ルカ20章45節〜21章9節「人はうわべを見るが……」

2009年6月7日

イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。ただ、その際、主を愛する者に主は「祝福」を与え、主の御声に従わない者には「のろい」が与えられるという趣旨の教えを、あまりにも短絡的にとらえていました。彼らはそれを逆転させ、すべてを因果律で判断するようになった結果、自分たちの生活が安定しているのは、自分たちの信仰のおかげと自分を誇り、反対に、貧しい人は、自分たちの不信仰に対する報いを受けているに過ぎないと解釈していました。

しかも、律法学者たちは、無知な民衆たちを正しい信仰に導き、神の国を復興するという熱い情熱を持っていました。また、民衆の側でも、ギリシャやローマの風習に染まらないユダヤ人の慣習の模範を示してくれる律法学者たちを必要としていました。そして、ローマ帝国の総督やその権力に媚を売るユダヤ人指導者の権力に対抗するため、律法学者たちはいつも民衆の支持を得ることに腐心していました。彼らは互いを必要としていたのです。

1.「律法学者たちには気をつけなさい・・・」

「また、民衆がみな耳を傾けているとき」(20:45)とは、イエスがサドカイ人にもパリサイ人にも、堂々と渡り合って議論に勝利を収めた様子を、民衆が感心していたという状況を指します。この時、イエスはご自分の弟子たちに対して警告を発し、「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです」(20:46)と言われました。彼らからすれば、自分たちは敬虔な生活を無知な人々に証しをしていると弁明したことでしょう。また律法の解釈にいのちを賭けている自分たちが尊敬を受けることは、聖書の教えの権威を守ることと不可分であると弁明したことでしょう。

しかし、彼らが見過ごしていたのは、人間にとって名誉また栄誉とは、最高の地上的な財宝であるということです。人は自分の名誉のためなら命を捨てることができます。彼らは人々への証しの生活という名の下に、無意識だったかもしれませんが、自分たちが名誉心の奴隷になっていたということを忘れていました。

そればかりか、それによって、「やもめの家を食いつぶし」(20:47)ていたというのです。当時の律法学者はみことばを教える際に、お金を取ることは禁じられていましたが、感謝のしるしを受け取ることはできました。彼らは、自分たちへの贈り物は神への感謝の表現になり、神が報いてくださるなどと言いながら、貧しいやもめから贈り物を積極的に受け取っていたようです。また揉め事に関与して口利き料や弁護料を取ったりしていたようです。

そして、彼らは、「見えを飾るために長い祈りをします」とあるように、神への祈りという信仰の本質的な部分に名誉心が入り込んでしまっていたというのです。そしてイエスは、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」と言われました。後に使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別にきびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3:1)と述べましたが、キリスト教会の指導者も格別に厳しいさばきを受ける可能性があります。彼らが神に近いと考えるのは間違いです。反対に、教師たちは非常に危ないところに立たせられているということを、あわれみの眼差しをもって見ていただく必要があります。イエスは、「彼ら(律法学者)があなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれでも彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(マタイ23:3)と言われましたが、それが牧師にも当てはまるでしょう。

ドイツでの家庭集会時代の友人が、小生の本やメッセージ原稿を喜んでくださり、それを友人やご家族にも転送して下さっているのですが、最近こんなことを書いてきてくださいました。「高橋さんのメッセージのよさのひとつは、ありのままのご自分を見つめる謙虚な姿勢に支えられていると思います。御本やメッセージが用いられるにつれ、誘惑に陥ることなく、その謙虚さが形式的なものにならず、さらに深い洞察を与えられますように、余計なお世話かもしれませんが、古い友達として、祈っていこうと思っています。」

一瞬、「僕のことを謙遜にしてくれる人はいつも沢山いますから、ご心配なく・・・」とでも、書きたくなりましたが、「この方は、ほんとうに大切な友だな・・・」と、改めて心から感謝しました。「誘惑に陥ることなく、謙虚さが形式的なものにならず・・・」というのはまさに的を得ています。宗教指導者は、知らず知らずのうちに謙遜な振りをすることを身に着けてしまいます。そして、それによって尊敬を得る方法を身につけて行きがちです。それにしても、イエスは、宗教指導者が陥りやすい罠を、このように弟子たちに告げ、また弟子たちがこれをこのように書き残しているということは驚くべきことではないでしょうか。ここにこそ、聖書の教えの真実さの証しがあります。

多くの人々は、宗教に偽善の匂いをかぎつけます。確かに偽善に満ちた宗教団体が数多くあります。最近、また、政治の世界に出ようとしている新興宗教などもあるようですが、なぜ、人々は、あの偽善に騙されるのかと不思議に思います。それは人々が見せかけに弱いからでもありましょう。イエスは、ご自分の弟子たちがそのような宗教の罠に陥ったり、また人々をそのような罠に陥らせないように、宗教指導者の危なさを徹底的に知らせました。

それによって、主は、ひとりひとりが、目に見える指導者を通してではなく、自分ひとりで神の前に立つことができるようにと導こうとしておられます。確かに、聖書の教師を尊敬すべきことは当然のことであり、また聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」(ヘブル13:17)と命じていますが、これは指導者が、人に代わって弁明するという意味ではなく、自分の働きを弁明しなければならないという意味です。彼は、一人ひとりを誤った教えから守り、それぞれが自分で聖書を読み、自分で神に向かって祈ることができるように助ける責任を果たしてきたかが問われるのです。たとえば、私の中には、「人から頼りにされたい・・」という思いがあります。人はうわべを見るのが常ですから、そんな牧師が好まれるでしょう。そこに神を抜きにした依存関係が生まれます。しかし、心の中で自分を救い主のとしたいと願うような指導者を神からさばかれます。主はその人の心の動機を見ておらます。

2.「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」

「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった」(21:1、2)とありますが、マルコは、「イエスが献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」 (12:41)と記されています。イエスが「目を上げて」とあるのは、イエスがそこに座ったということの現われではないでしょうか。そして、ここでは、「ご覧になった」ということばが二度繰り返されていますが、それはイエスが、多くの金持ちが大金を入れる様子と、ひとりの貧しいやもめの献金との二種類の献金を、それぞれの姿勢を見ておられたという意味です。その献金箱とは13のラッパの形をした金属製に器でしたから、黙っていても、その音からでも、誰がどのくらい入れたかがわかります。そこに次から次と、人々が一日分の労賃に相当するデナリ銀貨などを入れていたことでしょう。そこに最後に、ひっそりと貧しいやもめがレプタ銅貨二枚をささげたというのです。これは二羽の雀が一アサリオンで売っているといわれたアサリオンの8分の一の単位、1デナリの128分の1の単位、二枚でローマの銭湯の一回分の入浴料ぐらいであったと言われます。この貧しいやもめには、もっとも雀さえも買うことができなかったのです。

これはしばしば献金の勧めとして、自分が持っているすべてをささげることの祝福を教えるために用いられますが、マルコでもルカでも、律法学者たちが「やもめの家を食いつぶしている」という記事とセットに記されています。つまり、これは神の御子イエスが、人のようにうわべをみないで、その心を見ておられるということのしるしとして描かれているのです。それは主が、「わたしは・・人が見るようには見ない。人はうわべを見るが、主(ヤハウェ)は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と語っておられたとおりです。さきの律法学者たちの見せかけの姿と、金持ちの目立った献金は同じ意味があります。イエスは献金のうわべの姿ではなく、そこに込められた思いをご覧になりました

そしてイエスはここで弟子たちに向かって、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(21:3、4)と言われました。このイエスの言葉は、明らかに、20章45節からの弟子たちに対する教えの継続です。イエスは、このレプタ銅貨二枚が、このやもめにとってどれほど貴重なものかをすぐに見分けたのです。ここでは、このやもめのささげものが、神にとっては誰よりも高額なささげものになったという面が強調されています。そして、それこそ神のまなざしです。なお当時は、レプタ銅貨をささげる者はできれば二枚以上をささげるようにという言い伝えがあったようです。ですから、彼女は、精一杯、当時の教えに忠実でありたいと思いながら、自分の生活費の全部をささげたのです。それは彼女にとって、神への信頼の証しだったことでしょう。しかし、その証は、イエスとイエスの父なる神以外の誰も知ることができない証しでした。

私たちはふと、「この後、このやもめは、どうやってその日のパンを得たのか・・・」と心配します。しかし、聖書の神は、「みなしごの父、やもめのさばき人」(詩篇68:5)、主の偉大さは、「みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」(申命記10:18)ことによって現されると記されています。当時の律法学者たちは、貧しさを神のさばきの結果と見ていましたが、聖書は、貧しさを、神のあわれみと偉大さが現される機会として記しています。神は誰よりも、貧しい者の叫びに耳を傾けられる方なのです。

先日、日本福音同盟という日本の福音派の諸教会の協力団体の総会に出席してきました。そこで日本長老教会の指導的な牧師の村瀬俊夫先生が感動的なメッセージをしてくださいました。彼は二十歳で信仰に導かれ、牧師に召されましたが、記憶力には少なからず自信を持っていたとのことです。そのため人をさばくことが多くなり、また人の失敗がストレスとなり、何度も「牧師をやめたい・・」と悩んだとのことです。ところが、還暦を越え、物忘れが激しくなり、自分に自信がなくなって来るにつれ、毎日が楽しくなりました。それは、自分の弱さや貧しさが身にしみてくるにつれ、イエスに生かされているという実感が強くなったからです。それまでは、「いつも喜んでいなさい・・すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という聖書の基本的な命令を聞いても、会衆には、「これは、努力目標です」などと弁解がましく言っていたそうですが、80歳になるとそれが自然にできるようになったと生き生きと語っておられました。

この貧しいやもめのささげものの記事を読むたびに、人によっては、「私も比率的に、もっとささげなければ」などと思うかもしれません。しかし、金持ちは全財産をささげることはできなくても、やもめは全財産をささげることは比較的容易なのです。それは、自分の力では何もできないということを、心の底から味わっているからです。

ですから、自分のけち臭さや、自分が不安から自由になれないことを悩む必要はありません。それよりも、目を大きく開いて、世界の大きさと自分の小ささに目が開かれるように祈るべきではないでしょうか。すると、自分が神の豊かさから見たら、レプタ銅貨二枚しか持っていない貧しい者と同じであることに気づくことでしょう。しかも、あわてることはありません。神から与えられた使命を果たそうと生きだしたら、否が応でも、自分の弱さを実感せざるをえなくなるのですから・・・。その意味で、「謙遜にしてください・・」と祈るよりも、「使命に生かしてください」と祈るべきでしょう。そして、神は、貧しいあなた自身をご自身へのささげものとして心から喜んでくださいます。

3.「終わりは、すぐには来ません」

「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった」(21:5)とありますが、当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王がユダヤ人の気を惹くために大修復し大拡張したもので、その規模と美しさは世界の七不思議を上回ると言われます。その敷地面積は有名なアテネのアクロポリス神殿の二倍もあり、周囲の長さは1.55km、今も残るひとつの石の大きさは長さ13.7m、幅3.2m、奥行き4m、重さ570tにも及びます。そして神殿の中心部や飾りには、金がふんだんに使われていました。マルコによる福音書では、やもめのささげ物の記事に続いて、「イエスが宮から出てゆかれるとき、弟子のひとりがイエスに、『先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう』と言った」という記事が記されています(13:1)。弟子たちは、イエスがこれから三日後には十字架にかけられようとしているなどということを何も知らず、ただ目に見える神殿の壮麗さに感動していました。

それに対して、イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」(21:6)と言われました。これはユダヤ人たちが、人間的な意味での目に見える「神の国」の建設を願って、ローマ帝国に反抗してしまうことの結末を予告したものです。それはこれから約40年後に実際に起こりました。ユダヤ人の独立運動に対してローマ帝国は皇帝自らが軍隊を率いて遠征してきて、神殿の跡形もないほどに破壊しつくされました。それは、ユダヤ人たちが、エルサレム神殿を民族の誇りとしてとらえ、ローマ帝国の軍事力を凌駕するような目に見える「神の国」のシンボルと見ていたからです。

それを聞いた人々は驚きながら、イエスに、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」(21:7)と質問しました。それに対し、イエスは、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」(21:8、9)と言われました。

興味深いのは、偽預言者たちは、「時は近づいた」というのに対して、イエスは、「終わりは、すぐには来ません」と語っているということです。つまり、偽預言者の特徴は、「私がそれだ」と自分の権威を主張しながら、世の混乱がすぐに収束するようかのように語ることにあるというのです。いつの世でも、人々はインスタントな解決を求め、偽預言者はそれに答えようとしますが、イエスは、「戦争や暴動」は、神のご支配の中で起こることだと語られたのです。私たちは、目の前の混乱を見て、「神がこの世界の王なら、なぜこのような悲惨が許されるのか・・・」と疑問に思いますが、イエスは、それは驚くべきことではなく、起こるべきして起きていることとして語っているのです。

世の人々は、辛抱するのが苦手です。そして、神の救いを、インスタントな解決として理解しがちです。しかし、イエスは弟子たちに対して、「あなたがたは、世にあっては患難があります」とわざわざ保障した上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と、困難の中での勝利を約束してくださったからです。これは別に、クリスチャンになったらいつも目の前に悪いことばかりが起こるのを覚悟しなさいという意味ではありません。それよりは、たといわざわいが起こっても、それに驚きあきれ、「神が私の不信仰に対して罰を与えた」とか、また反対に、「神は無力で信頼するに値しない」などと思う必要がないという意味です。実は、この世の悲惨は、神の偉大さ、神の栄光が現されるための舞台に過ぎないということなのです。適度な苦しみがあるからこそ、神の救いを味わう機会があるのです。私たちは残念ながら、闇のコントラストでしか光を感じることができません。また争いがあるから平和のありがたさがわかり、目の前に不安があるから、神にある平安の意味がわかるからです。

つまり、このことを通しても、イエスは、みせかけに惑わされないようにと、私たちに警告を発しておられるのです。イエスの時代のエルサレム神殿はヘロデ大王が再建したものでしたが、それは外庭を含めた敷地からすればソロモンの神殿をはるかに超えるほどの規模を持ったものでした。しかし、ヘロデはそれを信仰によって建てたわけではありません。彼はユダヤ人ではなく、エサウの子孫であり、ユダヤ人の気を惹くために神殿の拡張再建工事をしたに過ぎません。しかも、その彼は大きな建築をするのが趣味のような人で、ローマ帝国を後ろ盾にしてユダヤ人を暴力で押さえ込んで、重税を課していました。まさに見栄と暴力によって、エルサレム神殿は再建されたのですが、肝心の契約の箱はその中にありませんでした。まさに当時の神殿は、見せかけに過ぎませんでした。

「人はうわべを見る・・・」というのは、残念ながら、多くの人にとっての真理です。律法学者が見せかけの敬虔さをアピールしたのは、人々がそのような形を期待したからでもあります。そのような中でイエスは、律法学者たちの偽善を暴き、それが見せかけの敬虔さに過ぎないことを非難しながら、弟子たちに、ひとりの貧しいやもめの信仰に目を向けさせます。それは神はみかけではなく心の内側を何よりも見ておられるということを意味しました。

そしてイエスは最後に、みかけはとてつもなく絢爛豪華なエルサレム神殿を指しながら、その完全な崩壊を予告しました。それは外面の壮麗さや豪華さに目を奪われる人への警告でもありました。イエスは、「神の国は、人の目で見られるようにして来るものではありません。『そら、そこにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」と言われました(ルカ17:20,21)。これは、私たちがイエスの名によってイエスの父なる神を、「天のお父様!」といつでもどこでも呼びながら、主が遣わされる社会の中に生きている、このただ中に、すでに神の国が実現しているという意味です。ある人は、職場に神の国を実現しようと頑張って、疲れてしまったと証していました。しかし、私たちが、ふと、その仕事の疲れの中で、無力感にさいなまれながら、「お父様!助けてください」と呼びかけているとき、そこに神の国が実現していると言えるのではないでしょうか。神の国とは、目に見えるものではなく、神との交わりのただ中にあるからです。

「いつくしみ深き」という有名な賛美歌の原歌詞では、「O what peace often forfeit, O what needless pain we bear, All because we do not carry Ev’ry-thing to God in prayer」(私たちがしばしば平安を失い、不必要な苦しみに苛まれるのは、すべてのことを神に祈りによって持ってゆこうとしないからなのだ)と歌われています。