イザヤ28、29章「主のことばへの渇き」

2023年1月22日

私たちは主からの使命を発見できた時、自分が神の最高傑作として創造されているということを知ることができます。そして、「生きるべき理由を知っている人は、ほとんどすべての苦難に耐えることができる」とも言われます。そして、あなたに生きる使命を個人的に教えるものこそが聖書です。

預言者イザヤの少し前に北王国イスラエルの滅亡を預言したアモスは、「主 (ヤハウェ) のことばを聞くことの飢饉」がサマリアに送られ、若い人々が主のことばへの「渇きのために衰え果てる」と預言しました (アモス8:11、13)。彼らはみことばを読めなくなったことで滅亡に向かいました。

今、聖書は簡単に手に入ります。しかし、誤った先入観や教えによって、みことばに対する「渇き」がなくされがちです。それも滅亡への道と言えましょう。

1.「まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる」

28章1節は、「ああ(わざわいだ)。エフライムの酔いどれが誇りとする冠、その栄えある麗しさはしぼんでゆく花。これは肥沃な谷の頂にあり、ぶどう酒に打たれた者たちである」と訳すことができます。四つの文節の一番目と四番目、二番目と三番目が対応します。

そして3節ではその一番目と四番目のことばが合わさるように、「足の下に踏みにじられるのは、エフライムの酔いどれが誇りとする冠」と記されます。

また4節では、二番目と三番目を合わせて、「栄えある麗しさはしぼんでゆく花となる、肥沃な谷の頂にあって」と説明されます。

要するに、北王国イスラエルの代表的な部族であるエフライムが「誇りとする冠」がアッシリア帝国によって踏みにじられ、肥沃な谷の頂にあるサマリアという町の「栄えある麗しさ」も、「しぼんでゆく花」のようになると言われているのです。

そして2節では、その厳しいさばきを下すのが主ご自身であるということが、「見よ、主のもとには激しく強いものがある。それは突き刺さり荒れ狂う雹の嵐のようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主は御手をもってこれを地に下される」と描かれます。

これは主を忘れ、人間的な国際政治の常識に従って、敵の敵は味方と考え、また強い国には媚びへつらうような態度によって自分たちの国の誇りとか美しさを保とうとすることへの警告です。

ところが不思議に5、6節では、「その日には、万軍の主 (ヤハウェ) は なられる」とまず記され、「民の残りの者にとっての輝かしい冠、栄えある花輪へと」と続き、さらに「さばきの座に着く者には、さばきの霊へと」また、「攻撃して来る者を城門で追い返す者には力とと記されます。

つまり、主はエフライムの傲慢を裁くことによって、「民の残りの者」にとって、ご自身こそが「輝かしい冠、栄えある花輪、さばきの霊、力」となられると約束しておられるのです。これは主のさばきを通して謙遜にされた者たちへの祝福の約束です。

それは、酔いどれの愚かな誇りから自由にされた者にとって、主ご自身が栄光と美、支配と力になってくださることを意味します。すべての人が求めているものの本質が主ご自身の中にあります。

7節では、「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒でよろめき、強い酒でふらつく」とまず記されながら、祭司も預言者も強い酒でよろめき、ぶどう酒で混乱し、強い酒でふらつく」と記されます。これは1節でエフライムが「酔いどれ」また「ぶどう酒に打たれた者」と描かれていたことと同じことがエルサレムの祭司や預言者たちにも起きているということを指します。

つまり、サマリアがアッシリアに滅ぼされるのと同じことがエルサレムにも起こると言われ、その責任はエルサレムの宗教指導者の酩酊にあるというのです。

9節では、それらの酔いつぶれた祭司や預言者たちが、預言者イザヤを嘲ったことばが記されています。そのことが、「彼は知識をだれに教えようとするのか……乳離れした子にか……」と言われ、イザヤのメッセージが意味の通じない幼児のことばであるかのように、「彼は言っている、『ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)、ゼエル・シャム(少しここに)、ゼエル・シャム(少しあそこに) 』と」記されています (28:10)。

つまり、宗教指導者たちがイザヤのメッセージは何の意味もない、口うるさいだけの幼児のことばであるかのように嘲っているのです。

28章11節では、彼らがイザヤのメッセージを嘲ったことに対するさばきとして、「まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる」と記されます。

その上で12節では、主がイザヤを通してエルサレムに語っておられたことの核心が、ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息があると記されます。それは、父親が子どもに優しく語りかけるような安息への招きのことばでした。しかし、「彼らは聞こうとはしなかった」(28:12) のでした。

それで、主は、彼らの理解できないことばで語られることにしたと記され、そのことばが13節に記されますが、これはかつて彼らがイザヤをあざけったという10節の意味不明のことばそのままの繰り返しです。つまり、主は聞く耳のない人へのさばきを実現するために、意味不明なことばを語られるというのです。

なお、これは当時、アッシリア人がエルサレムの住民に速やかな降伏を促した言葉としても理解することができます。アッシリアの王はそのとき「私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる」(36:16) と言っていたからです。

それはアッシリアの支配の中に「憩いと休息」を見出そうとするか、主のご支配の中に「憩いと休息」を見出そうとするかの選択を迫ることばとも解釈できます。

なお、使徒パウロはコリント人への手紙第一14章で、「御霊の賜物」としての「異言」について、未信者にとっては神の不思議に見え得ることを前提としながらも、そのメッセージが理解されないこと自体が神のさばきになるということを、このイザヤのことばを引用しながら語ります。

そこで主は「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と言われます (14:21)。なおこれは、エルサレムが異教徒の大国から攻撃を受けることを示唆した預言とも理解できます。申命記28章では、神に背いた民に対する厳しいさばきが延々と記されますが、その49節で、「主 (ヤハウェ) は遠くの地の果てから一つの国を来させ、鷲が獲物に向かって舞い降りるように、あなたを襲わせる。その話すことばをあなたが聞いたこともない国である」と記されているからです。

つまり、理解できないことばで語られること自体が神のさばきの現れとも言えるのです。それは異言で語ることで、未信者の人々を主の交わりから締め出すことにもなり得るという意味です。

ですからパウロはその直後に、異言で語ることに関して、「解き明かす者がいなければ、教会では黙っていなさい」と明確に命じます (14:28)。

このイザヤでも、主ご自身が民には理解できないことばで語られることの意味が、「これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられる(捕囚)ためである」(28:13) と記されます。

主は預言者イザヤを召された際、不思議にも「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることないように」(6:10) と言われます。

そして、それがいつまでのことかと問われたことに対し、「主 (ヤハウェ) が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで」(6:12) と言われました。その預言がこのように成就するのです。

2.「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える……これに信頼する者は……」

ところでこのときエルサレムの支配者たちは、「われわれは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」(28:15) と言ったと記されます。これは死者礼拝の盛んなエジプトとの同盟に活路を見出そうとした者たちへの猛烈な皮肉のことばです。

彼らは、「たとえ、洪水が押し寄せても、それはわれわれには届かない」(28:15) と言いながら、アッシリアからの攻撃が来ても、エジプトが対抗勢力となってくれることを期待します。

また、それに続く、「われわれは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから」という表現も彼らへの皮肉です。彼らは、エジプトが自分の利益で動くだけで、約束が「まやかし」となる可能性を分かっていたはずです。

国際政治とは、そこにある「偽り」を見抜きながら、なお相手を自分のために利用することだからです。しかし、それでも目に見えない神に信頼するより合理的だと思ったのでしょう。

それに対し、主 (アドナイ) ヤハウェは、「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない」(28:16) と言われます。これは主がご自身の約束をエルサレム神殿の礎に置かれたことを指します。

ソロモンが神殿を完成したとき、主は、ソロモンとその子孫がダビデのように歩むなら、その王座は堅く立つと言われた一方で、ほかの神々に仕え拝むなら、この宮も廃墟となるという趣旨のことを警告されました (Ⅰ列王記9:3–8)。ですから主がシオンに据えられた「石」とは、主の約束自体を指していると思われます。

ただこのギリシャ語七十人訳では、「これに信頼する」という部分が、「この方に信頼する」と訳されており、それが救い主に対する信頼へと読み替えられてゆきます。それは、預言された救い主とは、神の約束を成就する方なので、主の約束に信頼することと、主が備えた救い主に信頼することは同じ意味になるからです。

後にペテロはこの箇所から、イエス・キリストを「尊い生ける石」と呼び呼びながら、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は、決して失望させられる(直訳「恥を見る」)ことがない」と言いました (Ⅰペテロ2:6)。パウロも基本的にこれと同じように引用しています (ローマ9:33)。

つまり、エルサレムの防衛の鍵は、人間的な解決策ではなく、主 (ヤハウェ) の変わることのない約束に立ち返ることにあるのです。

それが私たちにとってはイエスに信頼する者は「恥を見ることがない」という約束になります。そのような訳こそ、イザヤが述べた「慌てふためくことがない」という意味を表しています。

その上で主は、「わたしは公正を測りなわとし、を重りとする」(28:17) と、ご自身こそがエジプトなどよりもはるかに信頼できると言われます。

そしてさらに続けて、「雹はまやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの、死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。みなぎる天罰 (28:15では「洪水」) が押し寄せると、あなたがたはそれに踏みにじられると言われます。

それは主ご自身が契約に従って、彼らに「天罰」としての「さばき」を下すので、エジプトとの同盟が何の頼りにもならないという意味を示します。彼らは真に恐れるべき方を忘れた結果として「恐怖」(28:19) に満たされます。

28章20節の「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる」という表現は、主ご自身が「ここに憩いがある……ここに休息がある」(28:12) と約束されたことを軽蔑したことへの報いです。

また、「主 (ヤハウェ) は起き上がられる。ペラツィムの山での時のように」(28:21) とは、ダビデがイスラエルの最大の敵であったペリシテ人を打ち破った記念を指します (Ⅱサムエル5:20)。

また「主は奮い立たれる。ギブオンの谷での時のように」とは、ヨシュアが南部の五王国連合と戦った際に敵を徹底的に打ち破るまで「太陽」が「ギブオンの上で動か」なくなったことを指します (ヨシュア10:12、13)。

これらは主がイスラエルに与えた勝利のシンボルが、今度はエルサレムを滅ぼす力のシンボルと変えられることを示しています。

そして、イザヤは、「だから今、あなたがたは嘲ってはならない」(28:22) と戒めながら、万軍の主 (アドナイ) ヤハウェから、「全世界に下る定められた全滅について既に啓示が与えられたと告げ知らせています。

28章23–28節の農夫の働きのたとえの基本は、農夫が種まきから収穫までを、神ご自身から教えられて (28:26)、よくわかっているのと同じように、主ご自身も計画をもって神の民イスラエルを導いておられるという意味です。

ここでの「ういきょう」(28:25) とは「イノンド」(マタイ23:23) と呼ばれることもあり、「クミン」とともにスパイスの代表で、収穫の際には大麦や小麦のように扱われることはありません。

それと同じように、これから「民の残りの者(28:5) となる小さなユダの民の集団は、北王国イスラエルのように容赦なく打ち滅ぼされる心配はないという慰めとして理解することができます。

そのことが最後に、「これもまた、万軍の主 (ヤハウェ) のもとから出ることで、その摂理は奇しく、その英知は偉大である」(28:29) と言われます。

3.「この民が口先でわたしに近づき……その心がわたしから遠く離れている」

29章最初の「ああ(わざわいだ)」という嘆きの擬音語は、28章1節と同じで、それが29章15節にも登場します。

そして「アリエル」とは、「祭壇の炉」(29:2、エゼキエル43:15) と同じ文字で、明らかにエルサレムの言いかえで、分かりやすく「ダビデが陣を敷いた都よ」と呼びかけられます。そこには主の臨在の約束と、火による主のさばきの両方の意味が込められます。

3節の「わたしは、あなたの回りに陣を敷き」とは、紀元前701年にエルサレムがアッシリアの大軍に包囲されることを示唆しますが、その背後に主 (ヤハウェ) ご自身のさばきがあったという意味です。

そのときエルサレムは壊滅寸前になりますが、そのときの状況が「あなたは低くされ、地の中から……ちりの中からつぶやく」(29:4) と描かれます。さらに「あなたの声は、死人の霊のように地の中から出て……ことばは、ちりの中からのささやく」と言われます。

これはエジプトという「死と契約を結び、よみと同盟を結んだ」エルサレムが死人と同じになることを示唆します。しかし主は、そのような瀕死の状態からの声にならない「つぶやき」や「ささやき」を聞き届けてくださいます。

29章5節では突然、エルサレム包囲軍が「細かいほこり」や「吹き飛ぶ籾殻」のように吹き飛ばされると預言され、さらに「万軍の主 (ヤハウェ) はあなたを訪れる。雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって」(29:6) と描かれます。これは主ご自身がエルサレム包囲軍の陣営を乱し、彼らを退散させることを指します。

その結果、彼らが「夢の中で」食べたり飲んだりしたように、「シオンの山に戦いを挑むすべての民の群れも」、飢えも渇きも満たされない状態にされると預言されます (29:7、8)。

ところが29章9節では突然、主のさばきが「驚き、たじろげ。目を閉ざされて盲目となれ。彼らは酔うが、ぶどう酒のせいではない。ふらつくが、強い酒のせいではない」と描かれます。これは「エフライムの酔いどれ」(28:1)、エルサレムの「祭司も預言者も強い酒でよろめき、ぶどう酒で混乱し」(28:7) と非難されたこととの対比での描写です。

そしてその理由が、「主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、預言者というあなたがたの目を閉ざし、先見者というあなたがたの頭をおおわれた(29:10) ためと描かれます。それは主のことばを無視し続けた民に対するさばきとして、彼らの霊の目を閉じられたという意味です。

そしてここではその結果が、「そのため、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった」(29:11) と描かれます。

ここでの「すべての幻」とは、イザヤ書の最初のことばが「イザヤの幻」と記され、また、イザヤがかつて「厳しい幻が私に示された」(21:2) と言ったことを受けてのことばと理解できます。これはせっかく預言者を通して与えられた「幻」がイスラエルの民にとって「封じられた書物」(29:11)、また「読み書きができない人」にとっての「書物」となったことを意味します (29:12)。

そのようになった原因を主は、「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである」(29:13) と言われます。

興味深いことに主イエスは、マタイ15章で、パリサイ人や律法学者の「言い伝え」が「神のことばを無にして」いるということを (3、6節)、「偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』」(8、9節) と言われました。

ヘブル語原文とイエスのことばのギリシャ語訳には違いがありますが、本質的には同じことが言われています。それは、それぞれの時代に宗教指導者の心の目を、主ご自身が閉じられたことの結果です。

そしてそのようになったのは、彼らが主のことばを、自分たちの立場を守るために用いるようになってしまったからでした。事実、申命記やレビ記の終わりには、すでに神の民に対するさばきが明確に記されていましたが、彼らはそれを無視した結果、イザヤから約80年後のヨシヤ王時代に律法が発見された (紀元前622年) と記されるほどまでに律法の書が閉じられた書物となっていたのです。

またイザヤの幻が理解されるようになるのは、エルサレムがバビロン帝国に滅ぼされた (紀元前586年) 後のことです。

29章15節では「ああ(わざわいだ)。主 (ヤハウェ) に自分のはかりごとを深く隠す者たち」と記されます。これは、心の底で主 (ヤハウェ) のご支配の現実を否定している見せかけの信仰者たちのことだと思われます。

その特徴は、「物を逆さに考えている」(29:16) ことです。彼らは「陶器師」である主 (ヤハウェ) を「粘土と同じにみなし」、「造られた者がそれを造った者に」、その創造のみわざを否定し、陶器の立場で陶器師の「理解力」を批判しているというのです。

これは創造主を批判するすべての人に当てはまることばです。

しかし、17節で突然、「もうしばらくすれば」すべてが逆転し、「耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗闇と闇から物を見る」と記されます (29:18)。

そのとき、柔和な者は、主 (ヤハウェ) によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。横暴な者はいなくなり、嘲る者は絶え果て、よこしまなことを企む者はみな絶ち滅ぼされる(29:19、20) ことになるのです。

陶器師なる主 (ヤハウェ) は、このように苦しみを通して神の民を練り直します。それは主ご自身が神の民のこころを内側から造りかえられるためです。

その結果、「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることもない……彼らはわたしの名を聖とし……心の迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る」(29:22–24) という真の信仰が生まれます。それはかつて主が、「深い眠りの霊を注ぎ」、宗教指導者たちの「目を閉ざ」されたことの正反対の現実です。

今、イエスは偽善の律法学者をさばかれたことによって、私たちに聖霊が注がれ、私たちも創造主を喜んで礼拝することができるようになったのです。

私たちに対しても、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(詩篇95:7、8、 ヘブル3:7、8、12、13) と警告されています。

神のことばに応答することを拒否し続けるなら、やがて主のことばが無意味な外国語のように聞こえるようになり、ついにはこの世の権力者の背後にいるサタンのことばに惑わされ、この世の脅しのことばの奴隷として生きるはめになり得るからです。

かけがえのない陶器として創造された者が、陶器師である主 (ヤハウェ) を忘れるなら、自由を味わっているように見えても、実はサタンの脅しに操られて生きる者とされています。主のみことばへの感動を思い起こし続けましょう。