イザヤ59章4節~60章9節「暗闇の中に輝く主 (ヤハウェ) の栄光」

2023年12月17日

第二次大戦中、ヒトラーは「ユダヤ人問題に対する最終解決」を目指しましたが、現在のイスラエルはハマスというテロ組織の「最終解決」を急いで、世界から孤立してはいないでしょうか。

ホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者エマニュエル・レビナスは、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれいあいの経験でもあった。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のために、すべてを危険にさらしてくれたのである」と記しています。その実感は、彼の妻と長女が生き延びられたことに基づきます。

多くの人々は明確な問題の解決を求めますが、そのように互いの困難を背負い合うことこそが、長期的には神の平和を広げることに繋がっているのではないでしょうか。イスラエルという国の成立の背後にもそのような草の根的な家族愛の広がりがあり、それはたとえば19世紀末のウクライナを舞台とした「屋根の上のバイオリン弾き」の物語に描かれています。

残念ながら、キリストの再臨まで、この地の争いは消えることはないと聖書に記されています。問われているのは、暗闇を無くすことではなく、そこで神の光を輝かすことです。

イエスは、「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14) と言われましたが、そこで何よりも命じられていたことは、「あなたの上に輝く主 (ヤハウェ) の栄光」を隠してはならないということでした。すでに「光」の時代が始まっているからです。

1.「真実は失われてしまった。悪から遠ざかっている者も略奪される」

59章3–8節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれます。4節最後の「邪悪をはらみ、不正を産む」とは、母体の中で胎児が成長するように心の中で「邪悪」が育まれ、人々に「不正」が産み出されるという罪の成長の様子です。

5、6節での「まむしの卵をかえし、くもの巣を織る」とは、人に苦しみを与える毒蛇の世話をし、また人を罠にかける「くもの巣」を織り上げながら、当人自身が毒蛇の卵を食べて死ぬばかりか、彼らが織り上げたくもの巣」は、身体には何の役にも立たないという皮肉な描写です。

さらに7、8節では、罪の広がりの速さが、「その足は悪に走り、咎なき者の血を流すのに速い。その思いは不義の思い。暴行と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和 (シャローム) の道を知らない。その道筋には公正がない」と描かれます。

これはローマ人への手紙3章9節では「すべての人が罪の下にある」と記され、その一つの根拠として15–17節でこのイザヤのことばの下線部が印象的に引用されます。

私たちが自分の心を神のあわれみに対して閉ざし続けているときに、心の中で「邪悪」が育まれると記されているのです。それはまるで、「まむしの卵」を温めているようなものです。

人への恨みに駆られることも「くもの巣」を織り上げるようなもので、無益なことです。それは復讐の連鎖を引き起こすばかりです。

私たちは、そのような罪に満ちた世界で、どのように生きるべきかが問われていると言えましょう。

59章9–13節には、イスラエルの民を代表するように、預言者イザヤ自身の悔い改めが表現されます。そこでは、まず自分たちの悲惨が自業自得であるとの告白が、「それゆえ、公正(さばき)は私たちから遠く離れ、義(正義)は私たちに届かない」と記されます。

「公正(さばき)」とは、虐げる者たちに対する「さばき」で、11節に記されるように、私たちにとっては「救い」を意味します。しかしそれが「遠く離れ」、私たちを「義」とする神の恵みも「届かない」というのです。

そのような中で、「私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。輝きを(待ち望んでいたが)、歩くのは暗闇の中。盲人のように壁を手さぐりし、目がないかのように手さぐりしている。真昼でも、たそがれ時のようにつまずく。強健な者の中にあって、死人のようだ」と描かれます。

これは申命記28章29節で警告されていた神の教えを軽蔑する者に対するさばきです。

その苦しみの様子がさらに11、12節では、「私たちはみな、熊のようにうなり、鳩のようにぶつぶつうめく。公正(さばき)を待ち望む。しかしそれはない。救いを……。しかし私たちから遠く離れている」と描かれます。

9節での「公正(さばき)」と「義(正義)」が、「公正」と「救い」に言い換えられます。それは「義(正義)」が「届く」ことこそが私たちにとっての「救い」を意味するからです。

そしてそうならない理由が、「それは、私たちの背きが御前に数多くなり、その罪が私たちに不利な証言をするから」と記されています。

その上でイザヤは59章12節の後半で、自分たちを支配する罪の現実を「まことに、そのそむきは私たちとともにあり、自分の咎を私たちは知っている」と表現します。これは詩篇51篇3節でのダビデの告白につながる表現で、悔い改めの基本となる告白です。

しかし13節では、彼の民がその「咎を……知っている」ことに居直る姿が、背きながら、主 (ヤハウェ) を否み、私たちの神に従うことをやめ、虐げと反逆を語り、心に偽りのことばをはらんで告げる」と描かれます。

ここでも4、5節での「はらんで、産む」という描写を用いながら、「心に偽りのことばをはらみ」それを口に出して「告げる」というプロセスが描かれます。

私たちも神の真理のみことばの代わりに、たとえば、「力こそすべてだ。あわれみや誠実さなど役に立たない。人に利用されるだけだ。力がない者は、強い者に頼るしかない……」などという「偽りのことば」を心に蓄え、それを始終「告げる」ということがないでしょうか。

武力とお金で動くこの世の論理に心と身体を任せ、静まって神を待ち望み、今ここで誠実を尽くすことを空虚な道徳のように受け止める誘惑に負けることがないでしょうか。

そして、そのような「偽りのことば」に身を任せた結果が、59章14、15節で、「こうして公正(さばき)は退けられ、正義(義)は遠く離れて立っている。それは、真実(真理)が広場でつまずき、正直さが中に入ることもできないから。真実は失われてしまった。悪から遠ざかっている者も略奪される」と描かれます。

社会から「公正」や「正義」、「真実」や「正直さ」の基準が失われてしまうとき、「正直者はバカを見る……」という現実が広がり、社会の堕落が加速されてゆく悪循環が続きます。

2.「主は……とりなす者のいないことに唖然とされた……それで、ご自分の御腕で救いをもたらし」

それを前提に、59章15節後半から16節にかけ、不思議な救いのご計画が、「主 (ヤハウェ) はこれを見て、公正(さばき)がないことに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者がいないことに唖然とされた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、その義をご自分の支えとされた」と、ご自身の心の痛みと共に記されます。

主(ヤハウェ)はご自身の民を救いたいと願っておられるのですが、彼らは創造主に目を向けようともしないのです。これはたとえば、最低限の衣食住に事欠く家族の中に育った子どもが、親から万引きやスリの仕方を教えられて生活している状況を見て、上から目線で「万引きは犯罪です」と諭しても、回心させることができないのと似ています。

同じように、罪のただ中に生きている人を、本当の意味での回心(悔い改め)に導くことは極めて困難です。残念ながら不道徳な生き方にはそれなりの刺激と興奮があるからです。

しかも、杓子定規な福音の提示が、「こんな私は救われようがない」という諦めか、その反対に、そのような弱い心を造った創造主への憎しみが生まれます。

太宰治は「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞(むち)を受けるために、うなだれて審判の台に向かうような気がしているのでした」と記しています。

もし、彼にこのイザヤ書が描くような主(ヤハウェ)ご自身の燃えるような愛の葛藤からのストーリーが伝わっていたら、彼の解釈は変わっていたことでしょう。イザヤの預言を飛ばして、神の義を満足させるための十字架の話は極めて危険な気がします。

「主は……とりなす者のいないことに唖然とされた」と記されますが、「とりなす」とは、イザヤ53章の「主のしもべの歌」の最後で「彼は……背いた人たちとともに数えられ……背いた人たちのために、とりなしをする」と記されたことばです。つまり、主は、上から罪人に悔い改めを迫る代わりに、罪人の仲間となる救い主を遣わそうとされたのです。

さらに続けて、「それで、ご自分の御腕で救いをもたらし」と描かれていますが、これは、悔い改めようともしない罪人を、主ご自身が一方的にあわれんでくださるという意味です。

そして今、私たちにとって、イエスこそが「主 (ヤハウェ) の御腕」(イザヤ53:1、52:10、ヨハネ12:38) であり、「世の罪を取り除く神の小羊」です (ヨハネ1:29)。そこでイエスはイスラエルの罪ばかりか、全人類のすべての罪をその身に負って、父なる神に「とりなし」をしてくださいました。

私たちは十字架に、罪に対する神の怒りを見ると同時に、神がご自身の御子を犠牲にしてまで、私たちの罪をご自身の側から赦そうとされる、燃えるような愛を見ることができます。

さらに「その義(正義)を、ご自分の支えとされた」と記されますが、「義」は(くじ)けることのない「神の真実」を現わしているとも言えます (51:6共同訳)。

59章17節では、「主は義(正義)をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり」と描かれますが、これは「主 (ヤハウェ) の御腕」(53:1) としての「救い主」の姿であると解釈できます。

なお、これをもとに私たちがイエスの代理としてサタンが活動する世に遣わされるときの姿も、「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい……救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを受け取りなさい」(エペソ6:14–17) と描かれています。

そこでは主の「(正義)こそが私たちを守る「よろい」、または「胸当て」であると記されます。

救いのかぶとをかぶる」とは、神の救いのご計画をいつも思い巡らすことの大切さでしょう。

さらに私たちにとっての戦いの道具が「御霊の剣」としての「神のことば」であると記され、自分の自制心などではなく、「みことば」によってのみサタンに勝利できると記されています。

しかも、イザヤでは続けてその方の姿が、「復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた」と描かれますが、これはキリストが再びおいでになるときのさばき主の姿です。

その主の「さばき」のことが「主は彼らの仕打ちに応じて報いる。はむかう者には憤りを、その敵には報復を、島々にも報復を返される(報いられる)」(59:18) と記されますが、「報いる」と「平和(シャローム)」ということばは同じヘブル語の語根から生まれています。

多くの人は、不当な扱いを受けるときに、「こんな不正をまかり通らせてはならない!」と怒り、また、不条理な悲惨が起こるときに、「神がおられるなら、なぜこのような悲惨が起こるのか……」とつぶやきますが、神の「報い」または「報復」(59:18) とはそのような不条理に正当な「さばき」をもたらし、真の「平和」を実現してくださるという創造的な意味があるのです。

その結果が「そうして、西の方では主 (ヤハウェ) の御名が、日の昇る方では主の栄光が恐れられる。それは、主が激しい流れのように来られ、その中で (ヤハウェ) の息が吹きまくっているからだ」(59:19) と描かれます。これは、主がまるで長い眠りから覚めるかのように、再びモーセやヨシュアの時代のような偉大な力を現されるという意味です。

多くの人は神の沈黙に不審を抱きますが、主は眠っておられたのではなく、世界の罪に対して忍耐に忍耐を重ねておられたのです。それは「主の忍耐は救いである」(Ⅱペテロ3:15) と記されている通りです。しかし、主は必ず見える形でこの地に正義を実現してくださいます。

3.「見よ、闇が地をおおっている……しかし、あなたの上には主 (ヤハウェ) が輝いている」

59章20節では突然、「しかし、シオンには贖い主として来る。背きから立ち返ったヤコブの中の者たちに」と述べられます。

「シオン」とはエルサレム神殿の立てられていた丘ですが、キリスト者の共同体こそが今、神の神殿です。それは私たち異邦人が聖霊によって「立ち返ったヤコブ」に「接ぎ木」されたからです (ローマ11:17)。

そして神の御子は私たちのための「贖い主」として来てくださったのです。

21節の始まりは原文で、「そしてわたしは」という不思議な書き出しで、その上で、「これが彼らと結ぶわたしの契約であるー主 (ヤハウェ) は言われる」と記されます。これは、主ご自身の主導によって「新しい契約」を神の民と結んでくださるという意味です。

それが救い主イエスによって明らかにされました。そのことが、「あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口に置いたわたしのことばは、離れることがない、あなたの口から、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに」と述べられます。

これは、新約の時代は、イエスの上に神の霊があり、またその口には神のことばがありましたが、それがイエスの子孫である私たちにも受け継がれていると解釈できます。

イエスの時代、聖書の教えは人々を矯正するための律法と捉えられていましたが、イエスはその誤解を正し、神の愛こそが核心であると言われました。

また、弟子たちはイエスの教えにさえ従うことができずに、一番弟子のペテロは三度もイエスを否認しましたが、イエスはそんな弟子たちにご自身の霊を与え、内側から造り替えてくださいました。

神の御教えを守ることができない者を、守ることができるように変えるというのが新約の核心です。

多くの人は新約の福音を誤解しています。私たちは確かに、キリストの模範に習い、キリストと似た者になることを目指さなければなりませんが、その前提を忘れてはなりません。

バプテスマとは、キリストに継ぎ合わされるという結婚式のようなもので (ローマ6:3–5)、その人は既に「キリストを着た」(ガラテヤ3:27) と言われます。夫婦は一緒に暮らすうちに「似たもの夫婦」へと成長します。また夫婦が財産を共有するように、私たちのすべての罪がキリストのものとされ、キリストのすべての聖さが、私たちのものとされました。

その霊的な現実を、目に見えるように現すというのが、キリストに似た者にされるというプロセスです。

60章1、2節で、「起きよ。輝け(光を放て)。それはあなたの光が来て、主 (ヤハウェ) の栄光があなたの上に輝くからだ。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主 (ヤハウェ) が輝いている。主の栄光があなたの上に現れている」と描かれます。

そして今、イエスは「あなたの光」として世に「来て」くださいました。この世界は「闇」におおわれていますが、闇が深く見えるのは、光が強いほど陰も濃くなるのと同じです。闇よりも、あなたの上に輝く「光」にこそ目を向けるべきです。

そしてさらに「あなたの上に……輝いている……現れている」と記されるように、イエスは一人ひとりを照らしていてくださいます。私たちはイエスを知る前は自分の心の闇に気づいてはいませんでしたが、主を深く知るにつれ、自分の中に住む罪の性質に唖然とするようになります。

自分の内側の汚れが照らし出されることを恐れる必要はありません。心の闇を隠すことこそが罪の始まりでしたが、罪を照らし出す光は、同時に、罪によって病んでいるアダムの子孫をいやす光でもあるからです。

それは、「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」(詩篇36:9) と記されている通りです。

60章3節は、「国々はあなたの光に向かって歩んで来る。王たちもその輝きの明るさに向かって」と訳すことができます(協会共同訳も同じ解釈)。これは、闇の中に住む人々が、「新しいイスラエル」(ローマ9:6、25参照) としての「あなたの光」に吸い寄せられるようにして近づいてくるという意味です。

伝道とは、相手の誤りを指摘し、救い主を信じるようにと「説得する」ことなのでしょうか?あなた自身がイエスにしっかりつながっている時、周りの人々が吸い寄せられてくるというプロセスかもしれません。

証しという名のもとに人の評価を恐れる必要はありません。いつでもどこでも、イエスだけを見上げて生きればよいのです。

さらにそれに続いて、「目を上げて、あたりを見渡せ。みなが集められ、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。それは、海の富があなたのところに移され、国々の財宝もあなたのもとに来るからだ」(60:4) と描かれています。

イスラエルの「息子たち」や「娘たち」と並んで「国々の財宝」が描かれるのは不思議ですが、9節を見るとこれも「新しいイスラエル」とその「財宝」として理解することができます。

私たちは自分の無力さや貧しさに気を落とすことが多くありますが、世界中の富は、神のものです。私たちはそのすべての富を相続するのです。

なお6節の後半では、「これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて、主 (ヤハウェ) の誉れを宣べ伝える」と記されますが、イエスの誕生のとき、東方の博士たちが「黄金、乳香、没薬」をささげたのは、この預言が成就しはじめたことのしるしです。そして、イエスの国は今も広がり続けています。

なお、「金は天下のまわりもの」と言われますが、お金自身が、魅力的な投資先を求めています。証券会社にいたとき、株式投資のもっとも大切な尺度は、会社の社風というような、数値化できない魅力にあると教わりました。私たちの教会も将来的にはこの北の空き地を購入して会堂を広げたいという夢がありますが、何よりも大切なのは教会が魅力的であり続けることです。

ところで6–7節には五つの地名が登場します。ミディアンとエファはアブラハムの後妻ケトラから生まれた子たちで、紅海の東側に住み、しばしばイスラエルを攻撃した民です。

ケダル、ネバヨテはハガルから生まれたアブラハムの長男イシュマエルの子孫で、それぞれミディアンから約400㎞北西、約200㎞北部に住んでいた民です。ケダルに関しては21章16節では「もう一年でケダルのすべての栄光は尽きると」と預言されていた、かつて栄えていた国です。

シェバはアラビア半島の最南端でソロモンの時代にシェバの女王が訪ねてきたと描かれていました。とにかく、ここに描かれているのはイスラエルとしばしば戦ってきたアブラハムの子孫の国々自ら進んでエルサレムの祭壇に贈り物やいけにえを献げるために集まってくるということです。

その結論が7節で、主ご自身が「わたしの輝かしい家をさらに輝かすと記されます。

さらに9節ではタルシシュという地中海の西の果ての国(スペイン)からも贈り物が届けられ、イスラエルに向かって、「主があなたを輝かせたからである」と約束されています。それは現代的には、主ご自身がキリストにある共同体を「輝かすと約束してくださったと解釈できます。

私たちは自分自身の輝く存在にしたいと願いますが、大切なのは、私たちを輝かせる主ご自身に目を向け続けることです。

私たちは自分で自分を変えようとしても変えられないくらいに、罪の束縛の中に生きています。そのような中で主は、「とりなす者がいないことに唖然とされ……ご自分の御腕で救いをもたらして」くださいました。

私たちが自分で神の好意を勝ち取るのではなく、神が罪人の仲間になるまで降りてくださいました。「飼い葉桶の傍らに」(賛美歌107) というドイツの詩人ゲルハルトの名曲は、世界の創造主が、誰よりも貧しい姿で、しかも、卑しい罪人の仲間となるために世の闇の只中に下りてきてくださったことを黙想する曲です。

ナチスに抵抗して殉教の死を遂げたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは、牢獄の中で「この頃になって僕はこの歌をやっと初めて自分のものとして理解できたと思います。今までこの歌をそれ程深く考えたことは無かったのですが。この歌を理解し自分のものとするには長い間一人で居て、黙想しつつ読まなければならぬようです。言葉一つ一つに特別な深みがあり、美しい」と記しています。

に9番までの逐語訳を掲載しますが、ここにクリスマスの福音のすべてが記されているように思います。ボンヘッファーはキリストの誕生の物語の前で「獄舎の壁はその意味を失う」と記しています。