ルカ7章18〜23節「おいでになるはずの方は、あなたですか」(塚本KGK主事)

2023年12月10日

【はじめに】

みなさま、おはようございます。この朝、こうしてご一緒に、礼拝を捧げることができることを、心より感謝いたします。ご紹介にあずかりました、塚本良樹です。

私は学生時代、西東京市にある東京ティラナスクリスチャンの寮に住んでいて、そこでは毎週火曜日に神学を学ぶ時間があるのですが、そこに高橋先生が何度も講師として来てくださって、大変お世話になりました。

尊敬する高橋先生の教会で説教奉仕をさせていただけますことを、光栄に思っております。それでは一言祈りをもって、この説教を始めさせていただきます。

1. 牢獄のなかにいたヨハネの問い

本日の箇所に登場するバプテスマのヨハネという人物は、イエス・キリストより少し前に生まれ、しかも親戚でした。ですので、イエスが救い主であることは知っていました。

彼は、イスラエルの荒野で、メシア、つまり救い主が来るための備え、準備をするということで、悔い改めのメッセージを語り、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたと言われます。彼はイエス様にも洗礼を授けており、そのときには、天からの声も聞こえたということで、イエス・キリストが救い主であるという確信を深めたことでしょう。

しかし、その後、彼は時の権力者ヘロデ王を批判して逮捕されてしまいます。後に彼は処刑されていますので、牢獄のなかで、死の恐怖と戦いながら、日々を過ごしていたことでしょう。

そんなある日、彼の弟子たちが、イエス・キリストの働きを彼に報告したのです。それを聞いたとき、彼は弟子たちを通して尋ねさせます。それが今日の箇所なのですが、19節。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」。要するに、あなたは、本当に旧約聖書で約束されていた救い主、メシア、キリストなのですか?と尋ねさせたのです。

ヨハネはこう思っていたと思うんです。救い主がこの世界に来られた。救い主は悪を滅ぼし、正義を、素晴らしい世界を実現してくださるはずでなかったのか。それなのに、なぜヘロデという暴君がいまだ権力を振るっているのか。なぜ自分は牢獄のなかにいるのか。

もちろん、ヨハネは自分が誠実に神に従ったゆえに苦しみを受けているということは分かっていたでしょう。でも、そうだとしても、なぜ、これほどまでに苦しみを受けなくてはならないのか。なぜ、いつまでも牢獄にいなければならないのか。ひょっとしたら、この方は無力なのではないか。この方は救い主、メシア、キリストではないのではないか。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」なぜヨハネの確信がゆらいだのか。それは、彼は苦しみのなかで、自分が信じてきたことと経験していることのギャップに苦しんでいたからではないかと思うのです。

2. クリスマスの「すでに」と「いまだ」

私たちはいま、12月25日のクリスマスに向けて、アドベントの季節を過ごしています。クリスマス、それはイエスキリストがこの世界に来られたことの意味を覚え、神に感謝をするときです。

実際に何月何日にイエスキリストが生まれたかはわかっていません。もともとは古代ヨーロッパの太陽の祭で、この時期から日照時間がだんだんと長くなるということが由来だと言われますが、キリスト教会は、「イエスキリストこそが真(まこと)の太陽である」ということでこの日をキリストの誕生を祝う記念の日とします。

この日から、太陽の支配がだんだんと長くなる。太陽の勝利が始まる。それで、この日をイエスの誕生を祝う日としたわけですが、あくまでも太陽の支配が「長くなる」、勝利が「始まる」ということは、いまだに闇は残っている。いまだに完全な勝利ではない。

確かに、「すでに」勝利は始まった、決定的になった。でも、「いまだ」完全には実現していない。そのようにキリスト教会は理解してきたのです。キリストの勝利はすでに始まった。しかし、いまだ完全ではない。クリスマスのメッセージには、「すでに」と「いまだ」の緊張関係があるわけです。

3. 私たちの問い

だからこそ、現代を生きる私たちも、ヨハネのように感じることがあると思うのです。個人的な苦しみ、孤独、恐れを感じるときはもちろんですが、戦争が起こると、自然災害が起こると、あるいは悩みやトラブル、病を抱えるとき、どうして……と思うことがあります。イエスさまなんて無力なんじゃないかって思ってしまうことがあります。

特にクリスマスを過ごすとき、イエス様がこの世界に来られたのに、「すでに」救い主が来られたというのに、この世界は何も変わってないではないか。「いまだ」この世界には苦しみがあり、痛みがある。自分の日常を見てもそうだ。苦しみがあり、悩みがある。

「おいでになるはずの方は、あなたですか」。この問いは私たちの問いでもあるのではないでしょうか。このままイエスをキリストと信じ続け、イエスに人生を賭けて良いのだろうか。他のものを頼るべきなのではないか。

イエス・キリストに従うゆえに、苦しみに遭うことがある。イエスさまが救い主、メシアなら、キリストが来られたのなら世界はもっと変化していてもよいではないか。イエスさまはあまりに無力ではないか。私にも、ヨハネと同じような疑いに出会うことがあります。みなさんはいかがでしょうか。

4. すでに起こった奇跡を改めて、よく見て、聴いて、考えよ

「おいでになるはずの方は、あなたですか」。このようなヨハネの問いに対して、イエスさまはどのように答えられたのでしょうか。22節をご覧ください。

7:22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

すごいことを言っていますが、実はこれは、新しいことを言っているのではありません。すでに、イエスさまがなしていたこと、つまりバプテスマのヨハネの弟子たちがすでにヨハネに報告していたことを繰り返しているだけです。つまり、こう言っているのです。改めて、よく見て、聴いて、考えよということです。

改めて、よく見なさい。よく聴きなさい、よく考えなさい。もちろん私は、すべてを完全に変えたわけでも解決したわけでもないけれど、奇跡は、神のわざはすでに起こっている。

22節の背景にあるのは旧約聖書のイザヤ書です。この教会ではイザヤ書が連続して語られていると聞いていますが、35章あるいは61章で約束されたことが起こっている。確かに、状況は変わり始めている。神の国は確かに来ている。それを、改めて、よく見よ。改めて、よく聞いて、考えてみなさい。奇跡は、神のわざはすでに起こっているのではないか、と言うのです。

5. あえて立ち止まり、手を止めて、静まり、主のみわざを思い起こす意味

本日の交読詩篇で読ませていただいた詩篇77篇は、このときのヨハネと同じように、失望のなかにあった人の歌です。苦難のなかで、神に祈るものの、慰められることを拒むほどに、眠れないほどに、失望し、神に見捨てられた、神は変わってしまったと言っています。

それでも、この人が幸いだったのは、それを正直に神に伝えた、祈ったことです。だから詩篇として、聖書に残っているわけですが、飾ることなく、失望を、疑いを、怒りを、神にぶつけたのです。

バプテスマのヨハネも、幸いだったのは、自分が覚えた疑いを、正直にイエスさまに伝えたことです。イエスさまはこの箇所の後、ヨハネの信仰を誉められています。疑いを覚えること自体は決して悪いことではないのです。

ヨハネが正直に自分の疑いを伝えたからこそ、彼はイエスの応答を聞くことができたわけですが、イエスが招いたことは、まさにこの詩篇77篇で歌われていることと重なります。詩篇77篇の11節には、「主(ヤハ)のみわざを思い起こそう」とあります。

あえて立ち止まって、手を止めて、「主のみわざ」、すなわち主がしてくださった奇跡を、昔からの、主の不思議なみわざを思い起こしたのです。主がなさったすべてのことを改めて思い浮かべ、主の恐ろしいさばきのみわざに、改めて思いを巡らしたとき、詩人は神を賛美する方向へと向かっていったのです。

6. 主がすでになしてくださった奇跡

私たちには、あえて立ち止まらないと見えないものがあります。あえて立ち止まって、手を止めて、思い起こさないと、思い出せないこと、気づけないことがある。

私たちは、恵みほど、イエスさまがしてくださった良いことほど、忘れてしまう。見えなくなってしまうことが多いように思います。特に、苦しみのなかに、恐れのなかに、孤独のなかにいるとき、悲惨な現実を目にするとき、疑問や不満に支配されてしまうことがある。それが普通です。

ヨハネと同じ状況に置かれたら、疑いをもつのは普通のことだと思いますし、この苦しみの多い世界にあっては、叫ばざるを得なくなることがある。

でも、それでも、私たちも目を向けたいのです。イエスさまという奇跡を改めて、よく見て、聴いて、考えてみたいのです。この世界を造られた方が、2000年前に、この地上に、生まれてくださったこと。はるか昔に書かれた旧約聖書に記されている約束のとおり、ずっと待ち望んでいた救い主が、赤ちゃんとして、最も弱い存在として、この地にお生まれなった。

そして、苦しみのなかにいる人々を具体的に助け、福音を伝え、新しい生き方を教え、最後には他者のために命を捨てられ、十字架にかかられ、よみがえられた。

この方に出会い、この方の愛に感動することで、新しい生き方を選び取った多くの人が、確かにこの世界を変えてきた。この方のことばによって、この方の愛によって、奇跡が起き続けてきました。

7. 私が経験した奇跡

私自身、そのような奇跡を経験した者の一人です。私は、今でこそこんなところで聖書の話をしていますが、もともとはそんな人ではなかったのです。私はクリスチャンの家庭で生まれ育ちましたが、もともとは教会が大嫌いで、中高生の頃は、聖書の話を真面目に聞かないことがかっこいいと思っていました。

大学生になって、親許を離れ、神戸から東京に来たとき、当時の私の頭のなかにあったのは、将来の野望(私は学者になりたかったのですが)を実現することと、かわいい彼女を作ることだけでした。

私は中学1年生のときに洗礼を受けていたもので、クリスチャンだという自己認識はありました。でも、神さまのことなんて、自分が天国に行くための保険程度の存在でした。大学では、日曜日に活動があるサークルに入り、教会には行かなくなりました。KGKは、寮の先輩に誘われて初めてKGKの祈り会に足を運んだとき、つまらなくて、「用事があります」と嘘をついて帰りました。

そんな私のことを、当時少しだけ行った教会の方がしつこく夏のキャンプに誘ってくださったのです。屋根を破るほどではありませんが、わりと強引に、です。断ることもできたのですが、大学1年生の私はかわいい女の子でもいるかなと思ってそのキャンプに参加したのですが、そこでイエスさまに出会ったのです。

そういう意味ではキャンプって大事です。教会としてもぜひ若い人たちを送り出して欲しい。キャンプの参加費は高いので、ぜひ経済的にも支援していただきたいと願っています。そして、教会に来ていない人のために祈り続け、誘い続けることは本当に大切なことです。そのおかげで、私はイエスさまのもとに戻ることができた。自分の罪の深さと、イエスさまの愛の大きさを、生まれて初めて深く、教えられたのです。

それから私は、毎週教会に行くようになり、KGKにも集うようになり、その後も、聖書のことばが、聖書を中心に置いた交わりが、私を造り変えてきました。

イエスさまが私を癒やし続け、生き方を変え続けてくださってきて、そしてもちろん人生で大変こともたくさんありましたが、たくさんの素晴らしい贈り物を与え続けてくださった。

それを偶然だとか、心理学的な効果だと言うこともできるでしょう。それは私にとっては、奇跡としか言いようがない出来事でした。ここにいらっしゃるお一人おひとりのクリスチャンの方が、その人生のなかで、何らかの神の奇跡を経験されてきたと思います。

あなたにも、この朝、主は語られています。もちろん、問題がゼロになったわけではない。でも、いまだ、完全ではないかもしれない。でも、この地で、そしてあなたの人生で、確かに、わたしが奇跡を起こしているではないか。それを、この朝、よく見て、聴いて、考えることへと、主はあなたを招いておられるのです。

8. 二度目のクリスマスが来るとき

私たちはいまアドベントを過ごしていますが、アドベント、それは「到来」、やってくるという意味です。2000年前に来られたイエスさまは、やがてもう一度来られると聖書は約束しています。

そのときには、もはや疑いは生まれません。現実と信仰のギャップはない。この世界をすばらしい世界にしてくださる。正義が実現するのです。

ここで先ほど黙想した箇所をもう一度お読みします。ヨハネの黙示録21:1-4です。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録においては、天における理想の現実と、地上における悲惨な現実が交互に描かれます。私たちの目の前にある現実とは違う、「もう一つの現実」が、天においては確かに存在している。今は、まだ天と地は分かれている。イエスさまが来られたとき、私たちはそれを垣間見たのです。

そして、今も、礼拝を通して、それを部分的に見ることができる。でも、やがて、イエスさまがこの地にもう一度来られるとき、私たちはそれを完全に見ることができる。天と地が一つになり、神の国が完成する日が来るのです。

ヨハネがイエスさまのことばを聞いて、どう思ったかということは聖書には書かれていませんが、彼のその後は書いていまして、ヨハネは、結局ヘロデ王に処刑されてしまいます。

この地上では、いつもハッピーエンドであるわけではありません。私たちにも、死という瞬間は必ず訪れる。でも、神の国が完成するその日、そこには必ずハッピーエンドが待っている。

そこには「もはや死はな」いのです。その日、私たちは完全なからだで復活し、私たちは永遠に生きることができる。そのときに「神は」、私たち「目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。そこには「悲しみも、叫び声も、苦しみもな」い。すべての出来事の意味が分かるのです.

9. クリスマスをどう過ごすか

それまでは、私たちはすべての出来事に意味があるということは分かります。しかし、どんな意味かは多くの場合分からない。だからこそ、私たちは答えを急いではいけないのです。まだ、二度目のクリスマスは来ていないからです。

それまでは、この世界を見たとき、失望したくなるときだってあるのです。教会のなかにだって、あるいは自分自身を見ると、失望してしまうかもしれない。そのような現実を普通に見ると、疑いが生まれます。「おいでになるはずの方は、あなたですか」と問いたくなることはある。

だからこそ、イエスさまは言われるのです。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」。疑うことがあったとしても、わたしを信頼して欲しい。わたしがあなたに用意しているのは幸いな計画であるから。

礼拝のなかで、祈りのなかで、みことばを読むなかで、何度でも、何度でも、すでに起こったイエスさまの奇跡、主のみわざを、これからイエスさまがなそうと待ち構えているみわざを、もう一つの現実である天の現実を見て、聴いて、考えて欲しい。

あえて、立ち止まって、静まって、天を見上げて欲しいと、この朝あなたを招かれている。

クリスマスまで、あともう少しです。あえて立ち止まり、手を止めて、クリスマスの意味を、主のみわざを、イエスさまという奇跡を、改めてよく見て、聴いて、考えながら、思い起こしながら、思い巡らせながら、この季節を過ごしていこうではありませんか。この主の招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。