「平和を求めよ」〜詩篇34篇 

詩篇34篇12–14節は新約聖書にも何度も引用される有名な詩篇です

だれでも、いのちを喜び、

幸いな日々が続くのを望むなら、

舌に悪口を言わせず、

唇に欺きを語らせず、

悪を離れ、善を行い、

平和を求め、追い続けよ。

主 (ヤハウェ) の目は正しい人を顧み、

その耳は彼らの叫びに傾けられる。

主 (ヤハウェ) の 御顔は悪をなす者に立ち向かい、

彼らの記憶を地から消し去る。

明日は終戦記念日ですから、「平和を求め、追い続けよ」ということばに特に目を留めたいと思います。

今年の3月に、北海道の施設にいる母から、「ロシアが怖い」と電話がかかってきました。若干、痴呆気味になっていますので、「すぐには攻めてくることがないから大丈夫と慰めましたが、最近は、ひょとしたら自分の方がロシアの怖さを分かっていなかったのかと思わされました。

日本が二つ目の原爆を長崎に落とされた日、スターリンが支配するソ連(ロシア)は満州を支配する日本に攻撃を仕掛けてきました。それは米国との密約によるものでしたが、その際、スターリンは北海道の北半分の割譲まで、正式に要求していたとのことです。

8月15日には天皇の玉音放送が流れ、日本の全軍に戦闘行為を止めるようにとの命令が下されましたが、ソ連(ロシア)はそれを無視して、北海道の占領に向けて全軍を動かし続けていました。8月18日になり、ソ連軍は南樺太(サハリン南部)に激しい攻撃をしかけてきました。それは北海道上陸の拠点を作るためでした。その地を守っていた樋口中将は、スターリンの意図を以前から知っていたため、独自の判断で、全軍に徹底抗戦を呼びかけ、ソ連軍を撃退することができました。そのときには、すでに、ソ連軍の二個師団に北海道の上陸命令が下っていましたが、南樺太の速やかな占領に失敗したソ連軍は、米国のマッカーサーの停戦要
求に従わざるを得なくなります。しかしその後もソ連軍は各地で小さな戦闘を続け、現在の北方領土まで占領し、9月5日になってようやく進出を止めます。

実は、米国のルーズベルト大統領とソ連のスターリンの間に、第二大戦後の対決を予想した激しい駆け引きがなされていたのです。こんなことは決して言いたくはないですが、原爆投下がなかったなら、北海道がロシアの支配下に今も入っていたかもしれません。もちろん、原爆投下を見て、日本のポツダム宣言受諾を見越してソ連が急いで参戦してきたという面もあります。ソ連の侵攻が、長崎に原爆が落とされた日であることは偶然ではありません。日本は、米国による原爆投下と、ソ連の北海道占領計画の二つの野蛮な攻撃下に置かれていました。今はある意味で常識的な見解になっていますが、米国が二個の異なった原爆を落とした理由は、人体実験以外の何ものでもありませんでした。

ただ、そのような中でも、自分の身の危険をも顧みずに、なすべき責任を果たしてきた人々によって、現在の日本の平和があります。

北海道防衛のために独自の判断で軍隊を動かし続けた樋口中将は、昔、ドイツによるユダヤ人迫害の動きを自分の目で見ていた人でした。1938年に多くのユダヤ人が満州に助けを求めて入ってきました。樋口氏は自分の判断で緊急的な対応としてそのユダヤ人たちを助けます。やがてドイツから抗議が届き、樋口氏は当時の満州の参謀長だった東条英機の詰問を受けます。樋口氏は、ドイツの顔色を伺って、この大変な状況の中にあるユダヤ人を見捨てることは正しいこととは思えないという趣旨で、厳しく言い返し、東条英機もその気概に圧倒されたようです。とにかく、そのときから満州鉄道を使ってのユダヤ人を上海まで送る樋口ルー
トと言うのが開設され、約二万人ものユダヤ人がそのルートを使って逃げることができました。

樋口中将は、ソ連から憎まれていましたから戦後の軍事裁判の戦犯とされそうになりますが、多くのユダヤ人の必死の嘆願に、米国が動かされて、彼は小樽に近い地で平和な晩年を過ごすことができました。

いつの時代にも、薄氷を踏みような思いで信念を貫く人々がいます。野蛮な行為をする人の傍らで、そのように自分の身を犠牲にしてでも平和を広げようとする人がいます。

先の詩篇には

悪を離れ、善を行い、

平和を求め、追い続けよ。

主 (ヤハウェ) の目は正しい人を顧み、

その耳は彼らの叫びに傾けられる。

主 (ヤハウェ) の 御顔は悪をなす者に立ち向かい、

彼らの記憶を地から消し去る。

と記されています。

創造主は今も、一人の誠実な生き方を求め、それに報いてくださいます。