詩篇91篇「疫病の恐怖の中であなたを用いる神」

2022年1月2日

詩篇91篇の大きなテーマの一つは「疫病」からの救いですが、これは多くの英語訳では Pestilence と記され、歴史上の最も恐れられた感染症の「ペスト」を指しています。

14世紀のヨーロッパでは の流行のために当時の全人口の三分の一に相当する2、500万人が死んだとも言われます。それは当時のカトリック教会の権威を大きく失わせることになり、それが後の宗教改革にもつながったという解釈もあります。

しかし一方で、2世紀にローマ帝国で起きたペストのような疫病では人口の四分の一から三分の一が死んだという推測もありますが、この期間にキリスト教会の急成長が見られたと言われます。それは当時の異教徒たちが感染した人を家の外に放り出す一方で、キリスト教会がそのような患者を次々と受け入れ看病してきたので、そこで癒される人も多く、感染症が落ち着いたころには、教会に繋がる人の人数が教会の外から見てずっと多くなっていたからです。

中世のペストでは教会の権威が失われた一方で、古代教会では教会の急成長に繋がっていたというのは興味深いことです。それは、古代教会では、病気にかかった人の世話をして感染する人は、殉教者として尊敬された一方で、中世社会では、教会の祈り」が感染拡大を防ぐことに効果を発揮しなかったことに目が向けられたからではないでしょうか。

今回のコロナが落ち着いたとき、教会が成長しているか、衰退しているかが問われるかもしれません。

詩篇91篇では、神はご自身に信頼する者を「恐ろしい疫病」から「救い出してくださる」と約束されています (3–7節)。古代教会の人は、この約束に信頼して感染者に手を差し伸べ、たとい感染しても、神はその人をご自身の憩いの中に招き入れてくださったと信じました (ピリピ3:23)。

一方、中世の時代は魔女裁判が盛んな時でもあり、「わざわいを避ける」ことばかりに目が向かっていました。そのような感覚でこの詩篇を読むと、神に信頼しても感染を避けることができなかったという神への不信に結びつきます。

1.「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる」

1節は「いと高き方の保護 (shelter) のもとに座る者は、全能者(シャダイ)の陰に宿っている」と訳すことができます。「いと高き方」とは、神がこの地のはるか高くから、全地の王としてこの世界を治めていることを示す呼び名です。

私たちがこの方を自分の「保護」者として拠り頼むとき、その人は不可能を可能にすることができる「全能の神」(エル・シャダイ)の御守りの中に生きていることを告白していることになります。

そのような中で詩篇作者は、「主 (ヤハウェ) に」向かい「私の避け所、また、とりで、信頼している私の神」(2節) と告白します。私たちは、自分で自分の身を守るように小さいときから訓練をされていますが、最も核心的な部分では無意識的な信頼感がなければ電車に乗ることも、飛行機に乗ることもできませんし、人ごみの中に出ることもできません。

私たちは基本的に、いつも何かに信頼しながら生きています。たとえばゆうちょ銀行になけなしのお金を預けることだって同じです。そのお金のほとんどは国の借金の穴埋めに用いられていますが、国家財政は破綻しないと、みんな思っています。

しかし私たちは、もっと自分がどなたに信頼するかを意識する必要があります。みんなと一緒であれば沈没の可能性が高い船にさえも乗ることができるかもしれませんが、そこにある安心感は幻想に過ぎません。

私たちは、「光があれ」と仰せられた一言で (創世記1:3)、光を創造された全能の神に信頼するように召されているのです。

その上で作者は、自分の体験から隣人に向かって、「まことにこの方が、あなたを救い出してくださる」と、「私の神」のことを紹介します (3節)。そして、その救いを具体的に、「仕掛けられた罠から、また、恐ろしい疫病から……」と付け加えます。

まず「仕掛けられた罠からの救い」と描かれますが、「この社会で何か積極的な働きを始めようとするとき、罠を仕掛け、その人を追い落とそうとする人が出てきます。私たちはそれに注意を払う必要がありますが、あまりそれを気にし過ぎても、人との協力関係を築くことはできません。

私たちはそこでは、何よりも、そのような罠を無効にしてくださる神に信頼するのです。

さらに「恐ろしい疫病からの救い」ですが、この「疫病」ということばがペストとも訳され、ヨーロッパでは感染症の代名詞でした。

使徒の働き24章5節では、ユダヤの大祭司がパウロのことをローマ総督に向かって、「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人のという一派の首領でございます」と訴えています(新改訳第三版、2017年版では「疫病のような人間」)。それは当時のユダヤ教の指導者の目から見たら、パウロこそがペストの感染源で、誤った教えを病原菌のように広げている代表者と見られたのです。

とにかく、「恐ろしい疫病」とは感染症のことであり、歴史的にはペストがその最悪のもので、現在は新型コロナになったと言えます。私たちは天地万物の創造主である神を、新型コロナウィルスの恐怖から「救い出してくださる」方と信じているでしょうか。

そして、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている」(4節) と約束されますが、これは親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿です。たとえば昔、丸焼けになった親鳥の羽の下からヒナが飛び出てくるというようなことがありました。

またルツ記で、ボアズは呪われた民モアブの娘ルツに向かって、「あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主 (ヤハウェ) から、豊かな報いがあるように」(ルツ2:12) と語り、また、ルツはナオミの指示に従って、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を、あなたのはしための上に広げてください」(同3:9) と願います。

ルツはイスラエルの神の保護を求める資格のない女と見られていましたが、主はご自身の翼の下に救いを求めてきた者を退けることはないというのです。

罪の根本は、自分を神とし神の競争者になろうとすることです。主は、あなたがご自身の御翼の陰に身を避けてくるのを待っておられます。

その上で、主の真実は、大盾であり、丸盾である」と告白されます。「大盾」とは体全体を覆うことができるような防具で、その陰に隠れる時に矢を恐れる必要はありません。しかし、敵に囲まれているような中では、もっと身動きに手軽な「丸盾」が有効です。

「主の真実」は、そのようなあらゆる敵の攻撃からあなたを守る「盾」なのです。英語の有名な讃美歌に、「Great is Thy Faithfulness」(父の神の真実は)という歌がありますが、私たちは朝毎に、「父の神の真実」をほめたたえ、世の荒波に向かうことができます。

2.「あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも」

そのような中で、この著者は、「夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも」(5、6節) と告白します。多くの人は最近まで「疫病」などを恐れる必要はないと思っていましたが、今はこれが毎日の話題になっています。

そしてこの「疫病」が自分を隠しながら迫りくる姿が「暗やみを歩く」と描かれています。歴史的にペストは特にヨーロッパで猛威をふるいましたが長い間その原因が解明されることがありませんでした。しかし、1894年に中国南部でペストが発生した際、日本の北里柴三郎がすぐに香港に遣わされ、ペスト菌を発見するという歴史的な快挙を成し遂げました。

彼は感染の可能性を恐れることなく病原菌を突き止め、世界の歴史を変えたのです。

ただ、その直後フランスの学者エルサンも同じようにペスト菌を発見します。一時は、このペスト菌は北里エルサン菌とまで言われますが、北里の厳密さと謙遜さも影響して、エルサンのみが発見者と言われる時代が続きますが、発見から82年たった1976年のアメリカの論文で改めて、北里が第一発見者としての名誉が揺るぎないものとされました。

実は、北里の功績はペスト菌の発見よりも、それを感染対策に適用して日本をペストのない国にしたことにあります。それにしても、北里を何よりも有名にしたのはドイツ留学中に破傷風治療のための血清療法を開発したことにあります。

彼が師事したのは現在のドイツの感染学の中心のロベルト・コッホ研究所所の創立者で世界の感染学の父とも呼ばれる でした。北里はコッホの強い信頼を得ているがゆえに、世界的に認知される学者になりました。

北里はコッホという権威の「翼の下に身を避ける」ことによって大きな働きができました。私たちの場合は、はるかに偉大な万物の創造主の翼の下に身を避けることができます。

なお、北里は1908年にコッホを日本に招待し、明治天皇に歓待してもらうことまでセットします。皮肉にも、現在の北里大学白金キャンパスには が建っているとのことですが、現代の日本に求められていることは、北里を神として崇めることよりも、北里がどのように「暗やみを歩くペスト」を発見し、ペストの撲滅に貢献したかという、その歩みを知ることかもしれません。

現在の日本は、感染を避けるための注意喚起ばかりに目が向かいますが、日本が世界を恐怖に陥れたペスト菌の発見と撲滅に大きな貢献をしたことをもっと語り、最前線で感染症の問題に向き合っている学者や医療従事者の開発を応援すべきではないでしょうか。

また6節後半の「真昼に襲う滅び」とは、「真昼の悪魔」と訳されることもあります。それは何とも言えない真昼の倦怠感として現れます。私たちが「こんなことを続けていて何になるのだろう……自分の働きなどあってもなくても同じだ……」と思えてしまうような気持ちです。人によってはそのために、新たな興奮を求めて放蕩に走ったり、また、反対に自殺を考えたりします。

結果が出ても出なくても、目の前の課題に誠実に取り組むためには、「主の真実」(4節) を、繰り返し思い起こす必要があります。その際に大切なのは、しばしば、主の前に少しの間でも静まって、心と身体を休めることではないでしょうか。

さらに「千人があなたのかたわらに、万人が右手に倒れても、あなたに、それは近づかない」(7節) とは、先の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人が回りに満ちるようなことがあっても、「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。

ここでは「あなたに」ということばが強調されます。

そして、「ただ、あなたの目でそれを眺めるだけだ」(8節) とは、あなた自身に対する攻撃に対して、神が「盾」となってくださることを、あなたがその目で見るという意味です。攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。

なお続く、「悪者への報いをあなたは見る」とは、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を、軽蔑する代わりに、悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。

それと対照的に、あなたが守られている理由が、「それはあなたが、私の避け所である主 (ヤハウェ) を、いと高き方を、住まいとしたからである」(9節) と告白されます。

この主を「住まいとする」と言う表現は、詩篇90篇1節にもある表現です。それは私たちの地上のいのち、日々の生活が、神の御手の中に守られていることを覚える生き方です。そこにはこの肉体の命の終わりをも指す概念でもありますが、パウロが、「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒17:28) と言ったような生き方でもあります。

さらに、「わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病 (plague) も、あなたの天幕に迫りはしない」(10節) とは、6、7節を言い換えたものです。

「疫病」「滅び」「わざわい」「伝染病」はそれぞれ異なった原文ですが、基本的な意味は同じで、人間のコントロールを超えたあらゆる種類の害悪を指します。

確かに、津波も伝染病も人を選ばずに襲って来ますが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29、30) と記されるように、私たち一人ひとりは、神の前に「十把一絡げ」のような存在ではなく、個別にその名を持って呼ばれている高価で尊い存在です。

仏教的な運命論的な諦めで自分の人生を見てはなりません。

実際、7節に記されたように、一万人の人が死ぬ中で、一人が助かるということもあります。その時、「たまたま運が良かった……」というのではなく、神によって守っていただいたと考えるべきなのです。

もちろんそれを反対に、「わざわいに会ったのは、神の罰を受けたから……」などと判断することは差し控えなければなりません。神は、どんな大天災の中でも、あなた一人のいのちに関心を持っておられます。

3.「主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださる」

そのことが、「なぜなら、あなたのために主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださるから。その手のひらで、彼らはあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(11、12節) と記されます。

これはイエスの公生涯の初めに、サタンが誘惑のために用いたことばです。

マタイ4章5、6節によると、悪魔はイエスをエルサレム神殿の頂に立たせ、神を試みるように誘惑し、「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」と言いました。

それに対しイエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると、その誘惑を退けました。

このときサタンは、「主は……すべての道で、あなたを守るようにしてくださる」という部分を省いてみことばを引用しています。

事実、イエスがゲッセマネの園で、苦しみ悶えて祈っておられた時、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:43) と記されています。

またイエスが捕えられた時、ペテロは剣を取って大祭司のしもべに打ちかかりましたが、そのとき主は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」(マタイ26:52、53) と言われました。

つまり、「すべての道であなたを守る」ことができる神が敢えてわざわい」が起きるのを許すことがあるのです。私たちのいのちは、神のみ許しがなければ決して失われることはありません。

あなたのいのちを守るのは神の責任であられ、あなたの責任は、神の命令であるならば、いのちの危険をも冒すこととも言えます。

なお、「獅子とコブラをあなたは踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」(13節) とは、平和(シャローム)の実現の詩的な表現で、そのときに私たちが恐ろしい獣を、完全に服従させるという意味です。

イザヤ11章では、救い主が実現してくださる平和の世界が、「小さい子供がこれ(若獅子)を追って行く」「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」と描かれます (6、8節)。

そして、私たちは今既に、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと(患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)の中にあっても、圧倒的な勝利者とされている(ローマ8:37私訳) と言えるからです。

人生に危険や苦しみはつきものですから、被害者意識や自己憐憫に流れることを注意しなければなりません。

14節からは神からの語りかけです。そこではまず「彼がわたしを恋い慕っているから、彼を助け出そう。彼を高く上げよう。わたしの名を知っているから……」と記されます。

この「恋い慕う」とは、「主 (ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは……」(申命記7:7第三版、拙著のタイトル) などと言われる際の言葉で、感情的な結びつきを伴った愛情の表現です。

これと似た表現では「すがる」ということばもあります。そのように神を恋い慕い、神にすがる人に対して、「わたしを呼び求めれば、彼に答えよう。わたしは、苦しみのときに彼とともにいる」(15節) と約束されます。

ここでは、私たちが苦しみに会うということが前提とされています。多くの人は、「神がおられるならなぜ、このような悲惨が起きるのか……」と問いますが、その答えは分かりません。

ただ、はるかに大切なことは、神が私たちの祈りを待っておられ、神がこの私一人の人生に深い関心を持っておられ、私と共に歩んでくださっていることを知ることです。

私たちが自分の決断で選ぶことができる分野というのは驚くほど少ない領域に過ぎません。親は子どもを育てる時、すべての環境を整えてあげた上で、そこで子どもができた些細なことを大げさにほめて自信を持たせるというプロセスを経ます。

子どもは世界を自分でコントロールできたような気になっています。それに対し、大人になるとは、自分が決して自分の力で生きているわけではないということを心の底から悟り、神と人とに感謝できるようになることです。

それにしても、神は私たちの些細な祈りを確かに聞いてくださり、それによって、すべてのいのちが神の御手の中にあることを知らせようとしておられます。

最後に、「わたしは彼を救助し、誉れを与えよう。長いいのちで彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見させよう」(16節) と記されます。

この詩篇では、同じ概念が様々な異なったことばで表現されますが、神はそれによってご自身が私たちの歩みに目を留めておられることを知らせようとしておられます。

「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。信仰の基本は、神との個人的な関係です。それはまさに、神がこの「私一人」に目を留めておられるということを知ることです。

ただし、信仰生活が長くなるにつれ、自分の祈りがまったく届かないと思える現実は多くなります。しかし、そのようなとき支えになるのが、「あの苦しみの中で、神は私を助けてくださった」という生きた記憶です。

そして、「私の願いはかなわなくて、かえってよかった」と思えることさえ出てきます。そのとき私たちは、神との生きた交わりの中で、「自分の願い」ではなく「神の願い(みこころ)」が何かを知るように導かれるのです。

アメリカの軍隊では、希望者に聖書全巻が無料で配布されますが、その第一ページ目は、創世記ではなく、驚くことにこの詩篇91篇でした。

軍人は国や家族を守るために自分の身体を危険の中に差し出すことが求められています。それはとっても恐ろしいことです。戦争は絶対に避けるべきだと言っても、歴史を見るとわかるように、国を守るために戦わざるを得ないときが起きて来ました。そこで何よりも励ましになるのがこの詩篇です。

人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めが、ここに記されています。

私たちの人生は、神の愛の御手の中にあります。それを離れてどのようなわざわいも起きることはありません。ですから、私たちに求められることは、わざわいを避けようとすることよりも、神の御旨であれば「わざわいを引き受ける」ことです。

北里はペストが蔓延する香港に行くことでペスト菌を発見し、疫病の代名詞となっているペスト感染を防ぐことができました。

欧米では医療従事者が英雄として尊敬されるのに、日本では感染源として恐れられるという皮肉があります。いのちを差し出す勇気よりも、誰かの迷惑になることを避けることに汲々としがちなのかも知れません。

感染症を正しく恐れることは何よりも大切ですが、「恐怖に負ける」ことは神のみこころに反します。ただ、「恐怖心を祈りに変える」ことはできます。そして、神のみこころであるならば、私は危険の中に入ることができるというのがキリストにある信仰です。