預言者イザヤは、イスラエル王国が圧倒的な大国から攻撃を受けるという中で、人間的な解決を求める前に、何よりも神の前に静まり、神に助けを求めることを優先しなければならないと繰り返し強調しています。
神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考える人がいますが、たとい目を見張るような成功があったとしても、それは私たちの功績である前に、神の恵みの結果です。自分の働きを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神様。罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13) と自分の胸をたたいて祈った取税人は神のあわれみを受けました。
信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのように振舞ってはなりません。
そのことが、「それゆえ主 (ヤハウェ) は、あなたがたに恵みを与えようと待ち焦がれておられる Yet the LORD longs to be gracious to you (NIV)」(30:18) と記されています。
信仰生活とは、この神の圧倒的な約束にいつも思いを巡らしながら生きることに他なりません。
残念ながら多くの人々がせっかく信仰に導かれながら、どこかで失望を味わい、神から離れてしまうのは、神が約束してくださった祝福の世界のことをリアルに思い巡らすことができなかった結果なのかもしれません。
1.「主 (ヤハウェ) は火の中を進んで来られる……激しく燃える怒りと火の炎による叱責とを返すために」
66章14節では、「あなたがたはこれを見て、心が楽しみ、その骨は若草のように生き返る。主 (ヤハウェ) の御手は、そのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに」と記されていました。
そこでは「主 (ヤハウェ) のしもべたち」の「心が楽しみ……生き返る」一方で、主の「憤り」が、主(ヤハウェ)の「敵たち」に「知られる」と記されます。
私たちは「しもべたち」はイスラエルの民で、「敵」とは敵対する異邦人の国々と思いがちですが、そうではありません。既に65章1節では、主(ヤハウェ)がご自身の民イスラエルに拒絶されながら、敢えて異邦人を招く様子が、「わたしに問わなかった者たちにわたしを尋ねさせ、捜さなかった者たちにわたしを見つけさせた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った」と描かれていました。
一方、イスラエルの民に関しては65章3–5節で、「わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに」と記され、彼らの姿が「この民は、いつもわたしの顔に逆らってわたしの怒りを引き起こしている。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、墓地に座り、隠れた所(見張り小屋)に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れ、『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたには聖すぎるから』と言う」と描かれていました。
彼らはイスラエルの神を礼拝する傍らで、それと並行しながら、周辺諸国の神々の礼拝の習慣を取り入れて、自分たちの礼拝が昔より発展していると誤解していました。
第二次大戦が終わる前の日本でも天皇崇拝、神社参拝と混合した日本的基督教が一世を風靡していた時期がありましたが、それは主の怒りを招く教えでした。
66章15節の最初の原文では、理由を示す接続詞が記されており、「それは、見よ、主 (ヤハウェ) は火の中を進んで来られるからだ。その戦車はつむじ風のよう。激しく燃える怒りと火の炎による叱責とを返すために」と記されています。
新改訳での「怒りを下し……叱責を下す」は、原文で「(怒りと叱責を)返すために」という厳しい動詞から始まっています。
戦時中に国策で作られた日本基督教団の指導者は、日本の弱い信者を守るために自分たちは泥をかぶるという覚悟で、靖国神社や伊勢神宮に参拝に向かいましたが、当時の軍国主義政府の迫害よりも、「激しく燃える怒り」と「火の炎による叱責」という主の報復を「恐れる」必要がありました。
イエスご自身も「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオン(300円ぐらい)で売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」(マタイ10:28–31) と言われました。
それはどんな厳しい迫害も主の御手の中で起きており、主はそれに耐える力も与えてくださるからです。
イエスはそれに続いて、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」(同10:33) と恐ろしく厳しいことを言われました。
ただご存じの通り、一番弟子のペテロは、三度もイエス様のことを知らないと言いながら、赦してもらうことができたことを忘れてもいけません。
とにかくイザヤは引き続き、主(ヤハウェ)のさばきの恐ろしさを、「実に、主 (ヤハウェ) は火をもってさばきに臨まれる、その剣ですべての肉なる者に対して。主 (ヤハウェ) に刺し殺される者は多くなる」(66:16) と描きます。
これは主の「愛」の裏に隠された主の「ねたみ」の感情表現とも言えます。主はご自身の民を恋い慕ってやまない方ですが、その愛を軽蔑し、浮気を繰り返す者に対して厳しい「ねたみ」を現わされます。
そしてさらに17節では、再び、主の怒りを招く当時の混合礼拝の姿が、「園のために自分の身を聖別し、きよめる者たち、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみなともに、絶ち滅ぼされる—主 (ヤハウェ) のことば」(66:16、17) と記されます。
「園」での礼拝に関しては、既に1章29節で、「あなたがたが慕った樫の木」「自ら選んだ園」という表現がありました。彼らは何か精霊が宿るとも言われる神秘的な果樹に、主が忌み嫌う豚の肉やネズミをささげていたのかと思われます。
それは何らかの繁殖、繁栄を願う異教の習慣を混ぜ合わせた礼拝だったのかと思われます。この世では何かに熱心であること自体が尊敬されがちですが、世の中を悪くするのは間違ったことに情熱を傾ける人々です。
神は、主ののみこころに反した独善的な情熱家、特に浮気に熱を上げる人を滅ぼされます。
「愛」と「ねたみ」はセットになっています。そのことは雅歌8章6、7節において、「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことはできません」と描かれています。
そして、「愛」の強さは、逆説的に「ねたみ」の強さで表現されるというのです。この点で、多くの日本人は神の愛を誤解しています。しばしば、日本では、夫の浮気に寛大に振舞うことができる妻が尊敬されますが、それは、もともと二人の間に親密さがなかったことの証しに過ぎないのかもしれません。
少なくとも、聖書が描く「愛」は、相手の浮気に動じないような心を意味はしません。
2.「すべての国民と舌(諸言語の民)とが集められる時が来ようとしている」
66章18節は、「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを(知っている)。すべての国民と舌(諸言語の民)とが集められる(時が)来ようとしている。彼らは来て、わたしの栄光を見る」と訳すことができます(原文不明、カッコ内のことば付加)。
それは65章1節のように神が反抗するイスラエルに代わって世界中の民族と言語の中から新しい神の民を集める、そのような新しい時代が来ようとしているという意味です。
45章22節で、主は「わたしを仰ぎ見て救われよ、地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22) と招きました。それを元にパウロは「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、膝をかがめ、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10、11) と語ります。
「すべての舌」が「イエスは主」と告白することで、主(ヤハウェ)の「栄光を見る」という時代が到来するのです。そこでは、勝手な正義を振りかざし、自分を世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり・・・自らを低くして……十字架の死にまでも従われた」(同2:6、7) 御子の姿が示されます。
全世界の諸民族、諸言語から、イエスを通してイスラエルの神を信じる者が起こされるのです。
そして19節では、「彼らの中にしるしをわたしは置き、彼らのうちの逃れた者たちを諸国民に遣わす」と記されます。「彼らのうちの逃れた者」とは、最初のイエスの弟子たちを指すと思われます。
イエスは十字架への道を歩みながら、ご自身のことを嘆き悲しむ女たちに向かい「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われました (ルカ23:27、28)。それはイエスの招きを拒絶するエルサレムに対する厳しい神のさばきを見ておられたからです。
そのとおりに紀元70年にエルサレムは廃墟とされましたが、エルサレムにいたクリスチャンはすべて、その前に、イエスのことばに従いエルサレムを離れ、近隣諸国に散らされてゆきました。
そして彼らが散らされ、遣わされて行く地が、「タルシシュ(スペイン)、プル(リビヤ)、弓を引く者ルデ(エレミヤ46:9、北アフリカの地)、トバル(トルコ)、ヤワン(ギリシア)、そして、わたしのうわさを聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない遠い島々に。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう」と描かれているのだと思われます。
さらに「彼らはすべての国民の中から、あなたがたの兄弟(同胞)たちをみな、主 (ヤハウェ) へのささげ物(贈り物)として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る—主 (ヤハウェ) は言われる」と記されます。
新改訳での「同胞」という訳は、世界中からイスラエルの民が再度集められるという解釈を含めているのかもしれませんが、この文脈は、異邦人が神の民の「兄弟」とされ、神のみもとに「ささげ物」として集められることと解釈すべきでしょう。
そのことがさらに、「それはちょうど、イスラエルの子らが穀物のささげ物をきよい器に入れて主 (ヤハウェ) の宮に携えて来るのと同じである」(66:20) と記されます。
ここで描かれた「ささげ物」は、申命記26章2節にあるように、神が与えてくださった地の産物の初物をかごに入れて神の神殿に携えてくる様子を示しています。
しかもここでは、その運搬手段が出発地によって多岐に渡ることが描かれます。砂漠を通過する際には「らくだ」がふさわしく、起伏の激しい地は「騾馬」、整えられた道は「車」で通ることができますが、それらによって世界中から神の民が集められます。
後にパウロはこの箇所を前提に、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです……異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださった」(ローマ15:16、18) と記しています。
さらに彼はその手紙の最初と最後で、自分の使命を「異邦人の中に信仰の従順をもたらすため」(1:5、16:26) と記しています。
21節で主(ヤハウェ)は、「さらにわたしは彼らの中から取って祭司とし、レビ人とする」と言われます。これは、アロンの子孫やレビ族の中から立てられていた神への献身者を、異邦人の中から立ててくださるという意味です。
ここにおいて、神の民はイスラエルの血筋という枠から完全に自由にされます。後にペテロはそれを前提に私たちすべての異邦人に向かって、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自身の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテロ2:9) と語りかけています。
3.「すべての肉なる者がわたしの前に礼拝に来る」
そのように人々がエルサレムに礼拝に集められるという約束に続いて、主は「なぜなら、このわたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、そのように、あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続くのだから」(66:22) と言われます。
神が創造してくださる「新しい天と新しい地」とは、もう決して朽ちることも、滅ぼされることもない、永遠の祝福の世界です。それと同じように、私たち自身と私たちの子孫たちも、永遠に「神の民」としての祝福を享受することができるというのです。
与えられた「永遠のいのち」は失われることがありません。なぜなら、私たちの信仰とは、人間的な信心の力ではなく、神によって創造され、神によって守られ続けるものだからです。
現実には、信仰を失って行く人が数多くいるように見えます。しかし、私にとっての信仰とは、「私はいざとなったら何をするか分からない軟弱な人間だけれども、神が私の信仰を守り通してくださると信じます」というものです。
私は自分で自分を守る必要はありません。なぜなら、「いのちは……神のうちに隠されているから」(コロサイ3:3) です。
先の65章17、18節で「新しい天と新しい地の創造」と、「新しいエルサレム」とそこに住む「民の創造」が並行して描かれていました。私たちは「死んだらパラダイスに行く」ことを人生の最終ゴールのように考えますが、聖書はそのようには記されていません。
「エルサレム」も現在の地上の都市の延長の用語ではありますが、それは人間の想像を超えた新しい「住まい」でもあります。ですから黙示録21章2節では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来る」と描かれます。
それはエデンの園にあった神との親密な交わりが園から都市へと発展的に回復されるという概念でもあります。
一方、私たちが思い浮かべる空間的な概念としては「新しい天と新しい地」と表現されます。それは、単に究極の心地よさというより、「家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる……自分の手で造った物を存分の用いることができる」(65:21、22) という場所です。
そこに確実に存在する働きは、建築、農業と音楽、躍ることの喜びです。ある牧師は若い頃、伝道に励むために楽器を捨てましたが、この「新しい天と新しい地」のイメージができてからチェロの演奏を始めました。
僕は将来には、金融と牧師の働きは確実に不要になると分かってから音楽に合わせて踊ることをはじめました。「新しい天と新しい地」で実現する楽しみを今から実践することは、夢を今から生きることに繋がります。
さらに23節では、「新月の祭りが来るごとに、安息日が来るごとに、すべての肉なる者がわたしの前に礼拝に来る」と記されます。
これは1章13、14節で、主がイスラエルの宗教指導者に向かって「もう、空しいささげ物を携えて来るな……あなたがたの新月の祭りや例祭をわたしは憎む」と言われたことと対照的です。
そこでは真に神に喜ばれる礼拝が生まれるのです。それゆえ、私が今から何よりも優先すべきことは、いつでもどこでも、ただイエスの父なる神だけにおすがりし、その神だけを礼拝し続けることです。
イエスはサマリヤの女との対話で、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理(真実)によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として(捜し)求めておられるからです」といわれましたが (ヨハネ4:23)、この文章の核心は、「父はまことの礼拝者を捜し求めておられる」とまとめることができます。
イエスが実現してくださる「救い」とは、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、真に神に喜ばれる礼拝が実現することです。この世界では人の価値が、どれだけ人や社会の約に立つ働きができたかによって測られますが、神は、そのような働きの成果以前に、「まことの礼拝者」を何よりも求めておられるというのです。
多くの信仰者もその点で優先順位を間違っているように思われます。礼拝こそ働きの原点です。マザー・テレサは、貧しい人々への慈善の働き自体が礼拝であると言いました。
そして、宗教改革の基本とは、この世のどのような仕事でも、神への祈りのうちになされるなら、仕事自体が神への礼拝となるということです。
それはパウロが、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ12:1) と語ったとおりです。
しかし、このイザヤ書の最後は、「彼らは出て行って、わたしに背いた者たちの屍を見る。そのうじ虫は死なず、その火も消えず、それはすべての肉なる者の嫌悪の的となる」(66:24) と警告されます。
「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。
第一次世界大戦後に作られた国際連盟の事務局次長を務めた新渡戸稲造は「武士道」という書を英語で記して、欧米諸国の人々に日本人の心に流れるキリスト教に似た道徳観念があることを紹介しました。
彼はバラと桜を比較しながら、「バラは、その甘美さの陰にとげを隠している……その生への執着は死を厭い、恐れているようである……桜は、その美しい装いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を捨てる用意がある」と信仰者の姿を描きました。
僕は以前、その解説を読みながら違和感を覚えました。多くの私たちは、桜のような生き方に憧れながら、バラのようにとげを隠して生きています。とげのない生き方ができるのは、人間のわざではなく、神のわざです。そして、礼拝とは、何よりも、神のわざがなされる機会です。
そして、神は、明快に、ご自身にすがってくる者を、その内側から造り替え、祝福を与えてくださる一方で、ご自身のあわれみを軽蔑する偽善者には「のろい」をくだすと言っておられます。
信仰とは、自分で自分を律することではなく、神に生かしていただくように自分自身を神に明け渡すことです。新渡戸と同時代の植村正久は「演劇的なる武士道」という書を書きながら、武士道には「体裁を繕い見栄えを飾る気風が染み込んでいる」という偽善性を指摘しています。
しかし、新渡戸の信仰の歩みの解説を読むことで彼に対する誤解が正されました。彼は札幌農学校時代に母の死に目に会えず、信仰の挫折を体験した中で、「父の光を見たり」と日記に記しています。
まさに彼は「神の息吹」に触れることを通して信仰が確立し、その後も毎日、主の前にただ静まり、「内なる光」と彼が呼ぶ聖霊の導きによって日本や世界に対して大きな影響力を発揮していったのです。
礼拝とは、神の前に自分の内側にある毒やとげを隠すことなく表すことです。イザヤは、神ご自身が世界を新しく、神ご自身が人間を新しくし、神ご自身が新しいエルサレムと神の民とを創造してくださると繰り返しています。
人間のわざではなく神の圧倒的な「みわざを待ち望む」礼拝を続けたいものです。