母のこと〜アモス書と新天新地

母のためにお祈りいただき、心より感謝申し上げます。

96歳の母が先週金曜日 (6月16日) に緊急入院しましたが、病名は左閉塞性腎盂腎炎ということになっています。その他、重症筋無力症……という難病を抱えています。現在、尿管に石のようなものができて片方の尿道を塞いでいます。手術で石を取り除くのが普通の治療ですが、高齢で難病も抱えているため、石が溶けて流れるのを待つ内科的な治療を施していただいていますが、まったく効果は出ていません。

昨日の月曜日、旭川の病院を日帰りで訪ねてきました。例外的に約30間面会でき、約一時間後、お医者さんのお話しをお聞きし、また15分間会うことができました。

認知症が進んで会話もままなりませんが、「秀典、来たんだね」ととっても喜んでくれて、僕たちが最近移り住んだ新しいマンションに写真を見せたら、「きれいだね」と喜んでくれました。母の手を握り、頭をさすりながら、ゆっくりお祈りできました。それは本当に幸いなひと時でした。

一時間余り空いた後の、残りの15分は、一転して、意識がもうろうとして、会話になりませんでした。別れて帰って来るのがつらくてたまりませんでした。外科的治療を諦めてしまったことが、何か、母の自然死を待つようで、本当に複雑な気持ちです。この一週間が山かと思われます。

今週末と来聖日、釧路の教会からお招きを受けて奉仕させていただき、日曜日夜に再び旭川に入ることにしています。来週月曜日にまた会えることを心より期待しております。

母は晩年、野菜や果物作りに生きがいを感じていました。いちごやトマト、すいか、メロンその他にも、多くの野菜を作っていました。子どもや孫たち、近所の方々にお配りして喜んでいました。当教会にもいつもいろいろ送ってくれていました。

聖書は、私たちの最終的な希望を、「新しい天と新しい地」として描いています。そこでは大地を耕すことが喜びに変わります。イスラエルへの厳しいさばきを宣告したアモス書9章13節では次のように描かれています。

「見よ。その日が来る」ということばとともにイスラエルの繁栄の約束が美しく描かれます。第一に、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」と描かれます。「近寄る」とは「追いつく」とも訳されることばで、原文では最初に一度だけ記されます。当地では、年に二回の雨季に合わせて耕して種を蒔くのが普通ですが、水分が豊富な土地に変わることで、刈り入れの直後に土地を耕して種を植えることができるというのです。「ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とは、ぶどうの成長があまりにも早いので、種を蒔くかたわらからぶどうの収穫がなされ、ぶどう酒をつくるための酒ぶねの中でぶどうを踏むという作業がなされるというのです。そして、「山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」とあるのは、本来、水が不足して不毛になりがちの高地でも、豊かな日照と共に、ぶどうが驚くほど豊かに育つようになるという意味です。

そして主は、「わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする」(14節) と力強く保障してくださいます。さらに、「繁栄を元どおりにする」ことの具体的な現れとして、「彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」と描かれます。これは5章11節に描かれた神のさばきの逆転です。なお、申命記28章30、33節では、神ののろいを受けた悲惨が、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない……地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである」と記されていました。それに対し、イザヤ書では「のろい」が「祝福」に変わる「新しい天と新しい地」の約束では、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない……彼らは無駄に労することもなく」と描かれています (イザヤ65:21–23)。

僕は大学卒業後に金融の世界に身を投じ、今は、牧師としての働きをしていますが、「新しい天と新しい地」での最高の働きが、農業になることは間違いありません。そのとき、改めて、母から大地を耕すことの面白さを学んでみたいと期待しております。学生時代に、世界に羽ばたくことを夢を見て、母もそれを喜び、全面的に応援してくれましたが、今、70歳になって思うのは、人生の本当の喜びは、大地を耕し、その収穫物を分かち合って、ともに創造主を喜び続けることにあるということです。

母から改めて、大地を耕して種を植える喜びを教わり、体験できることを夢見ています。