私たちの教会は、聖書の文字通りの意味を大切にする教会です。昔から、聖書を文字通りに理解したら、自然科学と矛盾するという誤解があります。しかし、それは文字通りの解釈ではなく、聖書が記された当時のことばの使い方を無視して読んだ結果、矛盾に感じられるということに過ぎません。聖書のことばを文字通り、その記された当時の文脈から理解するとき、一つ一つの記事が、本当に、私たちの心の底に語りかけるメッセージとなってきます。
ただ、多くの教派は、聖書の流れをより理解しやすくするために、固有の神学体系を持つ傾向にあります。そこにさまざまな問題が生まれることがあります。私たち福音自由教会では、世の終わりに関して考える終末論では、「千年王国」ということばを信仰箇条に載せてきました。しかし、最近の多くの教派は「千年王国」ということばを使わなくなっており、日本福音自由教会協議会総会でも、そのことば信仰箇条に掲載するのを差し控えるという決議がなされました。それに対し、それは「聖書信仰からの堕落である」という厳しい意見が出されることがあります。
前回の礼拝メッセージでは、黙示録20章を中心に、黙示録全体からお話ししました。まだの方、復習なさりたい方は、 から原稿をお読みいただくか、また礼拝メッセージをお聞きいただくことができます。
メッセージの後、何人もの方々から、疑問が整理されたとの反応を頂くことができました。
文字通りに読むと、黙示録20章5、6節で、第一の復活にあずかり、キリストとともに千年の間、王として治めると約束されているのは、信仰のゆえに首をはねられた殉教者だけと理解できるのです。
ただ、聖書のその他の箇所ではテサロニケ4章やⅠコリント15章、ダニエル書7章、その他、どの箇所でも、すべての信者が第一の復活にあずかる……と理解されるようにしか思えません。しかし、「千年の間」という期間が明記されているのは、この黙示録20章しかありません。
神学体系からすると、黙示録の第一の復活にすべての信者があずかると理解されるのが当然と思えます。しかし、そのように解釈すると、この黙示録の記述を文字通りに理解してはならないということになり得ます。
しかも黙示録全体の流れでは、ここの記述は、6章10節で、殉教者たちが大声で叫んで、「聖なるまことの主よ。いつまでもさばきを行わず、地に住む聖徒たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」と叫んでいることへの答えであると解釈するとよくわかります。
しかもその直前には、子羊が第四の封印を解いたときに、青ざめた馬が現れ、それに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた、と読むだけでぞっとする表現が登場します。そして黙示録20章では最終的に、「死」と「よみ」が火の池に投げ込まれるというさばきが記されます。
地上の四分の一が殺されることが、主ご自身のご支配の中で起きるということは私たちに理性には、とうてい納得できません。しかし、現実には、二千年前の世界でも、つい数百年前までも、ペストなどのようなパンデミックによって地の四分の一が死んだと思えることは何度も起きました。つまり、6章の理解しがたい記述の解決が、20章で見られるのです。そして6章の記事は、ペストで家族や隣人を失った気持ちになると理解できるかもしれません。そして20章にきて慰めを受けられます。とにかく、この黙示録を、そのような理不尽な苦しみに会った人が読んだときに、その意味が分かり、慰めを得ることができます。ですから、今回のメッセージでも第二次大戦時の日本政府の迫害に抵抗した矢内原忠雄氏の証しを何度も引用しました。
一方、この黙示録に描かれた苦しみを未来の大患難期のものと解釈し、真の信者はその前に天に引き上げられるという解釈が、米国で流行ってきました。なんとなくそれは、19世紀末から世界の繁栄を享受してきたアメリカ的な発想かもしれないと思ってしまいます。神学体系は、その時代の国の基本的な雰囲気や問いを反映して作られる傾向があります。
聖書を文字通りに読むなら、黙示録20章の記述を「千年王国」として、聖書全体の神学の中心に据えることはかなり難しいように思えます。矛盾に見えることを敢えて説明しようとせずに、その書の文脈の中から味わってゆくという謙遜な読み方が求められるように思われますが、いかがでしょうか。異論も、反論も歓迎します。
ただ、神学体系からではなく、聖書のことば自体から、解釈を一致させることができたらと心より願っています。