日本国憲法の前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」という崇高な理想が掲げられています。
「諸国民の公正と信義に信頼して」というときに、国際連合の働きに期待するということがイメージされているとも言われます。そして、ニューヨークの国際連合本部の広場に「イザヤの壁」というモニュメントとがあります。そこには2章4節の以下のことばが大きく刻まれています。
彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない
当時の貴重な鉄で、武器を作る代わりに農機具を作るという理想です。大穀倉地帯であるウクライナにいつの日かそれが実現することが望まれます。
まさにイザヤ書は世界平和を覚える際の鍵の書です。そこでは、神の民に対する厳しいさばきの宣告から始まりますが、同時に、エルサレムが平和の都とされるという世の終わりの預言が繰り返し登場し、上記のみことばもその一つです。
聖書に記される救いの物語は、そのように主のさばきが新しい創造の希望とセットになっています。すべての苦しみは創造の誕生の場となり得ます。それは拙著「心が傷つきやす人への福音」の結論部分に記していることでもあります。
そして、私たちはその様々な苦難の中で、「私たちも主 (ヤハウェ) の光に歩もう」(イザヤ2:5) と告白するのです。
ただ、国連の働きに期待すると言っても、現実には今年2月に、常任理事国であるロシアがウクライナの政権を倒すことを目指して大胆な攻撃を始めました。一方、米国も常にどこかの国に大規模な軍隊を派遣し続けています。
ウクライナが欧米諸国の武力援助を受けてロシアを押し戻してきていますが、そこで発見されるのは、驚くほど残酷な拷問と虐殺の後です。
プーチン大統領は繰返しウクライナ人をロシア人の大切な兄弟と呼んできましたが、その兄弟にどうしてこれほど残虐なことができるのでしょう。それは、プーチン氏をはじめとするロシアの指導者たちが、自分たちがウクライナ人というよりも米国を中心とした欧米軍の圧力を受け、自衛のために戦っていると思っているからです。彼らにしたら、多くのウクライナ人は米国の退廃した無秩序な自由主義の文化的な影響を受け、彼らにそそのかされて、兄弟への戦いを仕掛けてきた⋯⋯というように解釈しています。しかし、現実には、ウクライナの人々ははるか遠い昔から、ロシアの圧政と戦い続けてきました。今も、あれほど激しく戦っているのは、歴史上、数え切れないほどの迫害や虐殺をロシア人から受けてきたという苦い記憶があるからです。
しかし、だからと言って、日本国憲法前文やイザヤ書のことばは、空虚な理想を語ってるだけとも言えません。このような平和理想が人々の間に根付いていなければ、自国の防衛のためと言いながら、どんな残虐も正当化され得る可能性があります。ただ同時に、戦争を避けるために必死にプーチンとの会談を続けてきた前ドイツ首相のメルケル氏が、「プーチンには理想は通じない、彼は力でしか動かない。だからドイツの軍事費を増加させるしかない」という趣旨のことを言ったという現実もあります。
現実を直視しながら、しかも理想を語り続け、その理想が人々の心を動かすように忍耐をもって語り続ける。それが教会の果たすべき役割です。
歴史上、多くの大国の指導者たちは疑心暗鬼になるとすぐに軍事力をつかって相手を威嚇し続けてきました。今回のロシアのウクライナ侵攻も短期間に終わるはずが、どんどん泥沼化しています。そして互いに相手をののしりながら、ますます不信が広がります。
最初から武力による解決の選択肢はないと思っていたらこうはならなかったとも思えます。それが日本国憲法の考え方です。
しかし、ロシアがウクライナを突然攻撃したようなことが起きないとも限りません。日本は絶対に戦争を避けようとしていても、外国の侵入してきたときに、戦わざるを得ない現実があるかもしれません。ある人が、「戦争は絶対に避けたい。でも、今のウクライナ人は、戦わなければ国が亡くなってしまう⋯⋯」と簡潔に言っていました。
平和の理想を掲げながら、同時に、現実の攻撃や脅威に対処する必要があります。その際、違った見解を持つ人をののしるのではなく、互いにとっての理想と現実のギャップを埋める知恵と努力が何よりも必要でしょう。