ローマ人への手紙3章19〜31節「私たちに与えられた圧倒的な救いとは?」

2024年2月25日

神の「愛」と「義」が同じことを表わすことは、親子関係を考えるとよくわかります。たとえば、自分の子が不良仲間に入りながら、そこで我に返って、そこから抜け出たいと願っているとき、そこで求められる親の正義とは何でしょう。「悪の勢力と関係を持つことは自分の正義の基準に反する。自業自得なのだから、自分でどうにかしなさい」と言うのが親の正義でしょうか。

神はそのとき、ご自分の御子をサタンの攻撃下に遣わすことまでして、罪の支配から罪人を解放してくださいました。そこに神の圧倒的な恵みが見られます。

しかもその際、神の義」は、私たちの「罪を見逃すこと」に現されているというのです。しかしそこでイエスが「贖いの蓋」となられたとは、私たちがモーセと同じように、天地万物の創造主と「顔と顔とを合わせて語り合う」(出エジプト33:11参照) ことができるという途方もない親密な関係に入れられることでした。

1.「しかし今や、律法から離れて、神の義が現わされたのです。」

3章19、20節は、「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法のうちにある人たちに語られているということを。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神に対して責任を負うためです。なぜなら(それゆえ)、律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前で義と認められないからです(義とされません)。律法を通しては罪の知識(認識、意識)が生まれるからです」と記されています。

この中心はすべての人間が創造主の前で「どのように生きたかが問われる」ということで、「全世界が神に対して責任を負う」と解釈できます。さらに、そのさばきの場では、私たちが自分の正当性を弁護できないほど、すべての行為が神の前に明らかになっているので「口がふさがれ」ていると描かれています。

さらにここは「律法」には「罪の意識(罪責感)」を生じさせることしかできないという限界というよりは、「律法を通して罪の知識」、つまり、どのような行為が神を悲しませるかが明らかになるという中立的な意味が記されていると解釈できます。

「律法」は神からの最高の贈り物であり、守ることが不可能な教えが与えられたわけではありません。同じような議論が展開されるガラテヤ3章24節では、「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」と、律法にはキリストを指し示す働きがあったと記します。

なお、律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前に義と認められません(20節直訳) の背後には詩篇143篇2節があり、そこでは「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれ一人 あなたの前に正しいと認められないからです」という謙遜な祈りが記されます。

それはすべての「肉なる者」への永遠の火のさばきの宣告ではなく、神の前で自分の正義を主張する代わりに、神のあわれみにすがることの勧めなのです。

事実、その10、11節では、「あなたのいつくしみ深い霊が 平らな道に私を導いてくださいますように。主 (ヤハウェ) よ、あなたの御名のゆえにわたしを生かし あなたの義によって 私のたましいを苦しみから助け出してください」という、この地での主にある希望の祈りが記されています。

パウロが用いている聖書の文脈には、いつも神の救いのご計画への期待と祈りが記されているということを決して忘れてはなりません。ここには「脅し」ではなく、「愛の招き」が通奏低音として流れています。

それで3章21節では、「しかし今や、律法から離れて、神の義が現わされた (disclosed) のです。それは律法と預言者によって証しされていたことでした」と、預言されていた新しい時代の到来が告げられます。

ここでの「神の義」とは1章17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰から信仰に進ませる」と記されていたことを思い起こさせます。しかもそこでは、「それは神の怒り天から啓示されているからです、あらゆる不敬虔と不義の人々に対してですが」(1:18) という記述とセットになっていました。

それは、「神の怒り」が「天から啓示され」、すべての人々に明らかにされることで、人々が心の底で不安を覚えるようになり、「福音に……啓示されて」いる神の義」を慕い求める素地が備えられるとも言えましょう。とにかく、そこでの「神の義」とは、神の救いのご計画が明らかにされることに他なりません。

また、先の詩篇143篇1節では、「神の義」が「神の真実」を言い換える表現として用いられ、11、12節ではでは「神の義」と「神の慈愛(ヘセド:恵み)」が並行して描かれています。

とにかく「神の義が現わされた」とは、新しい時代の到来を告げる希望に満ちた表現で、それは「律法と預言者によって証しされていた」ことでした。

モーセの律法の最後の申命記30章6節では、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされると約束されていました。

また預言者エレミヤ31章31–33節では「見よ、その時代が来る……わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ……わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記すと、聖霊の働きによって、律法が心の中に書き記される「新しい契約」の時代が到来すると約束されていました。

律法のことばは変わらないのですが、その与えられ方が変わりました。旧約では「石の板」、新約は「心の板」という違いが見られます (Ⅱコリント3:3)。

2.「神の義がイエス・キリストの真実によって……与えられたのです。」

そのことが3章22–24節で、「すなわち、神の義がイエス・キリストの真実によって(を通して、媒介として)、すべての信じる人に与えられたのです。そこには分離(区別)はないからです。それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いを通してのものです」と記されます。

ここで初めて「神の義」が「イエス・キリストの真実によって(を通して)与えられる」と記され、そのことがさらに「神の恵みによって義と認められる」と描かれ、それは「キリスト・イエスの贖いを通してのもの」と説明されます。

ここでの「贖い」とは、「すべての人が罪の下にある」(3:9) と言われた罪の奴隷(6:16) 状態から解放されることを意味します。

新改訳2017年版では、「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」と記され、そこでは「信じる」という行為が重ねられ過度に強調されているように思われます。

原文での「イエスのピスティス」とは、新改訳の脚注別訳にあるように、「イエス・キリストの真実によって」と訳すべきかと思われます。

なおこの箇所は最新の聖書協会共同訳では、神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」と訳されています。

しかもここは、「神の義」が「イエスの真実によって……与えられた……そこには分離(区別)はない」と記されていると解釈することもできます。多くの翻訳では、「ユダヤ人とギリシア人には何の差別もない」と解釈されますが、先に述べたように「神の義」は「神の真実」または「神の慈愛(恵み、ヘセド)」と言い換えられますから、神に属する「」とイエスに属する「真実」の間には「何の分離もない」という意味としても理解できましょう。

私たちを「信仰から信仰へと進ませる」「神の義」は、イエスの真実(ピスティス)によって何よりも明らかにされています。それは、「十字架の死にまでも従う」(ピリピ2:8) という真実な生き方ですが、それは同時に、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださる」(ガラテヤ3:13) というイエスの十字架の贖いのみわざでした。

その意味は、イスラエルの民はシナイ山で神との契約を結んだときに、神のみ教えを軽蔑する者は「のろい」を受けるという警告を受け、それが実現しましたが、イエスはイスラエルの王として、彼らが受けるべきのろい」を引き受けてくださったというのです。

そのことのゆえにイエスのうちにある者は、「のろいから祝福へ」と移されるのです。

そのことを子ども向けに感動的に描いたのが 作の「」第一巻「ライオンと魔女」です。ナルニアというおとぎの国で四人兄弟の三番目のエドモンドは、魔女の接待を受け、おいしいお菓子(ターキッシュデライト)の虜にされます。これは食べるほど欲望を搔き立てるもので、彼は魔女に兄弟を売り渡しそうになるほど堕落します。

しかし、魔女の本性を見て我に返りますが、魔女の支配を抜け出すことはできません。そこにライオンのアスランが現れ魔女と交渉しますが、魔女は創造主である大帝の掟を持ち出して、罪人のエドモンドは「のろい」の支配下にあると主張します。

そこでアスランは自分がエドモンドの身代わりに「のろいを引き受け」、殺されることを提案します。魔女はそれを喜び、アスランを徹底的に辱めて殺します。

しかし、翌朝にアスランは復活し、魔女の支配権が砕かれます。それはより古い永遠の掟として、「罪のない者を殺した者は、その支配権を失う」とも記されていたからです。そして、アスランの復活によって、ナルニアに春が訪れると共に、エドモンドは尊敬される四人の王の一人となります。

これこそ、このローマ書に描かれた救いの物語を分かりやすく描いた物語です。私たちも自業自得で様々な依存症の虜になり、その罠から逃れられずに「うめいて」いました。そこにイエスが現れ、私たちの身代わりに「のろい」を引き受け、私たちをのろい」に支配から解放し、祝福に満ちた」としての歩みへと導いてくださっています。

そのような「救い」を受けられたのは、私たちの信仰以前に、イエスの真実が、私たちを「のろい」から「祝福」へと移してくださったからです。そしてそこにはのろい」の掟の背後に、悪魔も知ることのなかった、ご自身の被造物を守り通すという創造主の「義の計画」があったのです。

「神の義」と「イエスの真実」こそが、私たちの心に信仰を生み出し、この世界を罪の支配から解放し、本来の目的に沿った神の平和の完成へと導いているのです。

私たちはそのような神の一方的なみわざを忘れ、「イエス・キリストを信じる」という「私たちの信仰」の方に目を向け過ぎてはいないでしょうか。「行いではなく、信仰によって」と概念が私たちの心を自意識過剰の信仰へと追いやってはいないでしょうか。

3.「神はこの方を贖いの座(宥めの蓋)として(公に)提示されました」、

3章25、26節は一つの文章として、「神はこの方を宥めの蓋(贖いの座)として(公に)提示されました、真実を通しての、この方の血にあってのことです。それはご自身の義を証明する (demonstrate) ためでした。それはこれまで犯されてきた数々の罪を見逃すことを通してのことでした。それは忍耐によって、ご自身の義を証明する (demonstrate) ためで、それが今この時のことでした。それはご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした」と記されています。

新改訳2017年では「血による宥めのささげ物」と訳されながら、その脚注の別訳では「宥めの蓋」と記されています。

そして聖書協会共同訳でも、「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」と訳されています。

原文のヒラステリオンは、ヘブル書9章5節では「契約の箱」の描写が、「栄光のケルビムが『宥めの蓋』をおおっていました」と「宥めの蓋」と訳されており、それこそが直訳です。この名詞は場所をあらわす言葉に他なりません。

この「宥めの蓋」に関して出エジプト記25章20–22節には、「ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする……その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けて……与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」と記されていました。

ここでイエスが「宥めの蓋」になるとは、私たちが何とモーセと同じように、神と直接に語り合うことができるという意味ではないでしょうか。

出エジプト記33章11節には、「主 (ヤハウェ) は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた」と記されますが、私たちがキリストにあってモーセと同じように神と語り合うことができるというのは何と素晴らしいことでしょう。それこそ福音の核心です。

なお、新改訳にようにイエスを「血による宥めのささげ物」と解釈することにも意味があります。それは1章18節には「神の怒りが天から啓示されている」と記され、また3章19節では「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」(新改訳) と描かれたからです。そこでは、神の御子イエスによって、神の怒りが「宥め」られる必要性が示唆されています。

しかしここを「宥めの蓋」と原文通り訳すことによって、神の怒りが宥められた以上のこと、イエスの御名によってイエスの父なる神に語ることができる幸いが明らかにされます。

イエスは、「その日には……わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたに与えてくださいます……あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません」(ヨハネ16:23、26) と言っておられます。

私たちは今、「その日」の中に既に招かれています。私たちはイエスを通して間接的に御父に願うのではなく、イエスの御名によって直接に大胆に御父に願うことができるのです。

しかもここでは「真実を通しての、この方の血にあってのことです。それはご自身の義を証明する (demonstrate) ためでした。それはこれまで犯されてきた数々の罪を見逃すことを通してのことでした。それは忍耐によって、ご自身の義を証明する (demonstrate) ためで、それが今この時のことでした。それはご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした」と記されています。

ここでは、「犯されてきた数々の罪を見逃す」ことで、「神の義が証明される」と、途方もないことが記されています。これは多くの人々の神の義」の観念を変える革命的な表現です。

これはミカ書の結論部分で、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません」(7:18) と記されていることと同じです。

そして、私たちは「イエスの真実」を感謝して受け止め、それを信じることで、神の前に「義と認められる」のです。

続けて、3章27、28節では「それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それは閉め出されました。どのような律法を介してでしょう。行いによるものでしょうか。そうではありません。信仰(真実)の律法によるのです。それは私たちが考えているからです、人は信仰(真実)によって義とされると、律法の行いによってではありません」と記されています。

私たちはひょっとすると、自分の信仰という「功績」によって神の前に受け入れられていると誤解しているかもしれませんが、それは大きな間違いです。ここにある「信仰(真実)の律法」とは、先に述べたように、神から与えられた聖霊の働きを指すものです。

エレミヤ31章31節以降に記されているように、旧約の時代は、「律法の行い」によって救われると考えられましたが、新約においては、主(ヤハウェ)ご自身が私たちの心の奥底に律法のことばを書き記してくださり、私たちが外からの強制によってではなく、心の内側から律法を行いたいという思いに変えられているのです。

さらに3章29、30節では、「それともこの方はユダヤ人だけの神でしょうか、異邦人の神でもないですか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、まさにそうです。この方が義と認めてくださいます、割礼のある者を信仰によって、また、割礼のない者をも信仰を通してです」と記されます。

これはパウロが異邦人に福音を述べ伝えた時、彼らがユダヤ人のように律法を守る前から、聖霊が彼らの上に下り、神ご自身が異邦人をそのままで神の民として受け入れてくださったことを通して明らかにされました。

そこで、「それでは私たちは信仰を通して律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ律法を確立することになるのです」(3:31) と記されるのは、パウロの宣教が、ユダヤ人が命がけで守って来た食物律法や安息日律法を、新約の時代には無効」と宣言されたように理解されたからです。

私たちが今、豚肉やエビやタコを食べるのは、レビ記が無効になったからではありません。それは神殿で神の前に犠牲を献げる必要がなくなったからに他なりません。先の「宥めの蓋」を描いたヘブル書では、それに続けて、「しかし、キリストが現れてくださり、それは実現しようとしているすばらしいことの大祭司としてですが……雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られたのです。それは永遠の贖いを成し遂げるためです」(9:11、12私訳) と記されます。

イエスは、天の至聖所としての神の右に座に着かれたので、イエスに結びつく私たちは、神に近づくために動物の血を流す必要がなくなり、そのためにいけにえに関わる食物律法が不要となっています。

レビ記16章では、一人の大祭司だけが年に一度、動物の血を携えて地上の幕屋の至聖所に入り、そこの「宥めの蓋」に「血」を「振りまいて」、聖所のための宥めを行うと記されていました (14–16節)。

それは、神が罪に汚れた民の真ん中に住むことができるために必要な手続きでした。それに対して今は、イエスが天の本物の聖所をご自身の血で聖めてくださったので、「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます」(ヘブル10:19) と約束されています。

しかもイエスが「宥めの蓋」となってくださったので、創造主の怒りを恐れることなく、大胆に主の前に立つことができます。レビ記に描かれた食物律法も安息日律法の細かな規定も、すべて私たちを永遠の大祭司であるキリストに導く養育係」としての働きをしたという大きな意味がありました。

ナルニア国物語第二巻「カスピアン王子のつのぶえ」では、ひねくれ者だったエドモンドの著しい成長が描かれます。彼は自分の弱さと正面から向き合いながら、目の前の人を公正に観察し、知性と判断力をもって前向きに生きる王とされています。

彼が目の前の問題に謙遜に向き合い、道を開いてきた歩みを見て、アスランは彼に「Well done !よくやった)」と語りかけます。

キリストも私たち一人ひとりにすばらしい賜物(タラント)を預け、それを生かした者に対し、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と語りかけてくださいます (マタイ25:21、23)。それは五タラント(5億円)を二倍にした人にも、二タラントを二倍にした人にも等しい称賛のことばでした。

私たちはみな、キリストの贖いのゆえに、このままの姿で「神の子、イエスの弟、妹」とされています。私たちは失敗を恐れる必要はありません。何度失敗しても立ち直り、その失敗を生かしてかえって大胆に、神のみこころを生きることができます。

イエスご自身が神の怒りを受けるにふさわしい罪人の私たちのための宥めの蓋」となってくださいました。それで私たちはモーセが顔と顔とを合わせて神と語り合ったような、親密な神との交わりに入れられました。その救いの偉大さを心から味わってみましょう。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 律法の目的は罪の意識を喚起するのではなく、神の意志を知らせる中立的な指針として捉えられる。

2. キリスト教における律法は、キリストへの導き手としての働きが強調され、永遠の大祭司であるキリストへの信仰を深めるための手段として位置づけられる。

3. 失敗や罪を恐れる必要はなく、その経験を通じて成長し、神のみこころを生きるための大胆さを持つことが重要である。

4. 神のあわれみに頼り、自らの正義を主張するのではなく、神の恵みと救いにすがる謙遜さが重要である。

5. 聖書の文脈からは神の救いへの期待と祈りが常に表現され、愛と招きが重要なテーマとして浮かび上がっている。