すべての民族への福音〜イザヤ56章7節、詩篇150篇6節

休暇中に興味深いタイトルの本を買って読み始めました。「社会はなぜ左と右にわかれるのかー対立を超えるための道徳心理学」(ジョナサン・ハイト著)

私たちの価値観は、合理的な理論によってではなく、ほとんどの場合、直観によって決まっており、何らかの説明は、直観を正当化するために用いられる……という趣旨のことが書かれています。

これは特に政治信条や信仰に関わることでは顕著になるようです。何か、自分のしていることが空しく感じられることでもありますが、様々な神学的な見解の違いが生まれることを優しく受け入れる契機にもなります。

そこで特に興味深かったのは以下の記述です

心理学におけるほぼすべての調査は、全人類のうちで極めて狭い範囲の人々、すなわち欧米の (Western)、啓蒙化され (educated)、産業化され (industrialized)、裕福で (rich)、民主主義的な (democratic) 文化のもとで暮らす人々を対象に行われている。略して Weird と呼ばれる(Weird には「奇妙な」等の意味がある)。

しかし、Weird 文化に属する人々は統計的な例外をなすので、人間性を一般化したいなら、研究対象として最もふさわしくない標本とも言える。欧米の内部ですら、アメリカ人はヨーロッパ人よりも例外的であり、さらにアメリカ国内に限っても、高等教育を受けた中流上層階級に属する人々はもっとも特異だとみなせる。Weird 文化の特異性の一つは、「Weird であればあるほど、世界を関係の網の目ではなく、個々の物の集まりとして見るようになる」という単純な一般化によってうまく説明できる

このことは、神学理論にも適用できると思います。僕が神学校で組織神学を学んだ時に感じたのは、西ローマ帝国のラテン文化圏での法律論的な罪意識の視点から、神学体系が築かれているように思うという素朴な感想でした。そこからギリシャ系の神学を見ても、そこにテーマの違いが見られました。一方、聖書の土台となっているイスラエルの文化は、もっと集団主義的なもので、どちらかというと日本人の感性に似ている面もあるように感じられるということでした。

ですから、聖書を読む際に、ある意味で上記の Weird な文化的背景のレンズを横におく必要があるということです。ラテン的な神学的な枠組みを外して初めて、日本人により理解されやすい福音が語れるのではないかということでした。

その課題には今も格闘し続けています。聖書を読む際に自分が持っている神学的レンズに気づき、聖書を聖書から解釈するというのは、同時に、マルティン・ルターによる宗教改革の原点でした。彼はそれまでの千年以上にわたって築かれてきていたカトリックの神学体系を横において、聖書自体から福音を読み取ろうとしました。

ルターにはいろんな問題がありますが、「聖書のみ……」という宗教改革の原点は、現代の私たちにも適用できることと言えましょう。

預言者イザヤは、当時のエルサレム神殿での礼拝の腐敗を嘆きながら、来たるべき新しい神殿での礼拝に関して次のように記しました

わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる
イザヤ56:7

また詩篇の最後は次のことばで閉められます

息のあるものはみな 主をほめたたえよ。ハレルヤ

欧米で築かれた神学体系を尊重しながら、同時に、そこに無意識のうちに入っている個人主義的な読み込みに気づくことこそが、日本人に理解しやすい福音を語る際の鍵となると思わされています。