イザヤ65章16~25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」

2024年3月3日

私たちは今、「すぐに結果を出さなければ……」というプレッシャーの世の中に置かれています。私自身もかつてそのような職場に身を置き、その発想を身に染み込ませて牧師になりましたが、そのために信仰生活が苦しくなった時期があります。なぜなら、あまりにも結果が見えなさ過ぎるからです。それは目に見える教会の成長のことばかりではありません。「これだけ神のみことばに親しんでいるのに、どうしてこうも僕は成長できないのだろう……」と思ってしまうことがあります。

しかし私たちは今、2700年前に記されたみことばを読んでおり、そこには神のことばを何度も受けながら、成長しなかったイスラエルの歴史が描かれています。ただそこには同時に、神は最終的に、一瞬のうちに私たちも世界も変えてくださると約束されています。変化は一瞬のうちに起きます。そのときまで、自分の成長などを測る代わりに、神から与えられた課題に地道に誠実に対応していればよいのです。

性急な結果を求める姿勢こそが、心の余裕を奪い、愛の冷めた世界を作り出します。しかし、この途方もなく偉大な神の救いのビジョンに心を留めるとき、何か、とてつもなく、心が軽くなるような気がします。そして、永遠へのことに目を向けることで、かえって、今、ここに既に実現している神の恵みを感謝し、喜ぶことができるようになってきます。

1.「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。このわたしが創造するものを」

65章16節では、「この地で自分を祝福する者は、まこと(アーメン:真実)の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、まこと(アーメン:真実)の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」と記されます。

それは、アブラハム以来の信仰者の歩みが、「信仰をもとに、これらの人々はみな、死にました。約束のものを受け取ることがないままに、遠くからそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11:13) と描かれていたような、憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることができる世界が実現することを意味します。

そして神の驚くべき約束が、「それは、見よ、新しい天と新しい地をわたしが創造するからだ。先のことは思い出されず、心に上ることもない。むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ、このわたしが創造するものを。それは、見よ。エルサレムをわたしが創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ」(65:17–19) と描かれます。

文頭の「それは (For) 」という接続詞は、「まことに」(新改訳第三版)とも訳されることがありますが、「それは」と訳した方が先の文章との関係が明らかになると思われます。

ここでは、「わたしが創造する」と三度も繰り返されていることに注目すべきです。なお、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応します。この世界は天と地の創造から始まり、「新しい天と新しい地」の創造で完結します。

しかもこれは、エルサレム神殿が破壊され、バビロン捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らは北から攻め寄るアッシリアやバビロンと、南のエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました。

かつてモーセは彼らに、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19) と繰り返し語っていたにも関わらず、その警告を無視して、のろい」を選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。

ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22) と招くと同時に、「イスラエルの子孫はみな 主 (ヤハウェ) によって義とされ、主を誇りとする」(45:25) という最終的な「救い」が約束されていました。

私たちの人生はしばしば失望の連続ですが、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。

私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画によって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) と大胆に告白することができます。

この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

そこで、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」(17節) と描かれるのは、すべての苦しみが遠い昔の夢のように思える祝福の世界が実現するからです。人の心が過去の痛みに囚われるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。

ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。

しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、「今、ここで」の神のみわざではなのではないでしょうか。

その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。このわたし(強調形)創造するものを」(18節) と、ご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。

それは、神が既になされた、また今もなしておられる新しい創造のみわざ今ここで喜ぶことから始まります。またそれは新しいいのちの誕生から、新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。

しかもそれは最終的に、「エデン(至福の喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。

そのことを、神は、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ」(18節) と保障してくださいました。私たちはそれが実現したかのようにこの地で生きることができます。つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での、また「新しいエルサレム」での祝福に満ちた「いのち」のつぼみを、今から体験することなのです。

しかもここでは神がエルサレムという都市と同時に、その民を新しく「創造する」と敢えて断言しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。

その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる私たちをご自身の民として楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り変えてくださるからです。

それに続けて、主(ヤハウェ)はさらに繰り返すように、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節) と言われます。

18、19節で「喜び」「楽しむ」ということばが繰り返されています。もちろん私たちは、「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13) と祈る謙遜な態度は必要ですが、バプテスマによって「キリストを着た」(ガラテヤ3:27) 私たちを、主が「喜び」「楽しんでおられる」ことも忘れてはなりません。

2.「そこには……寿命の満ちない老人もない……彼らはむだに労することはない」

65章19節後半の「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれることがない」とは、それ以降の文章の要約でもあります。

そして、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない、それは、幼子が死んでも百歳になっており、罪人がのろわれても百歳になっているからだ」(20節) という不思議な説明が描かれています。

これは決して「新しい天と新しい地」、また「新しいエルサレム」に「死」とか「罪人」がなお存在するという意味ではなく、そこには死ものろいもないということを詩的に表現したものです。

それは既に25章6–8節で、「万軍の主 (ヤハウェ) は、この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを呑み込み(取り除き)、永久に死を呑み込まれる(滅ぼされる)。主 (アドナイ) ヤハウェは、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる)」と記されているとおりです。

パウロはこの箇所を引用しながら、終わりの日の死者の復活を、「終わりのラッパとともに……死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです……この死ぬべきものが死なないものを着るとき、『死は勝利に呑み込まれた』というみことばが実現します」(Ⅰコリント15:52、54) と記しています。

またパウロは、それを、「死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれる(Ⅱコリント5:4) とも記しています。

「新しい天と新しい地」に関する描写はすべて、預言された神のさばきとの対比で考えられるべきです。

申命記28章15~68節には、主(ヤハウェ)の御教え(トーラー)を聞こうとせず、守ろうともしない者に対する「のろい」の数々が描かれていました。

そこでは「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる……あなたの胎の実も大地の実りも……のろわれる……主 (ヤハウェ) は疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って所有しようとしている地から、あなたを絶ち滅ぼす。主 (ヤハウェ) は肺病、熱病、高熱病、悪性熱病、また干ばつ、立ち枯れ、黒穂病であなたを打つ。これらのものは、あなたが滅びるまで、あなたを追いかける」(申命28:16、18、21、22) という「のろい」の預言が記されていました。

さらに「のろい」の時代には、「あなたが……家を建てても、その中には住めない。ぶどう畑を作っても、その初物を味わうことはない……あなたの大地の実りもあなたの労苦の実もみな、あなたの知らない民が食べる」(申命28:30、33) と預言されていました。

先に記したようにモーセはこれらの警告の後、イスラエルに選択を迫りましたが、彼らが「死」と「のろい」を選び、国を失うというのがイスラエルの歴史でした。

それと対照的な描写として、65章21、22節が描く新しい「祝福」の時代には、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」と約束されています。

そして、のろい」の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました。さらに、「わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節) とは、このような「祝福」は、イスラエルばかりか、主(ヤハウェ)ご自身が選んでくださったすべての民に実現するという意味です。

私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。

そして21、22節をまとめて、「彼らはむだに労することがない」(23節) と力強く宣言されます。

パウロはこのみことばを前提に、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と語りました。

まさにキリストの復活によって「死は勝利に呑み込まれた」(15:54) のです。まさにキリストの十字架と復活によって、のろい」の時代が過ぎ去り「祝福」の時代が実現しました。

3.「狼と子羊はともに草をはみ。獅子は牛のように藁を食べ」

65章23節では続けて、「また、恐怖に会わせるために子を産むこともない」(新改訳脚注参照)と記されます。

たとえば、義人ヨブでさえは激しい苦しみの中で、「自分の生まれた日を呪った」(ヨブ3:1) と記されていましたが、新しい世界では、「生まれてこなければよかった……」という嘆きがなくなるというのです。

さらに、「彼らは主 (ヤハウェ) に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ」(23節) と記されますが、ここには三世代の祝福が保障されています。

それも主のみ教え(トーラー)を軽蔑する者に対するさばきが「罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる」(出エジ34:7) と記されていたこととの対照です。これはたとえば、様々な依存症や家族関係の問題が子の世代ばかりか孫の世代をも不幸にする傾向が見られることとの対比として、祝福の時代が始まっていると解釈できます。

依存症や虐待の背後に、自己嫌悪感がありますが、主がこのままの私の存在を「喜び」「楽しんでおられる」と分かるときに自分を見る目が変わるからです。

もちろん、その変化には驚くほどの時間がかかり、忍耐が求められるかもしれません。しかしそれは、真冬の寒い時に梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたのを見ることに似ています。

待っていれば確実に美しい花を見ることができるからです。その新しい天と新しい地のつぼみこそこのキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています。

24節ではさらに、「そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」と記され、「わたし」ということばが敢えて記されます。それは主(ヤハウェ)がご自身の民に対して「御顔を隠しておられる」(詩篇30:7等) という状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。

ここでは、「わたしは……」という主ご自身の意思が強調されていますが、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。

それはレビ記26章36、37に描かれた「臆病(おびえ)」の支配からの救いでもあります。

そこでは「あなたがたのうちで生き残る者にも、敵の国にいる間、彼らの心の中に臆病を送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣から逃れる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣から逃れるかのように折り重なってつまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできないと記されていました。

残念ながら、今も、神との交わりを知らず、いつも何かを怯えながら生きている人々が多くいます。私は長い間、自分の心がいつも安定している状態に憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなりました。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。

赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教するかのように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前で、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません。

なぜならイザヤ30章18節では、主が私たちの祈りを待つ姿が、「主 (ヤハウェ) は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち……あわれみを与えようと立ち上がられる」(同18節) と描かれているからです。大切なのはその主の招きに応じることです。

そして65章25節には、「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。——主 (ヤハウェ) は言われる」と記されます。

これはこの世界から弱肉強食がなくなることを意味します。この同じことが11章6–9節でも描かれながら、そこでは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの巣に手を伸ばす…… (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」と記されています。そして、その約束はキリストによって実現する最終的な「救い」であると保障されていました。

私たちはこの世界に平和が満たされることを願います。しかし、人間の力で平和を実現できるという楽観主義が、自分の政治信条を絶対化し、他人の意見を軽蔑するという争いの原因となっていることが多いように思われます。

すべての戦争は、自分にとって好ましい平和を実現しようと急ぎすぎる結果として生まれています。しかし、神がご自身のときに、この世界に完全な平和(シャローム)を実現してくださるということを信じるなら、私たちは自分にとって不都合な不安定な状況の中に身を置きながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という最も大切なキリストの教えを地道に実行し続けることができます。

神はご自身の平和をこの地に静かに広めるためにご自身の御子を遣わしてくださいました。そして、キリストが再びこの世界に来られるとき、この世のすべての不条理が正し、目に見える形での神の平和(シャローム)で世界を満たしてくださいます。

黙示録20章2節には、サタンが千年の間縛られ、「諸国の民を惑わすことのないように」されると記されますが、平和運動の背後にサタンが働いている場合もあります。主の平和(シャローム)は、人間の努力以前に、神がサタンを滅ぼすことによって実現されるのです。

「新しい天と新しい地」は私たちの目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。

そして今、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながら、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します。私たちは、ここで、地の塩、世の光として、新しいエルサレムの音楽を、先取りして奏でるのです。

それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。このように私たちは、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。

主は今も、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人に向けて、「見よ、わたしは新しいことを行う」(43:19) という約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 神の支えと見守り:神が不安や臆病さを受け入れ、見守り、支えてくれることが強調されています。自分の弱さや不安を神に委ねることで、安心感や気楽さを見出すことができると述べられています。

2. 平和の実現:世界が弱肉強食から解放され、平和が実現することを願っています。神の平和が人間の努力ではなく、神の働きによって実現されると信じられており、キリストの再来によって完全な平和がもたらされることが期待されています。

3. 愛と共に生きる:キリストの教えである「隣人を自分自身のように愛する」ことが強調されています。自分にとって不都合な状況の中でも、愛を持って他者と接することが重要であり、神の平和を広めるために努力することが述べられています。

4. 祈りと待ち望み:主が祈りを待ち、恵みを与え、あわれみを示してくれることが記されています。祈りを通じて主の招きに応じることが重要であり、神の恵みと導きを待ち望む姿勢が示唆されています。

5. 新しい天地の到来:新しい天と新しい地が訪れることが述べられています。その時、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美を捧げ、互いの美しさに感動して愛し合うことができると描かれています。