昨日、9月7日(木)は日本中がジャニーズ事務所の会見に引き寄せられていた気がします。数百人もの若い子たちに性加害を続けていた人が、日本のメディアの帝王的な存在であったというのは、本当に情けない話です。
しかも、このことがこれほど大きく報道されるようになったきっかけが、今年3月のBBC(英国公共放送)による にあり、それまで日本の放送界も、見て見ぬふりをしていたという実態があったことに何とも驚きました。
僕は芸能界に疎く、藤島ジュリーという方が何でジャニーズ事務所の100%の株主になっているか、ジャーニー氏の姉が金庫番的な存在で、その娘が彼女であったなど、いろんな経緯があったということを昨日になってやっとわかりました。
ただ、それにしても昨日の会見に、東山さんが新社長、井ノ原さんが関連会社の社長として、記者会見に臨んだことに、ジャニーズ事務所の改めて大きな力を感じました。あの二人は、報道番組に頻繁に登場するだけあって、場の空気を読んで発言する、その話し方がほんとうにスマートであることに感心しました(夜のニュースしか見ていませんが……)。今後の経営能力以前に、この日本の空気の激しい変化の中で、この事態に対処する発言ができるということ自体が、あの場では大切だったように思います。
井ノ原快彦さんの発言では、ジュニア同士で「そうなのかなあ」「そうなったら(加害されたら)どうしよう」と噂はしていたものの、「小学生か中学生くらいでしたから、デビューしたいとかそういう気持ちのほうが強かった。言い訳になるかもしれませんけど、なんだか得体の知れない、それには触れてはいけない空気というのはありました」と話していました。まさに「場の空気」の力をほんとうに正直に伝えていました。
東山さんは「今となっては恥じておりますが、エンターテイメントの世界で絶対的な存在、下の者たちはそれを信じ、行動していかなければいけない状況下にあった。それが被害の拡大を生んだのではないか」と述べました。また現時点でのジャニー氏に対する思いを問われると、東山さんは「やっていることは鬼畜の所業。今は愛情はほとんどありません」と断じていました。
その発言に、正直、複雑な思いを味わいましたが、それぞれ場の空気を理解して、それに対応するような発言だったように思います。興味深いのは、東山さんの「今となっては恥じておりますが」ということばが、聖書に登場することです。パウロはローマ人への手紙6章19-22節で次のように記しています。
19 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。
今では恥ずかしく思っているものです。
それらの行き着くところは死です。
22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷になり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
その場の空気に支配されて、絶対的な悪に対して見て向ぬふりをしてしまった方々が、本当の意味で、過去のそのようなふるまいを「恥ずかしく思って」いただきたいと思います。
日本の場の空気は、驚くほど変わりやすいものです。それに支配されずに、創造主の「義」の基準に従う者でありたいと思いました。
上記の聖書のことばは、空気に支配された日本の善悪の基準の様々な場面に適用できるものだと思います。
恥の感覚が、創造主の基準に合わせられるようになることが、愚かな場の空気に支配されないための知恵ではないでしょうか。