日本に住む多くの人々は、失敗をすることや、人々から非難されることを異常に恐れてはいないでしょうか。せっかく信仰に導かれても、「敬虔なクリスチャン」という看板を背負って、窮屈な生き方をすることがあるかもしれません。
しかし、「イエスを信じて永遠のいのちを受けた」という約束は、死んでも天国に行けるということを超えて、現在の生活に生きる気力と希望を生み出すものです。なぜならそれは、あらゆることへの怯えに追い立てられる「のろい」から、すべての労苦が無駄にはならないという「祝福」の世界に移されたことを意味するからです。
人がどんな評価を下そうとも、あなたは大胆に神から促された道に向かって羽ばたくことができます。人生のゴールは神の平和(シャローム)で満たされています。それを覚えるとき、私たちは被害者意識や自己憐憫という奴隷根性から自由に生きることができるようになります。
「神の子」としての誇りのうちに、神から与えられた人生を、自由に堂々と、希望に満ちて生きることができるのです。
1.「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主 (ヤハウェ) 」
54章1節の、「喜び歌え。子を産まない不妊の女よ」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇の到来を前提に、その後の希望を語ったものです。それは52章13節~53章に描かれた「主 (ヤハウェ) のしもべ」が「自分のいのちを代償のささげもとする」(53:10) ことによって、つまりイエスの十字架によって実現する祝福でした。
その確信のゆえに「歓喜の声をあげて叫べ」(1節) と強く勧められます(「歓喜の声をあげ」は49:13二行目と同じことば、それに「叫べ」が追加)。
「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」とは、神の祝福は人間の力がもたらす祝福をはるかに上回るという意味です。当時の妻の豊かさは、徹底的に夫の力に依存していました。無力で怠惰な夫を持つ妻、何よりも夫のいない女性は悲惨でした。
今も、この世の多くの人々は、自分を保護してくれる権力者を求めています。しかし、主ご自身こそがすべての祝福の源です。私たちはこの世で自分の立場を守るための様々な方策を考えるよりも、すべての祝福の源である主との関係を深めることに心を集中すべきです。
その上で、「あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を張り伸ばせ……綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」(54:2) と命じられますが、その真ん中に、「惜しんではならない」と命令されます。多くの人は、力やお金の出し惜しみをしながら将来の安心を得ようとしますが、そのような人間的な計算が、祝福の広がりを自分で止めています。
現在の日本政府の債務残高はGDP比率2.6倍と世界最悪の水準ですが、対外純資産額では世界一となっています。簡単に言うと、多くの日本人はお金の使い方が分からないので、政府にお金の使い方をお任せし、それでも余ったお金が海外に流れているのです。
それに対し米国内ではお金の使い道が満ち溢れ、世界中のお金が集まって来るので、最大の借金大国となり得ています。それは多くの日本人が不安に駆られて、創造主に信頼しての冒険ができていない現れとも言えましょう。
さらに、「あなたは右と左に増え広がり、その子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ」(54:3) とは、神の民こそが、この閉塞感に満ちた世界に希望を生み出すことができるという約束です。
その上で「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。辱めを受けないから」(54:4) と保証されます。これはバビロン捕囚で徹底的な「辱めを受け」た後の救いの約束です。
そして、「まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない」とは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。
そのような大逆転の理由が、「なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主 (ヤハウェ) だから」(54:5) と述べられます。それはイスラエルの民が神にとっての花嫁であるという意味です。
一方で、「主 (ヤハウェ) は、あなたを夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが」(54:6) とは、主が一時的にバビロン捕囚でイスラエルを捨てたように見えたからです。
しかし同時に「若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか」とすぐに言われるように、主はご自身の花嫁を見捨てたままには決してなさいません。
私たちは目先の損得勘定に惑わされ、真の保護者であり、夫である方のもとを自分から離れ、自業自得で苦しみを招くことがありますが、「あなたの夫はあなたを造った者」とあるように、あなたの不信仰や一時的な裏切りは神にとって想定外のことではありません。
そのことを主は、「あなたが必ず裏切ることを、母の胎内にいるときから背く者と呼ばれていたことを知っていた」(48:8) と言っておられました。ですから私たちは何度でも、主のもとに立ち返ることができます。
私たちは自分の信仰や誠実さと引き換えに、主の祝福を受けるのではなく、すべてが主のあわれみと選びから始まっているのです。ですから、自分の身を守ろうと臆病になる必要もなく、この世の権力者のご機嫌を伺う必要もありません。「あなたの天幕の場所を広げ」と勧められるように、主に信頼して大きな夢を抱き、明日に漕ぎ出すことができるのです。
2.「ほんの少しの間、あなたを見捨てたが……永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」
54章7、8節はそのまま暗唱したい感動的な表現で、主がご自身を「あなたを贖う主 (ヤハウェ) 」と最後に紹介されながら、「ほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛(ヘセド:真実の愛)をもって、あなたをあわれむ」と言われます。
これは自業自得の試練の中にある人を繰り返し慰めてきたみことばです。ここでは、主の怒りがほんの短期間であることと、主の愛の永遠性と大きさが対比されます。「変わらぬ愛(真実の愛)」とは「ヘセド」の訳ですが、新改訳では多くの場合「恵み」と訳され、神が、ご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表すことばです。
これはイスラエルの民がその不信仰のゆえに神のさばきを受け、苦しんだ後で、神がその「真実の愛」で、繁栄を回復させてくださるという約束です。
そして、そのことがなお、「ノアの洪水が、再び地にやって来ることはない」という神の「誓い」と結び付けられます。
それが「あなたをあわれむ主 (ヤハウェ) 」のことばとして、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ(真実の)愛はあなたから移らず、わたしの平和 (シャローム) の契約は動かない」(54:10) と言い換えられます。
つまり、この世界に何が起ころうとも、主の愛は変わることなく、主ご自身がこの世界を平和 (シャローム) に満ちた世界へと導いておられるという「契約」は揺るがないのです。
今の目に見える世界は驚くほどの速度で変化を続けていますが、神の救いのご計画は決して変わることがありません。ここでの「変わらぬ(真実の)愛」も先の「ヘセド」の訳で、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。これこそが聖書の中心思想、神がご自身の契約、約束を変わらずに守り通してくださるという意味です。
私たちの人生にも、祈りが答えられず、神が御顔を隠しておられるように感じられる時があります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、「キリストが捕らえてくださった私」(ピリピ3:12) を見捨てることはありません。
私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のことです。パウロは福音宣教のために想像を絶する苦しみに会いましたが、そのなかで彼は、「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べられないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらすのです」(Ⅱコリント4:17) と語りました。
54章11、12節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そしてこれを前提に黙示録21章18–21節での、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が描かれることになります。
さらに、「あなたの子たちはみな、主 (ヤハウェ) によって教えられ」(54:13) と約束されますが、これは「主 (ヤハウェ) の弟子となる」とも訳することができます。私たちはキリストの弟子として成長しますが、それは人間の努力ではなく、主ご自身のあわれみによるものです。
また、「あなたの子たちには豊かな平安 (シャローム) がある」と固く約束されます。
さらに「あなたは義によって堅く立てられる」(54:14) という表現も感動的です。「神の義」は、神の「真実」とも言い換えることができます。「私の義」ではなく「神の義」が私たちを不動の者にするのです。信仰とは不動の者となるよう自分で努力することではありません。
続く、「虐げから離れていよ・・・恐怖から離れていよ」(54:14) と記されるのは、「虐げ」も「恐怖」もあなたに触れることはないという保証として理解できます。
そして「攻め寄せる者があっても……あなたの前に倒れる……あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる」(54:15、17) と、敵の攻撃が無力になることが描かれます。
さらに、「あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める」(54:17) という立場の逆転が描かれます。
そしてそれらをまとめるように、「これが、主 (ヤハウェ) のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である」と記されます。これは、私たちが自分の正義や真実によって神の祝福を受けるのではなく、すべてが神の一方的な恵みであるという意味です。
私たちの救いがすべて、神の一方的なあわれみ、真実、義に基づくということは、決して、私たちが何の責任も果たさず、何もしなくてもよいという意味ではありません。そうではなく、これは私たちに希望と勇気を与えることばです。
多くの人々は失敗することを恐れ、また、「出る杭は打たれる」などのように、人からの中傷におびえています。しかし、たとえ目の前に大きな障害があったとしても、それらはすべて、神の御許しなしに、私たちを害することはありません (マタイ10:29参照)。
神は、ご自身の真実を証するためにこそ適度の「軽い苦難を」を与え、それを通して「重い栄光」を見られるようにしてくださいます。私たちが遭遇するすべての人生の嵐は、神にある勝利を体験させていただけるための舞台に過ぎないのです。
3.「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道はわたしの道と異なる」
55章では、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も……金を払わないで穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を」という呼びかけから始まります。
54章ではエルサレムへの語りかけであったのが、ここでは「みな」とあるように、それが全世界への招きとなっています。イエスはこれをもとに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37) と言われました。
その上で、この世の富に支配され、そのために労苦することの空しさが語られ、「わたしによく聴け」(55:2) という訴えが記されます。これは「聴いて、聴け」と、神に心から聴くようにという命令です。それによって、「良い物を食べ、たましいが脂肪で元気づく」という恵みを体験できます。
そしてそれがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聴け。すると、あなたがたのたましいは生きる」(55:3) と言い換えられます。神のみことばに聴くということを疎かにして、この世の富や成功を追い求めても、それはまるで、海の水で喉を潤そうとする事に似ています。飲めば飲むほど渇きが激しくなります。それこそ依存症の罠です。
そして主は、「わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ」(55:3) と約束しながら、その契約の内容が「ダビデへの確かで真実な約束」と言い換えられます。
そのことがまた、「見よ。わたしが立てた諸国の民への証人を。諸国の民の君主、司令官を」(55:4) と展開されます。これはダビデの子孫としての「主のしもべ」が全世界の王として立てられることを意味します。
なお5節で「見よ……あなたが呼び寄せる。すると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る……主があなたを輝かせたからだ」と記されるのは、主のしもべの命令が人々を動かすという王の権威を現しています。
そのことがダニエル7章27節では、「国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる……すべての主権は彼らに仕え、服従する」と約束されています。つまり、私たちはキリストとともに世界を治めるのです。
55章6節で、「主 (ヤハウェ) を求めよ。お会いできる間に。呼び求めよ。近くにおられるうちに」と記されるのは、どの人の人生にも、「私の神」が「私をお見捨てになった……私の……うめき……から……遠く離れておられる」(詩篇22:1) と感じざるを得ないときが必ずあるからです。
そして「捨て去れ、悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを」(55:7) と命じられます。
その上で、「主 (ヤハウェ) に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(55:7) と優しく希望に満ちた招きが記されます。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ……天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:8、9) とは、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるとの宣言です。
当時の人々には、イスラエルの神がご自身の神殿を捨てることを通して、神の民を真の悔い改めに導くなどという計画は決して理解できないことでした。これは、放蕩息子のたとえに通じます。父は弟息子が放蕩三昧をして一文無しになるのを見越した上で、彼の失敗を見守ろうとしました。挫折を通してしか分からない恵みがあるからです。
私たちは自分の人生を振り返って、とんでもない回り道をしたと思えることがあります。私も、神の導きを必死に求めながら野村證券に入社したはずなのに、その決断をずっと後悔し続けていました。その思いは神学校に入っても消えませんでした。ギリシャ語やヘブル語の学びについてゆけず、もっと若く神学校に入っていれば……と思いもしました。
しかしそんな私が少しだけとは言え聖書翻訳に関わることができ、その仕事を心から楽しむことができました。かつて毎日のように為替や株式相場の見通しを考えながら、その見通しが毎日のように変わって行った世界に比べて、今、私が取り組んでいる聖書の真理は、二千七百年前から何も変わっていません。
そして、その大昔に記されたことばが、現代の人の生き方を変えることができるのです。これがどれだけ感動的かは、回り道をしたからこそ分かることといえましょう。
人によっては、就職、住まい、結婚さえも、「あのことのせいで、もう夢も希望も私にはない……」という後悔の対象となることがあるかもしれません。しかし、神の導きのすばらしさは、二十年、三十年単位で初めてわかることが多いものです。この8、9節のみことばこそ、それを理解させてくれる鍵です。
55章10、11節では「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く者に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしの望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」と記されます。
これはイザヤを通して主が語られたことが、当時の誰にも理解されなかったにも関わらず、その後の歴史を動かしているという事実に証明されています。イザヤは主がエルサレムを滅ぼすことを預言しました。当時の人々はそれを理解しかなったばかりか、ヒゼキヤの後継者マナセはイザヤを惨殺します。ところが、イザヤの預言の意味はバビロン捕囚の中で理解されるようになりました。
そして、イエス・キリストご自身が、このイザヤのことば、「主 (ヤハウェ) のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられました。つまり、イザヤのことばがイエスを動かし、私たちのための救いを成し遂げたのです。
「まことに、あなたは喜びをもって出て行き、平安 (シャローム) のうちに導かれて行く」(55:12) とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。これは現在、私たちがサタンの支配から解放され「新しいエルサレム」に向かって旅をすることを意味します。
そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。茨(いばら)の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(55:12、13) と描かれます。
「茨」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。つまりここは「のろい」の時代が過ぎ去って「祝福」の時代が来るという意味です。
そしてこのような被造世界の変化こそ、「主 (ヤハウェ) の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」というのです。これこそ、「新しい天と新しい地」の象徴的な表現です。それは私たちの救いが、全被造物の救いにつながるからです。
それはアダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされるという希望の表現です。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です。
そのことが、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます……被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ローマ8:19、21) と描かれます。私たちの栄光の復活を、全被造物がともに待ち望んでいるのです。
多くの人々が、期待はずれの人生の中で、「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:9) とのみことばに慰めと希望を見出しています。
キリストにある信仰とは、この世の暗い現実を、神にある「高い」視点から見直すことができるようになることです。そして、それは、「主のみことば」こそが、人のこころを動かし、歴史を変えて行ったという歴史に現されています。
イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。また主のことばこそが、一人ひとりのいのちの尊さを教え、時間をかけて奴隷制度を廃止させ、人種差別をなくし続けています。
そして主は、「わたしの口から出るわたしのことばも……わたしが望むことを成し遂げ、言い送ったことを成功させる」と断言しておられます。
53章3節で「主 (ヤハウェ) のしもべ」の姿が、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」と預言されていました。しかしこの「主のしもべ」こそが世界を再創造する「救い主」であり、この方に導かれる人が、世界に神の平和(シャローム)を広げてきており、この方の再臨のときに平和(シャローム)が完成します。
この世界の歴史は一見、不条理に満ちているようでありながら、神のご計画通りに進んでいます。それは私たちを怠惰にする教えではなく、明日に向かって自分のすべてを差し出す勇気と希望を与えることばです。
私たちは、この世界が完成するときの喜びの声を、霊の耳で聞きながら、この世の不条理のただ中に入って、この世界を完成に導く神のみわざの一部に参加させていただけるのです。