アメリカ北部で高速道路を走っている家族の車に鹿が飛び込み、車が大破しました。それに乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言いました。それに対し13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我しなかったのよ!」と答えたとのことです。
今日の箇所では、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」(45:15) というイザヤの告白があります。聖書にご自身を啓示しておられる神は、同時に「ご自身を隠す神」でもあります。その結果、同じ出来事が、7歳の男の子には、神がご自身を隠しているように見え、13歳の少女には、ご自身を啓示しておられるしるしと見えました。
宗教改革者マルティン・ルターは躁うつ病とパニック障害のような発作に何度も見舞われ、彼はそれを『悪魔の風呂』と呼んでいました。心臓が震えおののき、異常な発汗があり、発作的に叫び、死が近いと確信し、その恐ろしい瞬間には、信仰も義認も感じなかったと言われます。
彼はそれまで千数百年続いたカトリック教会の権威を否定しましたが、彼はうつ状態に陥ると、繰り返し、「お前だけが何でも知っているというのか。しかし、お前が間違っているとしたら、そして、人々を誤らせ永遠の呪いへと導いたとしたら、どうするのか……」という心の囁きが聞こえたと記しています。
しかしそのような不安が、彼をますます聖書に向き合わせました。彼は三ヶ月間で新約聖書をギリシャ語からドイツ語に、旧約聖書も驚くべき速さでヘブル語から翻訳しましたが、それから二十数年間、改訳を続けます。当教会の講壇には、1545年の最終訳のコピーが置かれていますが、千数百年間の伝統を崩す根拠は聖書にしかありませんから、何度も翻訳を見直す必要がありました。
そして結果的にルター訳聖書が共通ドイツ語を生み出したとさえ言われるほどです。すべての始まりは、ルターが不安の中で真剣に神のみことばを慕い求めたことから始まります。
この地で起きている様々な不条理の中に神のご支配があると信じることは不可能に近いのかもしれません。しかし、聖書のレンズを通してこの地の見るときに、そこに神の不思議な救いのご計画を認めることができます。
そしてそのとき私たちは周囲がどうであろうと誠実に生きようという勇気が湧いて来るのです。
1.「主 (ヤハウェ) がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現わされたからだ」
「喜び歌え、天よ、主 (ヤハウェ) がこれを成し遂げられたから。喜び叫べ、地の底よ。喜びの歌声をあげよ、山々よ、林とそのすべての木々も。主 (ヤハウェ) がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現わされたからだ」(44:23) とは、主の救いのみわざを、天も地も山々も林も、全被造物が喜び歌う姿です。
J. S. バッハはクリマスオラトリオの最初で神の御子の貧しい誕生を告げる福音書の朗読の前に、この箇所のみことばを、テインパニ、トランペットなどとともに壮麗な喜びの歌として表現しています。
神の御子の貧しさ、地上の私たちの貧しさ、そのすべては、天上に響く喜びの歌声の下で一時的に起こっていることに過ぎません。全世界の創造主の驚くべき偉大な創造と贖いのみわざの中で、このつかの間の私たちの地上の人生を見るということこそが福音の核心です。
神の救いは、やがて、誰の目にも明らかなものとされるからです。
44章24節は、「主 (ヤハウェ) はこう言われる」という書き出しとともに、「その方は、あなたを贖い、母の胎内にいる時から形造られた」と紹介され、その方のことばが、「わたしは、主 (ヤハウェ)。万物を造った者。わたしはひとりで天を延べ広げ、ただ、わたしだけで、地を押し広げた」と記されています。
そして主 (ヤハウェ) は、「空しく語る者(易者)のしるしを打ち壊し、占い師を狂わせ、知恵ある者を立ち返らせ(退けて)、その知識を愚かにする」(44:25) と言われます。
「空しく語る者(易者)」とは偽預言者を指していると思われ、神は彼らと「占い師」を同列に扱います。彼らは過去のできごとを調べ、そのときに並行して起こった様々な自然現象などを調べ、同じことが自然の中に見えたら、それを予兆のしるしとして宣伝します。
しかし、「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。わたしは新しいことを行う」(43:18、19) と言われる主は、それらの体験に基づく「しるしを打ち壊し、占い師を狂わせ」るというのです。
それと同時に、「知識ある者を立ち返らせ(退けて)、その知識を愚かにする」という表現は、神がこの世の知者の高慢を砕くことによって彼らを創造主のもとに導くという神の招きとも理解することができます。
このみことばをもとに、後にパウロは、「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました」(Ⅰコリント1:27) と言ったのではないでしょうか。
同時に主 (ヤハウェ) は、「主のしもべのことばを立たせ(成就させ)、使者たちの計画を全う(成し遂げ)させる」(44:26) と、ご自身が預言者にことばを授け、それをご自身が成就するという原則を強調されます。
主ご自身が、エルサレムやユダの町々の再建、廃墟の復興を導き、帰還を妨げる「淵」や「豊かな流れ」を支配しておられるのです (26、27節)。
その上で、この約150年後に現れるペルシア王「キュロス」が、第一には、「わたしの牧者、わたしの望みをみな全うする」(44:28) 者として紹介され、第二に「エルサレムについては、『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う」と、奇想天外な「計画」が紹介されます。
そしてエズラ記の初めには、「ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主 (ヤハウェ) のことばが成就するために、主 (ヤハウェ) は……キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し……『ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主 (ヤハウェ) は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方がユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された』」(1:1、2) と描かれます。
イザヤは、北王国イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた直後、ユダとエルサレムも国を失う苦しみを通して回復されるという希望を告げますが、不思議にもここに150年後のペルシア帝国の王の名が記されます。多くの学者はこれを記したのはイザヤよりずっと後の人物であると言い切りますが、そのような一見合理的な解釈は、この預言を無意味なものにします。
しかもここには「キュロス」という名の他に救いのプロセスは何も記されません。後の時代の人なら、もっと別の書き方をしたことでしょう。しかも現実には、ユダヤ人はエルサレム神殿を失いバビロンに捕囚とされるという絶望を通して神の民として整えられました。
それは彼らが、自分たちを具体的に救ってくれたキュロス大王の背後にイスラエルの神、主 (ヤハウェ) を認めることができたからです。それはイザヤの預言があったからこそ可能になったとは言えないでしょうか。
2.「わたしはあなたに力を帯びさせる。あなたはわたしを知らないが」
45章1節で、「主 (ヤハウェ) は、油そそがれた者キュロスについてこう言われる」と記され、その説明が、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯(武装ベルト)を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする」と描かれます。
「油注がれた者」とは後にヘブル語のメシア(救い主)を指すタイトルとして用いられますが (ダニエル9:25、26)、それが異教徒の偶像礼拝者に充てられています。その彼を主ご自身が世界の王としての任職の油を注ぎ、彼を通して世界を支配するというのです。
2節から7節は、主 (ヤハウェ) ご自身からキュロスへの語りかけです。
その第一は、「わたしが、あなたの前を進む。険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」と、キュロスの進軍の道を開くということです。
そして第二は、「秘められている財宝と、ひそかな所に隠された宝をあなたに与える」というものです。そうされるのは、「それは、あなたが知るためだ。『わたしは、主 (ヤハウェ) 。あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である』と」(45:3) とあるように、主がキュロスの名を呼んで召し出し、また主 (ヤハウェ) がイスラエルの神であることを彼が認識できるようになるためだというのです。
そしてその目的が、「主 (ヤハウェ) の「しもべヤコブ」または主の「選びの民イスラエル」の救いのためにキュロスの名を呼ぶと記されます (45:4)。
しかも興味深いことに、「あなたはわたしを知らないが」と4、5節で繰り返しながら、「あなたに肩書きを与え……力を帯びさせる」と言われます。つまり、キュロスは、最初、自分が誰によって立てられ、誰によって力を与えられているかをまったく知らないままに、主の働きのために用いられているというのです。
たとえば、自分の生涯を振り返るとき、私が主を知る前から、主が私の名を呼び、私を導き、私を通してご自身のみわざを進めておられたと思うことがあります。つまり、不信仰な者をさえ、主は用いることができるのです。私たちの信仰とは、その事実に気づくということに他なりません。
そこに主のみわざの目的があるということを、主 (ヤハウェ) は、「それは、日の上るところからも西(沈むところ)からも、人々が知るためだ。わたしのほかには、だれもいないことを。わたしは、主 (ヤハウェ) 。ほかにはいない」(45:6) と言っておられます。
歴史は、主のご計画通りに進んでいます。やがて、全世界の人々が主 (ヤハウェ) を認めるようになります。そのとき、私たちは知らずに主 (ヤハウェ) のみわざに参画させられていたのか、それとも、主 (ヤハウェ) のご計画を心から喜びながら自分自身の心と体を主体的にささげながら主のみわざにあずかっていたのか、それが問われます。
大きな主のご計画の中に、自分から主体的に身をあずけることができるのは幸いです。
多くの信仰者は、「私は信仰が弱いから、主 (ヤハウェ) は私を用いることができない……」と自分を卑下しますが、信仰の出発点とは、バプテスマのヨハネが言ったように、「神は、これらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」ことを信じることです (マタイ3:9)。
自分の信仰に頼るのではなく、力を抜いて主 (ヤハウェ) の真実にゆだねること、自分を忘れることこそが出発点です。
また同時に、自分の信仰如何に関わらず、主 (ヤハウェ) のみわざが進むということを知るとは、この世界が決して自分の期待通りには進まないことを受け入れることでもあります。
そのことを、主ご自身が、「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和 (シャローム) をつくり、わざわいを創造する。わたしは、主 (ヤハウェ) 、これらすべてを行う者」(45:7) と言われます。
興味深いのは「闇」と「わざわい」に関して「創造する」ということばが用いられることです。つまり、私たちの人生が期待通りに進まないのは、私たちの神が無力だからでも、私たちの祈りが弱すぎるせいでもないのです。
しかし、この神のご支配の現実を受け止めるとき、明日の自分に何が起こるかを知らなくても、明日を支配しておられる主ご自身が、この私を高価で尊いものと見てくださるということに信頼することができます。その結果、目の前に「闇」や「わざわい」があっても、誠実な生き方を全うする勇気を持つことができます。
またそれは同時に、私たちがイスラエルのように罪深く、自業自得で苦しみに会っているとしても、主 (ヤハウェ) は異教徒を用いてさえ、私たちを救い出すことができるということを信じることでもあります。
残念ながら、信仰の有無に関わらず、病気や事故に会う確率は変わらないかもしれません。違いは、わざわいに会った後に現れます。全能の神に信頼する者は、それも神の御手の中にあったことと受け止め、神がすべてを益に変えてくださることに信頼して、そこで自分のなすべきことを、黙々と行うことができます。
3.「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」
45章8節の、「天よ。上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け、救いを実らせよ。正義をともに芽生えさせよ。わたしは、主 (ヤハウェ) 、これを創造した」とは、主 (ヤハウェ) ご自身が、天と地に語りかけ、イスラエルのために「救い」と「正義」を実現してくださるということです。
それは主 (ヤハウェ) のみわざです。私たちはこの世の様々な不条理にいきり立って、不条理を引き起こす人々に怒りを燃やす必要はありません。
ところで、イスラエルの民が期待した「救い」は、ダビデのような王が再び現れ、自由と繁栄を実現することですから、主 (ヤハウェ) が異教の王を用いてエルサレム神殿を復興するという解釈は受け入れ難いことにも思えます。それはイスラエルが外国の支配に屈し続けることを意味するからです。
しかし、それを前提として、「わざわいだ(ああ)。自分を形造った方に抗議する者よ」(45:9) と記されます。私たちは陶器師である神の作品としての「陶器」、「土の器の一つ」に過ぎません。
創造主の計画に抗議することは、「粘土」が「形造る者に」、「何を作るのか……あなたの作った物には、手がない」と言うのと同じように愚かなこと、また、子どもが父や母に、「どうして私を産んだのか……」と抗議することと同じく無意味な疑問です (45:9、10)。
私たちも自分の体型や性格を、神の失敗作と見ることがあるかもしれません。
しかし、レーナ・マリヤさんは、両手と片足がないまま生まれてきたのに、詩篇139篇14節をもとに、「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました (I praise you、 because I am fearfully and wonderfully made) と心の底から創造主を賛美しています。その信仰は、障害児の誕生を神のみわざとして喜んだ母から受け継いだものです。
この世では必ず、期待外れのことが起きます。自分だけが何のわざわいにも会わないことを期待すること自体が、「わざわいだ(ああ)」と非難されることかもしれません。
もちろん、ヨブのように激しい苦しみの中で神に向かって、「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか」(ヨブ10:18) と訴えることも受け入れられます。しかし、「こんな不条理を許す神など信じてやるものか……」というのは傲慢に他なりません。
45章11節では、「主 (ヤハウェ) はこう言われる。―この方は、イスラエルの聖なる方、これを形造った方―」と説明されながら、主がイスラエルに、「わたしの子らについてこれから起こることをわたしに尋ねようとするのか。わたしの手で造ったものについてわたしに命じるのか」と非難します。
これは、自分たちの将来のことをあれこれ詮索し、占い師に尋ねるように神の答えを必死に求めることの愚かさを指しています。
神戸ルーテル神学大学の故鍋谷教授は、イザヤ書の核心は、6章の「心を頑なにするメッセージ」にあると言われます。イザヤは、「だれを遣わそう」という主の招きの声に、「ここに私がおります。私を遣わしてください!」と応答しますが、そこで命じられたのは、民に向かって、「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」という不思議なことばでした (6:8、9)。その意味は国と神殿が滅びて始めて理解できるものでした。
私たちも、キリストの十字架の意味が心に響いてくるのは、自分の惨めさと真正面から向き合って初めてと言えましょう。
福音は、明瞭な言語で語られる必要があるのですが、しばしば、理性には、「言語明瞭、意味不明」としか響きません。それでその人は、ますますみことばに反するように、自分の従来の生き方を貫こうとするのですが、それが行き詰まったときに、ふと、みことばが心の底に響いて来ます。
私たちにはそれがいつ起こるかなどわかりませんから、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝え続けるのです。
私たちは、時が来るまでは、神のみこころを知ることができませんが、主はすべてを支配しておられます。
そのことを主は、「このわたしが、地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。このわたしが義をもって彼を奮い立たせ、彼の道をことごとく平らにする。
彼はわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、賄賂によってでもない」と言われ、最後に「万軍の主 (ヤハウェ) は言われる」と、そのように告げられた方の力が強調されます (45:12、13)。
イスラエルはただ、主 (ヤハウェ) が異教の王キュロスを用いて「捕囚の民を解放する」という期待はずれの救いを受け入れるしかありません。しかも、そこに何らかの裏取引もなく、主の計画の通りだというのです。
45章14節では、エジプトやその南のクシュとセバがイスラエルに服従する様子が語られます。これはイスラエルが北からのアッシリアやバビロンの攻撃に対して、南のエジプトに頼ろうとしたことの愚かさを指摘するためです。
彼らはエジプトを自分たちの救い主かのように求めたのですが、エジプトの方から反対に、「神はただあなたのところだけにおられ……ほかに神々はいない」と告白するようになるというのです。
その上で、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15) という不思議な記述がなされます。エルサレムの再建は、人間の目にはペルシア王キュロスの働きとしか見えないからです。
同じようなことが私たちの日常生活に起きています。主は、ご自身をこの世で起こる様々な出来事の背後に隠しておられます。
ですから、人々が「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか……」と思うのは当然です。そのような中で、人々は偶像礼拝に走りますが、彼らは恥を見ることになります。
ルターは聖書の教えを理性的に体系化することを嫌いましたが、多くの学者は、彼の神学の中心にこのみことばがあると言います。
ルターは、目に見える悲惨の中で神がご自身を隠しておられる現実に絶望しながら、みことばをとおしてキリストに出会い、慰めを受けました。
分かりやすい問題の解決を求める人は、十字架にかかるキリストに躓きます。しかし自分の惨めさや限界に嘆いている人は、十字架のキリストによって罪の赦しの確信を得て、「鷲のように翼を広げて上って行く」(40:31) という歩みに進んでゆきます。
なお、「神はただあなたのところだけにおられ」とは、神の存在は神の民を通してしか認められないという不思議を現す事実でもあります。
たとえば、ハワイのモロカイ島には、今から150年余り前、ハンセン病の方が隔離されていましたが、そこにダミアン神父がひとりで入り込み、彼らの世話を始めました。彼はやがて自分自身が感染しますが、それによってかえって、この働きに献身する人々が次から次と起こされました。
その島を後にアメリカの小説家スティーブンソンがこの島を訪ねたとき、このような詩を残しました。
ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう。
つまり、「ご自身を隠す神」は、カトリックのシスターを通してご自身を現しておられたのです。このとき、神の栄光は、世界から不条理な病や悲惨がなくなるというよりは、自分の利害を超えて人に尽くすことができるという心に現されていました。
世界が自分に都合良く動いて欲しいと願う中から、際限のない自己主張と争いが生まれますが、まわりの状況に左右されない心の平安からは、この地の平和が始まります。
「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」とは、旧約と新約をつなぐ鍵のことばです。イエスを十字架にかけた人々は、ローマ帝国の支配に不満を覚え、目に見えるダビデ王国の実現を待ち望んでいた人々でした。
イエスを支持していたユダヤ人の群集も、イエスが無抵抗にローマ総督のもとに引き出されたこと自体に失望し、それが怒りに代わって、「十字架につけろ!」と大合唱をしました。イエスがダビデの子なら、ローマ帝国からの独立運動を導く勝利者になるはずだと思われたからです。
当時の人々が、神は異教徒の国、ペルシア帝国の大王キュロスを用いてエルサレムを復興したということを心から理解していたなら、その後、ローマ帝国に逆らう独立戦争を起こしはしなかったでしょうし、ユダヤ人が二千年間の流浪の民になる必要もありませんでした。
人の心の中に生まれる理想は、しばしば、絶え間のない争いの原因になります。宗教戦争も、そこから生まれます。私たちも、今、ここで、期待はずれのままの現実に中に、神の救いを見出すことができるなら、この世界にさらなる争いが起きるのを防ぎ、私たちのまわりに神の平和(シャローム)が広がるのを見ることができるのではないでしょうか。