人は神のかたちに創造された —— 進化論的発想の問題

私たちの教会員の友人がとっても興味深い連続講義をしておられます。内容は、創造主による世界の創造を前提にこの世界を見ることの合理性を語ったものです。

私たちは学校教育の中で、人間がアミバーから進化したことを、科学的かのように学んでいます。そして、その枠で、創世記の物語を、おとぎ話しかのように理解することがあります。しかし、自然淘汰とか適者生存によって、現代人が生まれたという発想は極めて危険な発想を生む可能性があります。ナチスドイツやかつての日本が、様々な障害のある方を差別するようになった背景には、そのような進化論的な発想が作用しているとも言われます。

いわゆる学校で教えられている一般的な進化論は、正確な科学の視点からすると、まったく証明もされていない仮説に過ぎません。そこには、「もし創造主なる神がいないとしたら……」という無言の前提があります。多くの日本人にとってはそのような前提を持つことに何の問題も感じないことでしょうが、私たち創造主を信じる者にとっては、そのような前提は決して受け入れることができないものです。

本当は、学校教育においてアミーバーからの進化によって現在の人間ができたという教育を科学的と説明するなら、すべての教師の方々に、「もし創造主がおられないとしたら、このような仮説があり得ます」という注釈をつけてほしいと思います。

聖書は明確に、人間は、猿から進化したものではなく、神に似せて創造されたアダムの子孫でいあると語っています。私たちはそれぞれ、いろんな生きにくさを抱えており、それが社会的に「障害」と呼ばれる場合もありますが、そのようなすべての人が、かけがえのない「神のかたち」に創造された、高価で尊い存在だと言われています。

ご紹介のビデオは、学校で教えられている進化論が、驚くほど大胆な、何の証明もされていない前提の上に成り立っているということを、極めて科学的な視点から語っています。それはまさに冷静な科学の視点から、私たちが学校で習ってきた地球の誕生から生物の進化の教えが、理論の飛躍に上に成り立っているということを分かりやすく語っています。30分ぐらいのビデオですが、ぜひ時間を取ってご覧いただければ幸いです。

ただし、10回シリーズのビデオの中には、若干、他の解釈の可能性があり得る聖書解釈が登場します。個人的には、進化論 対 創造論というある種の枠組みをもって聖書を読むことはときに、危険かなと思える部分があります。

聖書は誤りのない神のことばですが、たとえば創世記の記事は今から三千数百年前の人々に向けて記されています。当時の人々は地球が丸いとか、銀河系とか、化石とか、そんな知識はありません。

ですから、現代の科学的と矛盾しないように読もうとする時点でかえって、さまざまなつまずきが出てきます。聖書を読む際には、記された当時の人々の気持ちになって、その時代に自分の身を置おいてみるということが何よりも大切です。

三千年前のイスラエルに自分が生きているということを前提に聖書を読むというのはなかなか難しいことでしょう。ただ、それを解説するために牧師がいるということもご理解ください。またさまざまな注解書もあります。

三千年前の人と現代の私たちは科学的な知識においては天地の差があります。しかし、日々の生活での悩みはほとんど変わりがありません。人がどのように生まれ、どのように死んで行くか……という人生の問いに関しても、三千年前から何も変わっていません。