エレミヤ39章〜43章「神のご支配を忘れた民の悲劇」 

2009年5月31日

ある方のブログに、「国家とは、他国からの核攻撃や侵略では決して滅びない。むしろ国は、内側から滅びる」と書いてありましたが、それは多くの歴史家が認めている真理です。ローマ帝国や中国の帝国が内側の腐敗によって滅亡したということはしばしば描かれていますが、人間の目には驚くほど小さな国ですら、滅ぶときは「内側から滅びている」というのが、今回の箇所で明らかになります。それは、すべての共同体、組織に適用できる原則です。それにしても、まわりの人々が、次から次と保身に走るようになるとき、自分も巻き添えになるのではないかと不安になっても当然でしょう。共同体が滅びるとき、もっとも身近な人が敵となってしまいます。しかし、だからこそ、私たちは、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(マタイ10:28)といわれた言葉を常に覚えたいと思います。詩篇作者も、「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい」(詩篇118:8,9)と語っているとおりです。そして、それぞれが主に信頼するとき、そこに結果的に互いへの信頼関係が生まれます。人の和を作ろうと頑張ると、人に裏切られます。しかし、人はいざとなったら裏切るということを知りながら、主に信頼するときに、人を許すことができ、また互いへの信頼が生まれます。

1.自分の命を守ろうとしゼデキヤ王の悲惨な最期

「ユダの王ゼデキヤの第九年、その第十の月に」とは、紀元前588年1月のことだと思われますが、「バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲し」ましたが、それから約一年半後の「ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日」つまり、紀元前587年の7月に「町は破られ」ました(39:1,2)。その直前に町の飢饉が激しくなり、親が子供を焼いて食べるというほどの悲惨が起きました(哀歌2:20,4:10)。それは既にモーセによって預言され(申命記28:53)、またエレミヤも預言していたことでした(19:9)。このようになったのは、ゼデキヤが王としての責任を果たさず、ネブカデネザル王の怒りを買うような行動ばかりをとっていたからでした。

ゼデキヤは人の顔色ばかりを見て、一見柔軟に対応しますが、彼がエレミヤに本音を語ったように(38:19)、自分の身を守ることばかりを優先し、エルサレムや神殿の将来のことを微塵も考えていませんでした。実際、町が破られ、バビロンの指導者たちが突入してきたとき、「ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って町を出、アラバ(ヨルダン渓谷)への道に出た」(39:4)というのです。彼らには指導者としてエルサレムの住民を守るという意識がなかったことがこれで明らかになります。

「しかし、カルデヤの軍勢は彼らのあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえて、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカデレザルのもとに連れ上った。そこで、王は彼に宣告を下した」(39:5)とありますが、ゼデキヤはエルサレムから東の方向に山を急いで下りきったのですが、そこで捕らえられ、そこからはるか北に連行され、現在のシリヤの中心部にあるリブラという町にいたネブカデネザル王の前に立たされます。

そこで、「バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子たちをその目の前で虐殺し、またユダのおもだった人たちもみな虐殺し、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行った」(39:6、7)というのです。ゼデキヤが最後に見た光景は、自分の息子が殺される場面であり、その後、彼の目がつぶされ、バビロンまで連行されます。これが、神を恐れず、人を恐れてばかりいた自己中心者の最後でした。

そして、「カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした」(39:8)と簡潔に記されますが、繁栄を極めた町は廃墟とされたのです。そして、「侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した」(39:9)とは第三次バビロン捕囚のことを指します。「しかし侍従長ネブザルアダンは、何も持たない貧民の一部をユダの地に残し、その日、彼らにぶどう畑と畑を与えた」(39:10)とあるように、彼らは決して無差別殺人をするような残虐な人間ではありませんでした。そればかりか、「バビロンの王ネブカデレザルは、エレミヤについて、侍従長ネブザルアダンに」、「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ」(39:11、12)という彼ひとりのための命令まで与えます。それは、エレミヤがエルサレムの指導者たちに速やかにバビロンに降伏することを勧めていたということを聞いていたからです。こうしてエレミヤの命は守られましたが、それは、主がエレミヤに、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い・・助け出す」(15:20)と約束しておられたとおりでした。

ところで、これに先立って、「エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき」、主はエレミヤの命を守った「クシュ人エベデ・メレク」に対して、「見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる・・・しかしその日、わたしはあなたを救い出す・・・わたしは必ずあなたを助け出す・・・それは、あなたがわたしに信頼したからだ」と言われました(39:15-18)。

つまり、人の顔色ばかり見て優柔不断だったゼデキヤは悲惨な最期を遂げ、主に信頼し続けたエレミヤもエベデ・メレクも町が廃墟とされる中でも、その命が守られたというのです。

2.敵国バビロンに見られた信仰と寛大さ  ゲダルヤの油断

バビロンの侍従長ネブザルアダンは、エルサレムのすぐ北の町ラマにおいてからエレミヤを釈放しましたが、そのとき彼は、「バビロンへ引いて行かれる・・捕囚の民の中で、鎖につながれて」いました(40:1)。その際、侍従長はエレミヤに、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、主(ヤハウェ)はこれを下し、語られたとおりに行われた。あなたがたが主(ヤハウェ)に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ」(40:2,3)と、バビロンによるエルサレム征服を、自分たちの意思以前に、主(ヤハウェ)のみわざとして認めています。これは驚くべきことで、エレミヤの預言がバビロンにまで知られていたことの証です。

侍従長は、「もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう」と言いながらも、「もしここにとどまるなら」(5節別訳)、「バビロンの王がユダの町々をゆだねたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民の中に住みなさい」と言いました(40:4,5)。それで「エレミヤは、ミツパ(エルサレムの北方約12km)にいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、国に残された民の中に住」ことになりました(40:6)。当時エルサレムは、もう人が住めない廃墟になっていたからです。

そして、「野にいた将校たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその国の総督にし、彼に、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、国の貧民たちをゆだねたことを聞いた」ので、そこに、「ネタヌヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナン」などが集まってきました(40:8)。このイシュマエルは王族の一人で後にゲダルヤを暗殺します。またヨハナンはその彼を殺して、残りの民を、主のみこころに反してエジプトに導いた人です。つまり、バビロンへの抵抗運動を続けていたゲリラ兵士がゲダルヤのもとに集まってきたのです。そこで、ゲダルヤは、彼らに誓って、「カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。私も、このように、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデヤ人の前に立とう。あなたがたも、ぶどう酒、夏のくだもの、油を集めて、自分の器に納め、あなたがたの取った町々に住むがよい」(40:9、10)と抵抗運動を諦めるように言いました。これはエレミヤが以前から預言していたのと同じことばです。また、そこには周辺の国々に逃れていたユダヤ人たちは、「ミツパのゲダルヤのもとに行き、ぶどう酒と夏のくだものを非常に多く集めた」という一時的な繁栄が生まれました(40:11、12)。

ところがそこで、ヨハナンはゲダルヤに、「アモン人の王バアリスがネタヌヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのを、いったい、ご存じですか」と尋ねます(40:14)。しかし、ゲダルヤは、それを信じませんでした。ヨハナンはこのことに非常な危機意識を持っていたので、「では、私が行って、ネタヌヤの子イシュマエルを、だれにもわからないように、打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか」(40:15)とまで言いました。ところがゲダルヤはヨハナンを差し止めたばかりか、「あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っている」(40:16)と非難しました。

ゲダルヤはあまりにもナイーブだったのではないでしょうか。彼は、バビロンに抵抗運動を続けてきた人たちがすぐにバビロンに服従するなどという甘い期待をどうして持ってしまったのでしょう。しかも、隣国の王の策謀にも無頓着で、自分を支えてくれるはずの人まで退けることになってしまいました。ただバビロンの王はそのようなゲダルヤの性格を知っていたからこそ残りの民をまとめる総督に任じたのでしょう。ただ私たちは、イエスが、弟子たちを派遣するにあたり、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われたことを覚えるべきでしょう。人を疑わないのは良いことかもしれませんが、それは決して、聖書的な発想ではありません。エレミヤもかつて、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(17:9)と記していたように、人の罪深さをよく知った上で、騙される危険をよく認識した上で、なおその人を愛してゆくというのが神のみこころです。

3.互いに傷つけあって滅びに向かうユダの民

ところが「第七の月」に、イシュマエルは十人の部下とともに、ミツパでゲダルヤのもてなしを受けている最中に、ゲダルヤを剣で打ち殺すという暴挙に出ました。彼はゲダルヤを支持するユダヤ人もバビロンの兵士も殺してしまいます。これはエルサレムが滅びた翌年あたりのことかと思われますが、定かではありません。後に、エルサレム神殿が滅ぼされた第五の月と、この第七の月は、断食をして嘆く日と定められましたが(ゼカリヤ7:5)、それほどにユダヤ人全体にとっての悲しみの日になりました。なぜなら、ユダヤの残りの民は、バビロンの王が総督に任じたゲダルヤのもとで、なお約束の地に住むことが許されていたのに、それが閉じられるきっかけになったからです。

それに続いてさらに大きな悲劇が起きます。「ゲダルヤが殺された次の日、まだだれも知らないとき、シェケムや、シロや、サマリヤから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげをそり、衣を裂き、身に傷をつけ、手に穀物のささげ物や乳香を持って、主(ヤハウェ)の宮に持って行こうとしていた」(41:5)とありますが、彼らは昔の北王国の地に住んでいながらエルサレム神殿の崩壊を嘆き、廃墟となったエルサレムで嘆きつつ礼拝するためにミツパを通過しようとしました。イシュマエルは彼らを歓迎するふりをし、殺して穴の中に投げ入れました。ただそのうちの十人だけが、「小麦、大麦、油、蜜を畑に隠していますから」(41:8)と言って難を逃れることができました。これはイシュマエルが、神への熱心のためにバビロンに反抗していたのではないことを明らかにするとともに、食料に不足していたことを示します。イシュマエルは、ミツパに残っていたすべての民をとりこにして、ヨルダン川東の国のアモン人のところに向かいました(41:10)。つまり、彼は同胞を敵国に売って、自分の身を守ろうとしたのです。

その後、「カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校」は、イシュマエルと戦うために出て行き、ミツパでとりこにされた民は解放されますが、「イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前をのがれて、アモン人のところへ行った」というのです(41:11-15)。もしヨハナンが、イシュマエルの首をはねてバビロンの王に届けることができたなら、その後のことは違っていたでしょうが、この曖昧な勝利は、残されたユダヤ人たちを不安に陥れました。それで、「ヨハナンと、彼とともにいたすべての将校は」、「イシュマエルから取り返したすべての残りの民・・・たちを連れて、エジプトに行こう」と計画し、ベツレヘム近郊にまで南下しました(41:17)。彼らは、バビロンの総督とされたゲダルヤが殺された責任を、バビロンの王から問われることを恐れていたからです。

4.人間的な安心を求めて、主のみこころに反抗し、滅びる民

そのような中で、「すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、預言者エレミヤに」、「私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主(ヤハウェ)に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主(ヤハウェ)が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように」と願います(42:1-3)。

預言者エレミヤが、「主(ヤハウェ)があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません」(42:4)と言ったことに対し、彼らは、「私たちは、すべてあなたの神、主(ヤハウェ)が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行います・・良くても悪くても・・・あなたを遣わされた私たちの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き従います。私たちが・・・しあわせを得るためです」(42:4-6)と断言します。

「十日の後、主(ヤハウェ)のことばがエレミヤにあった」ので、彼は、主のことばをそのまま告げ、「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな・・・わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを・・救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる」と言います(42:8-12)。

それと同時に、主の警告として、「もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、  あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき・・・心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう・・・わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない」と言われます(42:16-18)。

ところがそれに対し、「ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに、「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主(ヤハウェ)は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ」(43:2,3)と言って反抗しました。彼らは、少し前に、「良くても悪くても・・・あなたを遣わされた私たちの神、主(ヤハウェ)の御声に聞き従います」と言っていながら、自分たちの期待に反する答えを聞くと、それは主のみこころではないと拒絶しました。これこそ肉なる人間の姿です。その結果、「ヨハナンと、すべての将校は、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべてを・・・それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、エジプトの国に行った」(43:4-7)というのです。残念なことに、エレミヤも書記のバルクも、残りのユダの民を守るためにこの地に残ったのに、その同胞によってエジプトの地に連行されてしまったのです。「彼らは主(ヤハウェ)の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパヌヘスまで来た」(43:7)とありますが、それはナイル川河口デルタの東の地でエジプトの領地でした。彼らは、これでバビロンの攻撃を恐れる必要がなくなったと安心したことでしょう。

ところが、タフパヌヘスで、主はエレミヤに、「大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパヌヘスにあるパロの宮殿の入口にある敷石のしっくいの中に隠」させながら、「見よ。わたしは人を送り、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える」と言われました(43:8-10)。つまり、ユダの民がエジプトに救いを求めても、バビロンの王が「エジプトの国を打ち、死に定められた者を死に渡し、とりこに定められた者をとりこにし、剣に定められた者を剣に渡す」というのです(43:11)。これは、主のさばきの御手から誰も逃れることができないという意味です。この当時、世の多くの人々はまだ、バビロンのような新興国よりも伝統あるエジプトに信頼を寄せていました。ところが、主は、バビロンの王が、「エジプトの国にある太陽の宮の柱を砕き、エジプトの神々の宮を火で焼こう」と言われたのです(43:13)。

ユダの残りの民は、バビロンへの恐れに圧倒されていました。せっかく主のみこころを求めながら、それを信じることができず、主の御心に反して、人の目に大国と見えたエジプトに助けを求め、そこで死ぬことになります。残念なのは、エレミヤもいっしょに連行されてしまったことです。彼がどのように死んだかはわかりませんが、彼は自ら苦しみの道を選び取りました。そこには、反抗する民に最後まで語りかけようとする神のあわれみがありました。

自分のことしか考えられなかった臆病者ゼデキヤの悲惨な最期を見るとき、平気でうそをつく人間に対する神のさばきを知ることができます。ゲダルヤはとってもよい人でしたが、人の心を知らないために裏切られ、多くの人を道連れにしました。イシュマエルは救いようのない悪人ですが、彼のような人が混乱期には出てくるのが歴史の常です。ヨハナンも良い人なのですが、アンビバレントな信仰に振り回され、目に見える権力を恐れ、またそれに頼り、自滅します。そして、そのように、神を恐れず、人を恐れる者たちによって、エジプトに下ったユダの民は滅びます。エレミヤは迷える民の中に住むことを選び、報われない最後を迎えますが、主はそのようなエレミヤに豊かな報酬を用意しておられます。あなたはどなたの目を意識して生きているのでしょう?この世の安心を求めたいのは人間の常ですが、それでは生かされている意味がわからなくなります。しかし、神は、そんな私たちのためにご自身の御子を世に遣わし、私たちの罪の身代わりとしてくださいました。主の十字架の陰に隠れる者は、神の怒りを恐れる必要はありません。しかし、人を恐れ、世の人に調子を合わせて生きる者は、神の怒りを受けます。私たちもイエスの十字架がなければ、ゼデキヤやヨハナンのように恐れに圧倒されながら滅びに向かったことでしょう。ただ、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモテ1:15)ことのゆえに私たちは救われます。そして、その主の愛に応答しながら生きようとする人の周りには、結果的に、主にある信頼関係が生まれます。