ローマ人への手紙2章17節~3章8節「聖霊の働きによる心の割礼」

2024年1月21日

昨年の大河ドラマ「どうする家康」の評価はまちまちでしたが、敢えて評価できるとすると、徳川家康を神格化しようとした後の歴史文献を徹底的に洗い直し、そこにある矛盾から、家康の愚かさとか弱さを発見し、等身大の姿を見せようとしたことにあると言われます。

歴史の記録は、多くの場合、政治的な意図も持って脚色され、実際の人物をより理想化して見せる傾向があります。しかし聖書はその反対です。

聖書をごく自然に読んだ人は、そこに理想的な人物像が描かれていないことがすぐに分かるはずです。使徒ペテロはイエスの一番弟子と呼ばれ、カトリック教会の本山は彼の墓の上に立っていますが、彼の愚かさを知らない人はいません。

また神の民イスラエルにとっての最高の王はダビデであり、イエスもご自身を「ダビデの子」と自称されました。しかしサムエル記に描かれた彼の罪は、多くの真面目な信仰者には赦し難いものに見えますし、父親としても失格と言えましょう。

ただ、それでも彼が、神に誰よりも喜ばれるのは、その「すなおさ」です。彼は敢えて自分の醜い罪や愚かさを、家臣たちに書き残させました。

イスラエルの民が受けた「肉の割礼」に対し、「心の割礼」ということばが、旧約にも新約にも繰り返し登場します。それは旧約と新約を区別する際の鍵のことばとも言えます。

創造主ご自身が私たちに聖霊を送り、「心の割礼」を施してくださいました。創造主である聖霊ご自身が私たちの内に住む幸いをどれだけ理解しているでしょう。そして、その聖霊の働きを求める祈りを私たちはどれだけしているでしょう。

1.「律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っている」

2章6節では「神はそれぞれの行いに応じて報いられます」と宣言された上で、律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅びることになります。また、律法のうちにあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれることになります。

なぜなら、律法を聴く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者義と認められる(正しいと宣言される)からです」(2:12、13) と描かれ、その結論が「その日に、神が人々の隠されたことをさばかれます、私の福音によれば、キリスト・イエスを通してです」(2:16) と記されました。

2章17–22節ではパウロが長い文章でユダヤ人の誇りをくじくようなことを次のように記しています。

「ところで、もし、あなたが自分をユダヤ人と名乗っているのなら、また律法に拠り頼み(安らぎ)、神を誇り(5:11「喜び」)、みこころ(神のご意思)を知り、律法から教えられることで大切なこと(道徳的な区別を)をわきまえているというのなら

また、(もし)あなたが自負しているというなら、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師であると——それはあなたが律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っていることによりますが——、

どうして、他人を教えながら自分を教えないのですか、盗んではならないと説きながら盗んでいるのですか、姦淫してはならないと言いながら姦淫しているのですか、偶像を忌み嫌いながら神殿をかすめ取る(マラキ3:8「神のものを盗む」)のですか」

ここでは、ユダヤ人が神の律法(み教え)を持っていることで、神を知らない世界中の人々の「案内人」「光」「導き手」「教師」になり得る資格を持っているということを前提としながら、実際には、自分を教えることができていないばかりか、心の中で「盗み」「姦淫し」「神殿を汚している」という現実があることを指摘したものです。

それは先の神が人々の隠されたことをさばかれます」と言われた神の視点を教えるためです。これはユダヤ人としての真の誇りを思い起こさせながら、生き方がそれに伴っていないことを指摘したことばと言えましょう。

彼らは確かに、「律法に拠り頼み、神を誇り、みこころ(ご意思)を知り、律法から教えられることで大切なことをわきまえている」、かけがえのない民であるはずだとまず、訴えているのです。

そしてそれらをまとめるように、「律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っている『神の御名はあなたがたのゆえに汚されている、異邦人の間で』と書いてあるとおりです」(2:23、24) と記されます。

この引用はイザヤ52章5節ギリシア語七十人訳からのもので、そこでは「あなたがたのゆえに絶えずわたしの名は侮られている、異邦人たちの間で」と記されていました。

ただそのヘブル語原文では、「わたしの名は一日中、絶えず侮られている」とのみ記されていた文章に過ぎませんでしたが、そこに、「あなたがたのゆえに」と「異邦人たちの間で」ということばが解説として加わえられたとも言えましょう。

なお、そのイザヤの本来の文脈は「聖なる都エルサレム」とその神殿が、バビロン帝国によって廃墟とされた結果、そこを住まいとされていたイスラエルの神ヤハウェの名が、周辺諸国から絶えず侮られるようになったということを表わしています。

そこではイスラエルの民の不信仰以前に、エルサレムの陥落が、嘲りを受ける理由となっています。ただしそれは、神が無力だからではなく、イスラエルの民が神に背いて、さばきを受けた結果ですから、ギリシア語七十人訳では「あなたがたのゆえに」ということばが加わったとも言えます。

しかもそれで終わらず、今度は、主ご自身が「エルサレムを贖い……すべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わされる」(イザヤ52:9、10) ことで、ご自身の栄光を回復されるとも描かれていました。

エゼキエル36章20、23節では、イスラエルの民自身が主の聖なる御名を汚したことが、彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した……わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である」と記されていました。

聖書のストーリーでは、本来、神のすばらしさを現わすために選ばれ立てられたはずのユダヤ人自身が律法に違反する」ことによって「神を侮っていると言われているのです。

そしてそれによって、主の御名が「異邦人たちの間で」「汚されている」という状況が作り出されてしまったとパウロは指摘したのです。

2.「人目に隠れた者がユダヤ人であり、心の割礼を受けた者……それは御霊によるもので」

2章25–27節では、当時のユダヤ人が聞いたら怒り狂うようなことが次のように記されます。

「確かに割礼には価値があります(役に立ちます)、もしあなたが律法を行うならばですが。しかし、もし律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となったのです(協会共同訳「割礼を受けていないのと同じです」)。

ですから、もし無割礼の人が律法の規定を守る(エゼキエル36:27「定めを守り行う」)なら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

そして、自然において(からだは)無割礼の人がさばくことになります、律法を全うすることによってです。文字と割礼がありながら律法に違反するあなたを

これは何とも不思議なことばです。なぜなら「割礼」を受けること自体が「律法を行う」ことの一部と見られるからです。

ですから私たちは割礼が命じられた原点に立ち返って、この儀式を見る必要があります。

創世記17章では、「割礼」は、神が99歳になったアブラムにご自身のことを「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である」と現され (17:1)、サラとの関係から生まれるイサクを通して彼を多くの国民(くにたみ)の父」とするために、アブラハム(多くの国民の父)」という名に変えたことを覚えるための儀式です (17:4、10、11)。

その際アブラハムの家の者たち全部の男子に、「わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉(の中、の上)に記されなければならない」(同17:13) と、「割礼」を命じました。これは男子の性器の亀頭を覆っている包皮を切り捨てるもので、人々が新しい命の誕生を、人間ではなく、神のみわざであることを覚えることができるためだったと思われます。

「割礼」は神の民の義務である以前に、アブラハムに対する神の約束を覚えるためのしるしでした。ただそこでは同時に、「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない、わたしの契約を破ったからである」(同17:14) と厳しく命じられていました。

なおこのアブラハム契約は、モーセを通して律法が与えられる四百年以上も前のことであり、そこでは主の民として生きること以上の何の義務も命じられていませんでした。

これは、現代の私たちにとっては、キリストとの結婚式であるバプテスマを意味するとも解釈できます。

ですから、「割礼」はアブラハム契約を覚えるために「価値がある」のは当然のことですが、それは「あなたが(モーセの)律法を行うことができるための出発点に過ぎません。ですから「もしあなたが律法の違反者であるなら」、「無割礼」の者と同じ状態に堕落したという意味になるというのです (2:25)。

そればかりか、「もし無割礼の人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか」という不思議な議論を展開します (2:26)。「割礼」はアブラハムの子孫である「しるし」に他なりませんが、ここでパウロは、異邦人クリスチャンが、無割礼のままで、血筋を超えてアブラハムの子孫になれるという議論へと進みます。

パウロはこの少し前に書いたコリント人への手紙第一7章17–19節で、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。

割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです」と、当時のユダヤ人を激怒させるようなことを書いています。

簡単に言うと、割礼を受けた正当なユダヤ人であることは、救われる理由にはならないというのです。

事実、モーセが記した申命記10章16節においても、「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くするものであってはならない」とありました。

さらにエレミヤ4章4節では、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主 (ヤハウェ) のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」と記されていました。

つまり、「肉の割礼」は「心の包皮を取り除いて」、神の御教えを守りたいという思いが生まれる前提であったのです。

ですから、異邦人でありながら、神の一方的な働きかけを受けて、「律法を全うする」というようなことが起きたとするなら、その無割礼の人が、「律法の文字と割礼」を持っているユダヤ人を正当に「さばく」ことができるようになるというのです (2:27)。

それは、エレミヤ書31章33節で主ご自身が与える「新しい契約」に関して、「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と預言されていことが成就するときでもあります。

それを前提にパウロは続けて、「それはだれも外見上においてユダヤ人であるのでもなく、また外見上の肉によるものが割礼なのでもありません。かえって、人目に隠れた者がユダヤ人であり、心の割礼を受けた者なのです。それは御霊によるもので、文字によるものではありません。その誉れは人からではなく、神から来るものです」(2:28、29) と記します。

ここでの「誉れ」とは、ヘブル語で「ほめたたえる」を意味する「ヤダ」の派生語で、ユダヤ人の元祖ユダという名前の由来を意味します。つまり、パウロは外見上でユダヤ人であること、また割礼を受けていることを超えて、聖霊の働きによって心に割礼が施されることこそが、真に、神からの「誉れ」を受けるに値する、真の「神の民」であると記しているのです。

それは申命記30章6節で、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされると預言されていたことが、私たち異邦人を含めた霊的なイスラエルの民に成就するときのことを指しています。

神の救い肉のイスラエルの観点からではなく、異邦人を含む霊的なイスラエルから見る必要があります。

3.「もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら」

3章1節では、それまでの議論を受けて、「それではユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか」と、パウロがローマ教会の人々に問いかけます。

そして彼はすぐに、「あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に彼らは神のことば (民数記24:4)「御告げ」)を委ねられました」(3:2) と記されます。これは確かに驚くべき大きなことです。

聖書のことばは、パウロの時代から千数百年前のモーセに与えられた啓示が中心にあります。イスラエルの民は、バビロン帝国の攻撃によってエルサレムも神殿も廃墟とされるような中で、旧約聖書を守り続けました。昔は印刷機などもないような中で、聖書のことばは一字一句丁寧に書き写され、パピルス紙が摩耗する中で、何度も書き写され直されました。

そのような中でさらに、「では、どうですか。彼らの中の誰かが不真実(不信仰)であることによって、その不真実は神の真実(信)を無にするのでしょうか。決して、そうはなりません。神は真実(イザヤ41:26「正しい」)とすべきです、たとえすべての人が偽り者である(詩篇116:11「人はだれでも偽りを言う」)としても。

それは、『それゆえ、あなたは正しくあられます、あなたが告げられることにおいて。あなたは勝利されます、さばくときに』と書かれているとおりです」(3:3、4) と記されます。

このことばはダビデの罪の告白で有名な詩篇51篇4節からの引用ですが、そのギリシア語七十人訳では「それはあなたが正しいとされるためです、あなたのことばにおいて、また勝利されるためです、あなたがさばくとき」と記されています。

ヘブル語写本では「あなたは正しい(義であられる)、宣告するとき。あなたは清く(純粋で)あられます、さばくときに」と記されていたものが、ギリシア語七十人訳では裁判における神の勝利が強調されたのかと思われます。

ダビデはこの詩篇で「私の罪は、いつもこの目の前にあります。あなたに ただあなたに対して私は罪を犯し、御目に悪であることを行いました」(51:3、4) と告白していましたが、ダビデの「罪」に対する「神の勝利」とは、彼の罪を赦し、再び彼をご自身の働きのために用いるということを通して現わされました。

サタンは、人の罪を告発し絶望に追いやりますが、それに対して神は、自分の罪を認める者を「」としてくださいます。

そのことがイザヤ50章8、9節では、私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出てくるがよい。見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか」と感動的に描かれます。

そこでは、「主 (ヤハウェ) のしもべ」を「不義に定め」ようとするサタンと彼に動かされる勢力に、神の「」が勝利すると描かれています。

それを前提にローマ3章5、6節では、「では、もし私たちの不義神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。神は不義なのでしょうか、その方が御怒りを下すのですが——私は人間的な言い方をしています——

決してそうではありません。もしそうなら、どのようにして神は世界をさばくのでしょう。ではもし、神の真理(正しさ)が、私の偽りにおいてますます豊かにされて神の栄光に至るとしたら、どうして私は罪人として、なおもさばかれるのですか」と記されています。

ここでの「神の義」とは、詩篇51篇の引用でも明らかになっているように、罪人にやり直しの機会を与える「神の真実(信)」(3:3) を現わしています。ダビデが忠実な家来ウリヤの妻バテシェバを奪って、自分の評判を守るためにウリヤを死に至らしめ、家来の妻をも気遣う優しい王であるかのように振舞っていたことは、神のすべての教えに反する卑劣極まりない罪でしたが、それによって「神の義」「神の真実(信)」「神の真理(正しさ)」が「ますます豊かに現わされて神の栄光に至った」ことは、誰の目にも明らかなことでした。

簡単に言うと、神の勝利は、失敗者のダビデに再出発の機会を与え続けたことに見られるのです。しかし、そのように神の義」が「罪の赦し」の中に現されるとしたら、どのように神はこの世の悪を公平にさばき、世界を正しい状態にすることができるでしょう。

ダビデの罪が「神の栄光」を現すのに用いられたのなら、「罪人」をさばく理由がなくなりはしないでしょうか。実際、神の仕事は、罪人を赦すことであるなどという屁理屈もあるのですから。

そのことが3章8節では、「そしてそのように私たちは中傷されてはいないでしょうか、それこそ私たちが言っていることだという者さえいますが、『悪を行おうではないか、それは善をもたらすためだ』などと、そのような者たちに対するさばきは当然です」と記されています。

この議論は後の箇所でさらに詳しく解説されます。とにかく、パウロは「私たちの不義が神の義を明らかにする」(3:5) という不思議な議論を展開したことで、ユダヤ人が律法を真剣に守ろうとすること自体が無意味であるかのように語ったという非難を受けることになったのだと思われます。

実際に、私たちクリスチャンの間でも、「悪逆非道の限りを尽くしていたやくざが回心した」という回心の話が感動され、ときには「私はクリスチャンの親の言いつけを守ってきたので、何の劇的な証しもできない……」などと、まっすぐに生きてきたことを恥じるような逆説が起こり得ます。

しかし、真っ直ぐに生きて来られたこと自体は本当に大きな恵みです。そのことのゆえに開かれている可能性があるのです。それを「まわり道」をして伝道者になった方が心から言っておられました。

その方の証しはインパクトがありますが、私たちが日常生活で感じる様々な疑いや聖書のことばに対する疑問に知性をもって答えることの限界を覚えざるを得ないことがあり、若いときにもっと勉強をしていたかったと心から語っていました。

まっすぐ育って来られたことで受けられた様々な恵みは決して小さくはないのです。

ダビデは詩篇51篇を記した目的を、「私は、背く者たちに、あなたの道を教えましょう。すると罪人たちは、あなたのもとに回復されましょう」(13節) と記しました。

ダビデは、罪人たちが神のもとに変えることができるために、敢えて自分の「恥」を公にしました。そのことのゆえにダビデは神から喜ばれたのです。

ダビデの詩篇には、彼の正直な葛藤や悩みが赤裸々に描かれています。そして「ダビデの子」として生まれたイエスご自身もダビデが記した詩篇を用いて神に祈り、また人々にご自身の気持ちを証ししていました。

私たちも、「イエス様を信じると、このように劇的に変えられる」という証しを求めるのではなく、自分の心の揺れや悩みを正直に認めながら、それでも神は私を生かし用いてくださるというように証しすべきでしょう。

「私たちの不義が、神の義を明らかにする」という逆説を覚えたいものです。それはもちろん、「どんな悪いことをしても赦される」という罪への居直りを助長するものではありません。かえって、「聖くありたい」と切望しながら、自分の弱さに圧倒される、そのような中に、神の義、神の真実が現わされます。

自分の「心の割礼」を求めるための祈りをダビデは、「神よ、きよい心を、私に創造し、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。御顔の前から、私を投げ捨てず、あなたの聖い霊を、私から取り去らないでください。御救いの喜びを回復させ、自由の霊が私を支えますように」と記しています (詩篇51:10–12私訳)。

ここに聖霊が「揺るがない」「聖い」「自由の」という三つのことばで描かれています。そのような聖霊の働きが、あなたの心の中にも起きるのです。それが「心の割礼」であり、創造主なる御霊の働きです。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 律法に頼ることでのみ義とされるのではなく、律法を守ることが重要であることが強調されている。

2. 神は真実であり、人々が偽り者であっても神の真実は揺るがないことが述べられている。

3. 神は悔い改める者を義として受け入れ、再び彼らを用いることを通して勝利を現す。

4. 神の義が最終的に勝利することが強調され、サタンや不義を定めようとする者に対抗する神の力が描かれている。

5. 不義や罪が神の義を明らかにすることで、神の恵みや赦しを受け入れることの重要性が示されている。