖霊の働きを拒絶し続ける姿勢です。
イエスも「人は、どんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません」(マタイ12:31) と言われました。「御霊に対する冒涜」とは、溺れかかっている人が、自分に差し出された救命具を拒絶することに似ています。それは、助けの手を軽蔑するという「冒涜」です。
そして「正しいさばきが現れる日」とは、神の招きを拒絶し続けたという「頑なさ」に対する「さばき」が「現れる日」です。神が何よりも怒っておられるのは、神の愛の招きを拒絶し続けるという傲慢な心に対してなのです。
そして、神が報いてくださる「それぞれの行い」とは、この世的な良い働きではなく、「神のいつくしみ (goodness)」に対する応答の姿勢と言えましょう。
2.「神にはえこひいきがないからです」
先の文脈の最後の「神はそれぞれの行いに応じて報いられます」(2:6) ということばは、私たちが「行い」ではなく「信仰」によって「神の前に義と認められる」という伝統的「信仰義認」の教理に矛盾するようにも見えます。
しかし、これは礼拝の最初に交読した詩篇62篇の結論のことばでもあります。そこでは「暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。強さが結果を生んでも、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のもの。主よ。慈愛(ヘセド:恵み)もあなたのもの。まことに、あなたは報いてくださる。それぞれの人の行いに応じて」と記されていました。
ですから、「行いに応じて」とは、私たちが自分で「誇る」ことができる「善い行い」ではなく、神の恵みに信頼する姿勢に他なりません。
そして2章7、8節では、神が判断する「善い行い」の基準が、前節の「神は……報いられます」ということばを修飾するように、「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れ(名誉)と不滅(朽ちないもの)を求める者には永遠のいのちを、利己的な思い(競争心、党派心)から真理に従うことをせず、かえって不義に従う者には、怒りと憤りを」と記されます。
ここで「忍耐をもって善を行う」ことと並んで「栄光と誉れ(名誉)と不滅」という神に属する性質を「求める」ことが、神に喜ばれるというのは不思議です。ただ、それは「神のようになる」という傲慢ではなく、先に引用した「神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4) ことを指しています。
反対に「神の怒りと憤りを……報いられる」者とは、「真理に従う」ことより、人より優位に立つことを求める「競争心」であり、神の義の基準に反する「不義」の誘惑の声に聴き従う者を指します。
ですから、ここに記されている神のさばきの基準とは、この世的に評価される「善い行い」とは大きく違った基準と言えます。
さらに続けて、「苦難と苦悩が悪を行うすべてのたましいの上に、ユダヤ人をはじめギリシア人にも。しかし、栄光と誉れ(名誉)と平和(平安、ヘブル語のシャロームのギリシャ語訳)が、善を行うすべての者の上に、ユダヤ人をはじめギリシア人にも。それは、神にはえこひいきがないからです(共同訳「神は人を分け隔てなさいません」)」と記されます (2:9–11)。
この文章も先の「神は報いられます」(2:6) を修飾する文章です。興味深いのは、ここに描かれた「苦難と苦悩」「栄光と誉れと平和 (シャローム)」という「報い」は、この現実の世界でも与えられるようなニュアンスがあることです。つまり、「行いに応じて」の「報い」は、最後の審判以前に、この地の生活で体験できる神の恵みでもあるのです。
しかも、ここでは敢えて「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」と、この地の人種の区別を超えた神の公平性が強調されていることです。これは一見、創造主がイスラエルの民を特別に選んでご自身の栄光を現そうとしたという旧約のストーリーに反するように見えます。
それは当時の人々にとっては、「神の選び」を否定するかのような驚くべき表現と思われました。
「神はそれぞれの行いに応じて報いられます」(2:6) という宣言は、明らかに2章4–11節の中心聖句です。それは「神のいつくしみと忍耐と寛容の豊かさを軽んじて」、神の「怒りを自分のために蓄えている」ことが明らかになるときの「報い」です。また、7–10節に描かれたすべての神のさばきには動詞が記されず、すべてこの6節の「報いられます」を修飾する文節になっていることにも明らかです。
私たちはしばしば、「どんなひどい悪人でも、イエス様を救い主として告白することで、天国の保証が与えられるのです」と福音を簡略化して伝えますが、それは後に描かれる3章21–24節の結論として、決して間違っているというわけではありません。
しかし、そこでどんなに「行い」が悪くても、その人の「信仰によって」などと言いながら、信仰と行いを分離して説明するなら、注意が必要です。なぜなら、ここでの「行いに応じて報いられる」というときの「行い」には、明らかに神への信仰という呼ぶ概念が中心的に描かれているからです。
神の目には、神の「いつくしみ」への信頼こそが、もっとも評価される「行い」なのです。事実、このことばは、先の詩篇62篇とともに箴言24章12節のギリシア語訳とほぼ同じで、そこでは「人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか……人の行いに応じて、報いをされないだろうか」と、「心を評価する」ことと、「行いに応じて、報いをされる」ことが同じ意味で用いられていることでも明らかです。
このローマ人への手紙では、創造主を認めないこと自体が、「神の怒り」を受けるべき恐ろしい罪として断罪されていますが、現実には、聖書の福音を聴くことなしに創造主の存在を認めることはできません。
あなたの身近な人が、キリストの福音を知ることのないまま死んでしまったというときに、その人は、自分の罪によって地獄落ちが決まっているということを宣言されるなら、「神にはえこひいきがない」という記述と矛盾しないでしょうか。
そのとき、「神はそれぞれの行いに応じて報いられます」ということばは、その救いの可能性を示唆しているとも言えましょう。ただそれを断言してしまっては、他の聖書の箇所と矛盾します。
ですからそこに希望を置きすぎてはいけませんが、一つの可能性を期待できないわけではありません。聖書はそれを信じようとする人のために記されていますから、そこから結論を急ぎすぎることは危険です。
少なくとも私は未信者の方の葬儀をするときには、この箇所から神の公平なさばきの希望として語ります。
3.「その日に、神が人々の隠されたことをさばかれます……キリスト・イエスを通してです」
2章12節以降は、先の「ユダヤ人をはじめギリシア人にも(報いられます)。それは、神にはえこひいきがない(神は人を分け隔てなさらない)からです」(2:10、11) という宣言の説明です。
そこでまず、「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅びることになります。また、律法のうちにあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれることになります。なぜなら、律法を聴く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められる(正しいと宣言される)からです」(2:12、13) と記されています。これは、ユダヤ人が自分たちに律法(御教え:トーラー)が与えられていること自体を誇りとしながら、律法に従って生きていなかったことを問題とするためでした。
ここでは、先の「行いに応じて報いられます」ということばが、「律法によってさばかれる」、また「律法を行う者が義と認められる(正しいと宣言される)」と言い換えられています。この後者は、最後の審判で「無罪と宣告される」ことを意味します。
確かにモーセは、「今日私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえ(トーラー:律法)のすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民(くにたみ)が、いったいどこにあるだろうか」(申命記4:8) と述べましたが、その直前には、「これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらのすべての掟を聞いて、『この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ』と言うであろう」(同4:6) と述べられていました。
ですから、律法は素晴らしい贈り物なのですが、それを実行しなければ意味がないのです。
その上で2章14、15節では、異邦人に関しての希望が、「律法を持たない異邦人が、生まれつきの(自然の)ままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法(共同訳「自分自身が律法」)なのです。そこで彼らは示して(見せて)います、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを。それは彼らの良心も共に証ししながらのことで、彼らの思い(共同訳「議論」)が互いに責め合ったり、また弁明し合ったりしています」と記されます。
ここでは、「神の民」となる前の「生まれつきの(自然の)まま」で、「律法の命じる行い」が自分の「心に記されていることを見せている」と記され、その証拠として、彼らの心の中にある「良心 (conscience)」の働きが描かれます。
「良心」とは、生まれつきの人間心の中にある「良い心」という意味ではなく、「良心の呵責」などという言葉があるように、「互いに責め合ったり、弁明し合ったり」するという「心の葛藤の働き」です。
そこには、ある基準を超えたら「良心の呵責を感じる」という「痛み」の作用があるのですが、その善悪の基準自体が「律法の命じる行い」と言えましょう。これは先に「彼らはこれらに対する神の定めを知りながら」(1:32) と記されていたことを思い起こさせます。これは、すべての人間か、「神のかたち」「神の似姿」(創1:26) に創造されていることに由来します。
仏教の経典でも「阿闍世王」の物語で「自分の罪に対する慙愧の念を抱く者への救いの希望」が描かれます。人は、自分の誤った行いに対する「慙愧の念」または「良心の呵責を感じる」限り、救いの希望があります。
2章16節は、「その日に、神が人々の隠されたことをさばかれます、私の福音によれば、キリスト・イエスを通してです」と記されています。
ここでの「人々の隠されたこと」とは、先の「彼らの心の思い」の中での「責め合ったり、また弁明し合ったり」ということを指すと思われます。これは、人間の目には「隠されている」ことですが、私たちの心の中の「良心」の働きが、自分が「神のさばき」を受けるべき罪人であることを明らかにするという意味です。
ただし、ここで「神のさばき」は、キリスト・イエスを通してなされるということに希望を持つことができるとも言えます。イエスは、「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そして、そのときには、それぞれの行いに応じて報います」(マタイ16:27) と言われました。
それはイエスが、「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(同16:25) と言われたことへの保証です。イエスが最終的な「さばき主」であるからこそ、この世的な損得勘定を離れて、イエスに喜んでいただける「善を行う」ことに集中できるのです。
そこでは、イエスへの信頼と善い行いが一致しています。
パウロは、コリント人への手紙第二5章7、9、10節で、「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます……私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。私たちはみな。善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです」と記しています。
ここでも「信仰によって歩む」ことと、最後の「キリストのさばきの座」において、「肉体においてした行いに応じて報いを受ける」ということが記されています。
イエスを救い主として信じるとは、すべての「行い」において、これが主に喜ばれるかどうかを基準にして生きるという意味です。そこでは信仰と行いの間に何の矛盾もありません。
そして、私たちが何よりも悩むのは、自分が正しいと思って行ったことが、かえって他の人の批判を受けたり、その動機を誤解されたりすることです。それに対し、神が私たちの隠された思いを受け止め、そこに正しい評価を下してくださるということは大きな慰めです。
「行いに応じての報い」とは、すべての人にイエスのために生きてみたいという動機を与える原因になります。
また、私たちの罪を負って十字架に架かってくださった方が、「さばきの座」についてくださることを、クリスチャンは恐れる必要はありません。それは私たちの労苦に豊かな報酬が与えられるとき、またこの世界が神の平和(シャーロム)で満たされるとき、喜びの完成の時です。
1章17節では「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と記され、2章4節では、「それとも、神のいつくしみ (goodness) と忍耐と寛容の豊かさをあなたは軽んじているのですか?神のいつくしみがあなたを回心(悔い改め)に導くことを知らないままに」と記されていました。
つまり、福音こそが私たちのうちに信仰を生み出し、神が悲しまれるのはその神の救いのご計画に私たちが意図的に逆らうことなのです。私たちのうちに生まれた信仰は、私たちを心の底から作り変え、善い行いを生み出すことができるはずです。
私たちが直面すべきは、自分は変わりようがないという諦めの気持ちではないでしょうか。それに対し、「神はそれぞれ行いに応じて報いてくださる」というのは、自分の労苦が無駄にならないという確信であり、良い行いに励む動機になり得ることばです。それは、「今の練習を重ねれば、金メダルが保障されている」というような意味とも言えます。
「行いに応じて報われる」ということばの中には、神があなたを心の底から作り変えて、善い行いができるように変えてくださるという神の約束があります。
ただ、神の救いのご計画に自分の身を任せる出発点として、このままの自分では神に喜ばれることはできない、このままの自分では、最後の審判の場で、神に申し開きができないという謙遜な心が必要なのです。
神のさばきの宣告には、私たちのうちに聖霊のみわざがなされるための招きが隠されています。