聖書預言の多様な解釈〜申命記30章 —— ダニエル9章から大患難期?

昨日から隔週で四回にわたり、聖書の終末預言に関して話しています。理由は、今年の初めの日本福音自由協議会総会で、信仰箇条に「千年王国」ということばを掲載するのを差し控えると決めたことがあります。ただそれを採用するかどうかは、各個教会の判断に任されるということで、それぞれの教会員に大きな課題がもたらされたことになります。

聖書解釈に関して議論がなされるのはとっても健全なことですが、それに先立って私たちが心にとめる歌があるように思います。

イスラエル民謡で、「ヘベヌ・シャーロム・アレイヘム」という曲があります。「私たちはあなたがたに平和を持ってきました」ということばの繰り返しです。以下は、2018年5月24日のイスラエルの国際空港での歓迎の歌と踊りです。イスラエルの建国を祝ったイベントでもありました。

聖書解釈の違いがあっても、根本の福音理解においての一致を確認できることは大切です。僕の多くのクリスチャンの友人は、意見がすべての点で一致することは稀です。しかし、意外に、終末論解釈で意見が違う人と、政治的な側面では意見が一致できているということがあったりします。僕は基本的に、福音自由の初期の信仰告白、「千年王国前の患難期前携挙」という解釈には疑問を感じながらも、ぎりぎりのところで福音自由に入会しました。幸い、40年近く経過して、僕の解釈はもはや少数派ではなくなりました。しかし、意見の違い人と、僕は喧嘩はしてこなかったつもりですし、いろんな意味で協力関係を築いてこられたと自負しております。キリストにある平和(シャローム)の中ですべてのことが議論されるべきです。

昨日のメッセージは、 でご覧いただき、またお聞きいただくことができます。ポイントは、ダニエル書から七年の大患難期を語ることは、文脈に合っているかという問いかけです。

そこで時間の関係で話せなかったことがあります。それは以下の文章です。

旧約聖書の根幹であるモーセ五書の最後では、イスラエルが神に背いて国を失うというバビロン捕囚のことが預言されながら、同時に、そこからの回復が申命記30章1–6節で次のように描かれます。

 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み……あなたが我に返り、あなたの神、主 (ヤハウェ) に立ち返り……心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、あなたの神、主 (ヤハウェ) はあなたを元どおりにし……あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。
 たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主 (ヤハウェ) はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される。あなたの神、主 (ヤハウェ) はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する……
 あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの心と。あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。

これを文字通りに理解するなら、現在のイスラエル国家の建設こそ、この預言の成就と見ることができます。しかし、現在のイスラエルという国は、決してユダヤ教を国教としている国ではないばかりか、多くのユダヤ人は世俗的な生き方をして聖書信仰から離れたままです。しかし、イエスはこの預言の成就をルカ15章の放蕩息子のたとえとして話しています。そこでは、イエスが罪人たちを受け入れて食事をすることの意味が語られていました。弟息子は自業自得の罪で、飢え死に寸前まで転落しましたが、そこで「我に返り」(ルカ15:17)、父のもとに帰って行きました。父は息子の帰りを待ち続けていましたが、父は弟息子が帰ってきたということ自体を大喜びして、手に指輪をはめ、息子の立場を回復させました。それはまさに「心に割礼を施す」という主のみわざと言えましょう。兄息子はその父の態度を非難しました。兄息子は当時のパリサイ人の態度を現し、彼らは罪人の回心を申命記の記事と結びつけて考えることができませんでした。そして今も、多くのユダヤ人はイエスの現れを預言の成就として見ることができていません。

旧約聖書には、繰り返し、イスラエルの民の土地の回復とか十二部族の回復、神殿の回復といった預言が満ちています。それが一つひとつ成就することを待ち望むことはすばらしいことですが、それは既にイエス・キリストによって成就し始めているという視点も必要でしょう。その完全な成就の時がどのようになるかについての解釈の違いは昔も今もあります。ただ、少なくともイエスは申命記30章の預言の成就を極めて日常生活のレベルで語っておられることに、私たちは目を留めるべきでしょう。旧約聖書はイスラエルに対する最高の「賜物」であり、彼らへの「召命」の書ですが、そこには彼らが「世界の光」として、神の一方的なあわれみを謙遜に分かちあうという使命が記されていました。そして、イエスこそ、それを可能にしてくださる真の意味でのイスラエルの王として現れ、預言を成就してくださったのです。

もう一つ、誤解されていることがあります。現在のイスラエルは、そこにいたパレスチナ人を追い出してできた国であるというのは、極めて一方的な見方です。今から二百年余り前は、現在のイスラエルの土地の大部分は不毛な荒地か伝染病のはびこる沼地であったと言われます。そのようななかでユダヤ人が、まさに艱難辛苦によって地道にそこを開拓した結果、そこは豊かな地に生まれ変わりました。ただ、その後、多くの渡り鳥労働者であるパレスチナ人がそこに引き寄せられるように入ってきたという面があります。しかも、パレスチナ難民を政治的に利用しているのは、周辺のアラブ諸国であるという面もあります。とにかく政治的には難問が山済みで、それを聖書預言を用いて判断することには極めて注意深くある必要がありましょう。