最近、他の教会でのメッセージに招かれる際の二つのテーマがあります。
一つは「心が傷つきやすい人への福音」に代表される詩篇の話と、もう一つは「職場と信仰」「お金と信仰」などに代表される経済の話しです。
まったく違う分野の話をさせていただけるということは、自分のバランスを保つうえでとっても大切なことかと思わされています。
今回は、経済の話を少しさせていただきます。最近、長らく日本銀行の調査部門で働いてこられた門間一夫氏の「日本経済の見えない真実」という本を読んで、いろんな意味で目が開かれました。
「低成長と資金余剰はニューノーマル……経済成長を確実に高める方法は未発見」「政府の借金は減らせば良いというものでもない」という副題がついています。たとえば、日本の生産性が諸外国に比べて低いと僕も書いて来ましたが、2013年から18年の日本の生産性上昇率は1.0%で、米国の0.6%、ドイツの0.9%よりも高い水準であったとか……日本企業の内部留保が増えすぎていることが問題だ……と僕も書いて来ましたが、それはバランスシート上のことで、企業の現預金が極端に増えているわけではなく、海外投資などに基づく資産の増加による……とか……政府の借金が諸外国との比較で驚くべき水準であるが、民間の金融資産も驚くべき高い水準で増え続けている……とか……
本当に、僕自身もそのときの時代に論調に流されて、偏った見方をしていたということを反省させられました。この本と同時に、週刊「東洋経済」の「日銀……宴の終焉」という記事を読みながら、この10年間の黒田日銀総裁のもとでの異次元の金融緩和政策の反省に目が開かれました。
前総裁の白川氏によると、10年前は「異論を許さない『空気』が社会を支配していた」とのことです。それは1998年からの物価下落の傾向によって日本経済が失速していた原因は日本銀行の政策の問題にあるという「空気」が与野党を問わずの空気になっていた……とのことです。ですから、今、多くの批判にさらされている黒田総裁の大胆な金融緩和策を生んだのは当時の社会の空気であったとのことです。白川さんが黒田さんの政策に批判的な面があるのは周知の事実ですが、改めて10年前のデフレ脱却の時代の「空気」感が明かされているのは興味深かったです。
残念ながら、日本では、そのような経緯があったことが簡単に忘れられて、「悪いのは黒田総裁だ」という論調に流れがちなのは本当に残念です。
当時の空気感としては日銀が貨幣の発行量を増やし続けたら、デフレは収束し、2%の物価目標もすぐに達成されて、皆の消費意欲も刺激されて、日本経済は立ち直ることができる……というものがありました。しかし、10年間の実験を通して分かったことは、日銀の政策で日本経済を簡単に動かすことはできない……という当たり前の事実でした。
先の本の門間氏によると、黒田総裁のもとでの大胆な金融政策は、それが中途半端なものではなかったがゆえに、日銀の金融緩和策では物価上昇を期待通りに上げることができないということが分かったこと自体に意味がある……とのことです。簡単に言うと、徹底してやったことで、理論の間違いが明らかになったということです。ですから、多くの評論家によると、黒田さんの最大の功績は、2%物価目標が機能しないということを明らかにしてくれたこと、理論の間違いをだれの目にも明らかにしてくれたことである……ということになります。
しかし、これからが大変です。今は、日銀の国債保有額が増えすぎて、債券市場が機能不全に陥っています。あまりにも、政府や日銀の支配力が強くなっています。本来、市場が調整するべきことを、政治権力に任されるようになっています。市場では利害の異なった数多く参入することで合理的に調整されることが、政治家の思惑にって左右されることになります。
誰の目にも複雑に絡まって解決が困難なことを、「こうすれば問題が解決する」と言い切る世論の空気は恐ろしいものです。
日銀の政策を動かした空気感が10年の間に真逆になると、ごく少数の人を戦争犯罪人に祭り上げて、流れを変えて行く日本の風潮があります。
今、新型コロナ対策でも同じような空気感が支配しています。つい二年前はコロナ感染にみな戦々恐々としていたのに、今は、死者数が史上最高を更新しても、コロナを気にしすぎること自体が批判の対象になったりしています。
まもなくクリスチャン新聞福音版への毎月のメッセージを投稿することになっています。一回目は「正しすぎてはならない」ということから書き始める予定です。
正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。
なぜ自分を滅ぼすのか。
悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。
なぜ、そのときでもないのに死ぬのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。
神を恐れる者は、すべてを潜り抜ける。
伝道者の書7:16–18 私訳
私たちはこの世の不条理に心を痛めながら、さまざまな問題の解決を願います。ただそこで注意する必要があるのは、安易な解決策に飛び乗って、結果的に、その時代の空気に流されていただけということにならないことです。もちろん、問題を見ようともせずに、愚かなままでいることも滅亡への道です。自分の知恵の限界を謙虚に認めながら、誤りを修正されやすいものであることの大切さを思わされています。