終戦後78年〜イザヤ56章3、7節 —— 自国民族至上主義の問題

今日は第二次大戦終戦から78年目の記念日です。本当に78年前に想像を絶する恐ろしい悲劇が繰り返されていました。

日本がこの78年間、他国との全面的な戦争を避けることができたのは、ひとへに第二次大戦での尊い犠牲のゆえであったことを決して忘れてはならないと思います。人間的には「無駄死に」と思われたことが多くありましたが、それは本当に78年間の平和の礎となってくださった尊い犠牲であったと考えられるべきかと思います。

昨日、書店で「検証 ナチスは『良いこと』もしたのか」という本を手に取り、概略を一気に読みました。

僕が何よりも目が開かれたのは、ナチスの党名に関する誤解です。僕が習ったときには、「国家社会主義労働者党」と訳されていました。しかし、これは「国民社会主義労働者党」と訳すべきだというのです。

「国家社会主義」だと、実際の社会主義体制と区別がつかなくなります。しかし、ナチスがそれなりに国民の支持を取り付け、政権を握ることができたのは、当時の就業人口の五割を占めた労働者の気持ちをうまくまとめることができたからです。ただそこには、ユダヤ人とか遺伝的な障がい者と見られる方を徹底的に軽蔑するということとセットになっていました。つまり、遺伝的に健康な自国民の誇りを高揚することによって、世界を支配するというドイツ民族至上主義の考え方があったというのです。

興味深いのは、ナチスドイツ時代の前から民族意識高揚のために用いられていたドイツ国歌(現在の讃美歌194番)が、現在は、一番と二番が歌われることなく、三番だけが歌われるようになっていることです。

世界に冠たるドイツよ……と今では幻想となったった他国の領土のことも自分たちの本来の支配地であると歌われていました。わかりやすい英語の歌詞がついています。

戦後の日本は、米国の占領政策によって、民族の誇りを奪われたという論調が最近、急速に増えています。確かに、あの時代に、日本だけが特別に野蛮で、戦争好きの国民であったという論調になった面がないわけではありません。しかし、当時の日本に、日本民族至上主義のような雰囲気があったことは否定できません。それはナチスに通じる面があったと言われても仕方がない面があるかと思います。ただ、同時に、それは当時の国際的な雰囲気がそのような流れがあって、日本だけが特別に悪かったかというと、そうでもないという面があります。アメリカにも中国にも朝鮮半島にもそれなりの問題がありました。

ですから日本だけを特別に野蛮な民族に見ることも、日本だけが悪かったわけではないという被害者意識も、その両方が問題かと思います。

今から二千七百年前に記されたイザヤ書56章3、7節に感動的なことばがあります

主に連なる異国の民は言ってはならない。
「主は、きっとその民から切り離される」と。
宦官も言ってはならない。
「ああ、私は枯れ木だ」と

わたしの祈りの家で彼ら(異国民、宦官)を楽しませる。
……
なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。

そしてイエス様が当時のエルサレム神殿から商売人を追い出した理由としてこの「あらゆる民の祈りの家」ということばが引用されます(マルコ11:17)。

今や、聖書はすべての民族に向けて記された書だと認めらるようになっていますが、そこにはイエス様が当時の人々の聖書の読み方を変えてくださったということがあります。もちろん、イザヤに啓示された福音がもともと民族や優勢思想を超えていたという現実があります。しかし、聖書がユダヤ民族至上主義的に読まれることがあったという間違いを、イエスが正してくださったということを決して忘れてはなりません。

第二次大戦までの日本の歴史を振り返りながら、自分たちを格別に野蛮な民族と卑下することもなく、また自分たちこそが犠牲者だと、民族意識を鼓舞することもなく、近隣諸国や世界中の民族にある闇の部分と光の部分の両方を優しくみながら、互いに尊敬し合うことができるようになることこそ、引き続き戦争を避けるための最大の道になるのかなと、思わされています。

今から2700年も前にイスラエルの民に啓示されたことばに、民族至上主義や優勢思想に対する最大の防波堤があったことを思わされています。