私たちの人生に中には、ときに「何でこんなことになるのか……」と、泣きたくなるようなことが起きます。しかし、それはしばしば、振り返って見ると、神が示してくださった方向転換のときとなってはいないでしょうか。それがクリスチャンの場合は、「みこころだと思って従ったのに……」という解釈に結び付くと、複雑骨折の信仰的な挫折につながる場合があります。しかしそのようなときに密かに、皮肉ですが、「神があなたに天からどんなみこころを指示したというのでしょう……」と、ときに言いたくなるようなこともあります。
ただ一方で、どのような悲劇も、「神の御許しがなければ起きていない」ということも大切な霊的な事実で(マタイ10:29参照)、神はそこから「新しい創造」を見せてくださいます。それが当教会のヴィジョンの「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」ということにつながります。しかも、そこで私たちが待ち望むシャローム(平和、平安、繁栄)とは、あなた個人のこと以前に、あなたが所属する共同体全体のシャロームにつながるということを覚えたいと思います。しかし、それらは、毎日、必死に手探りで進む中から、振り返って見て初めてわかることです。「みこころ(神の望み、ご意思)」は事前にはわかってはいけないことなのかと思います。神の摂理の御手というのは、危機的状況の中で初めてわかることと言えましょう。
1.「だれでもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと、王が……命じていた」
エステル記の最初は、「クセルクセスの時代」という書き出しで始まります(この名はギリシャ語名でヘブル語ではアハシュエロス)。これは紀元前486年から465年にかけてのときを指します。これは、イスラエルにおいては紀元前516年のエルサレム神殿の再建と紀元前458年のエズラによる信仰復興運動の間の出来事です。世界史的には安定期に入ったペルシア帝国と新興国として勢力を増し加えていたギリシャの都市国家連合との紀元前500年から479年まで続くペルシア戦争の後半部分に相当します。歴史教科書には、紀元前480年にペルシア王クセルクセスがギリシャに親征してサラミスの海戦に敗北して退却の後、プラテーエの戦いで大敗北したと描かれます。ただそれでも当時のペルシア帝国の支配は現在のギリシャ北東部からエジプト南部のエチオピア、さらにインダス川流域にまで及んでいました (1:1)。
そして「スサの城」(1:2) とはペルシアの首都、「第三年」とは紀元前483年のことで三年後のギリシャ遠征の準備のために王の権威を示す大宴会を開いたということだと思われます。その様子が「それにはペルシアとメディヤの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ」(1:3、4) と記されます。さらに「その期間が終わると、王は、スサの城にいた身分の高い者から低い者に至るまでのすべての民のために、七日間、王宮の園の庭で宴会を催した」(1:5) と描かれますが、これはこの酒宴のクライマックスのときを意味します。
その上で、6節にはそこにある調度品の豪華さが描かれ、続いて「金の杯で酒がふるまわれたが、その杯は一つ一つの種類が違っていた。王室のぶどう酒は、王にふさわしく豊かにあった」(1:7) と王の勢力と権力が強調されながら、「しかし飲酒は、『強要しないこと』という法に従っていた。だれでもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと、王が宮殿のすべての長に命じていたから」(1:8) と特別に記されます。ここで、王は各自に自由を保障することによって自分の権威を示そうとしています。ただ自由には代価があり、主体的に行動するという責任をどう果たすかで、その資質が試されているとも言えます。
それと並行して、「王妃ワシュティも、クセルクセス王の王宮で婦人たちのために宴会を催した」(1:9) と描かれます。王妃も自分の権力を誇り、自由を満喫していたことでしょう。しかし、人は強い力には屈服する一方、自由が保障されると急に自己主張をすることがあります。王妃はもっと、王の気持ちに寄り添って、王がなぜこのとき、「それぞれ自分の思いのままに」などという命令を出しているかの真意を推察すべきでしょう。多くの人々は、自分をすぐに被害者か反抗者の立場に置こうとしますが、それこそが奴隷根性と呼ばれます。自分自身が主体的に考え、その姿勢から、自分の上に立つ者の気持ちになって、上に立つ者の不安にまで思いを向けることができるなら、組織はずっとよく機能することでしょう。
2.「今日にでも……並々ならぬ軽蔑と怒りが起こることでしょう」
1章10節から話が急展開します。そこでまず、「七日目に、クセルクセス王はぶどう酒で心が陽気になり……七人の宦官……に命じて、王妃ワシュティに王冠をかぶらせて、王の前に連れて来るようにと言った。彼女の容姿がすばらしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった」と描かれます。ところが何と、「しかし、王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった」というのです。そこで「そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」と描かれます。
王妃は自分が見世物のように扱われることに屈辱を感じたのでしょうが、彼女の何よりの問題は、王が自分に特別待遇を与えてくれていたことを当然のように思ってしまい、王の心の奥底にある不安に思いが至らなくなったことにありましょう。多くの人は恵みを受ければ受けるほど、それを既得権益かのように誤解する傾向があるからです。たとえば、最初は、「お声をかけてもらっただけで感謝!」と言っていた人が、「あの人は自分のために時間を作ってくれない」と不満を持つようになるということがよくあります。
一方、王が「激しく怒り……」ということも、当時の国際情勢を考えれば推測できます。当時のペルシア帝国は繁栄を極めていましたが、紀元前490年の でアテネを中心としたギリシャ都市国家連合軍にまさかの敗北を喫します。その戦勝報告の走者が現在のマラソンの起源となっています。それを契機にエジプトで反乱が起り、その制圧に苦労している紀元前486年、クセルクセスが33歳で王になります。彼の母はキュロス王の娘で、長身の美しい貴公子であったと言われますが、国の権威にほころびが見え始めていたときの即位でした。王は自分の権威で国をまとめようと必死だったことでしょう。
ところが、王妃は七人の宦官を通して伝えられた王命を、公然と拒否したというのです。たとえ王の命令が気まぐれから発せられたものであっても、それが公になってしまったなら、それに逆らうことは王の権威を著しく傷つけることになります。王妃は、小さなプライドに囚われて、王権のシステムを理解することができていませんでした。王がふだんから目をかけてくれていることを当然のことにように思い、自分の地位が、国の中でどのような意味を持っているかと言うことに思いが至っていませんでした。
その後の展開が1章13節から、「そこで王は時を熟知している、知恵のある者たちに言った」と記されます。彼らは、「ペルシアとメディヤの七人の首長たち」で、「王の面前に控えながら」王の相談に載っていました (1:14)。そして、王の問いの内容が、「王妃ワシュティは、宦官によって伝えられたクセルクセス王の命令に従わなかった。法令にしたがって、彼女をどう処分すべきか」(1:15) と記されます。
それに対し、七人の名の最後に記されていた「メムカン」は、「王と首長たちの前で」、「王妃ワシュティは王一人だけではなく、王のすべての州の全首長と全住民にも悪いことをしました」と、彼女の行動が王国の秩序に関わると指摘しました。さらにその理由を、「王妃のことが女たちみなに知れ渡り、『クセルクセス王が王妃ワシュティに、王の前に来るようにと命じたのに、来なかった』と言って、女たちは自分の夫を軽く見るようになるでしょう。今日にでも……首長の夫人たちは、王のすべての首長たちにこのことを言って、並々ならぬ軽蔑と怒りが起こることでしょう」(1:17、18) と言いました。
現代の人々は、「女たちは自分の夫を軽く見るようになる」などという理屈に納得できないかと思います。しかし、「時を熟知している」(1:13) 者であるならば、ペルシアとメディヤの首長の立場にいながら、公然と、「王の権威にほころびが出てきているときだから、厳しく対処する方が良いでしょう」などとは言えません。昔から、重要なことは言外に表現されます。夫が軽く見られてはならないという話は、当時の男性たちの間では非常に納得しやすい話で、当時の政治情勢を知っている人はすぐに、ペルシア王の権威が侮られ、国の統一にほころびが生まれてはならないという危機感として理解できたことでしょう。
それでメムカンは19節で、「もし王がおよろしければ、ワシュティはクセルクセス王の前に出てはならない、という勅令をご自身でお出しになり……変更することのないようにされてはいかがでしょうか。王妃の位は、彼女よりももっとすぐれた者にお授けください」という提案をします。そして、その意味が、「王が出される詔勅がこの大きな王国の隅々まで告げ知らされれば、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を敬うようになるでしょう」(1:20) と説明されます。ここでの「自分の夫を敬うようになる」という言葉の背後には、今後、王から公に発せられる命令の権威が尊重されるという思いが込められているように思われます。「一家の主人」(1:22) の権威と、王の権威には連続性があるからです。
3.「この娘は、ヘガイの心にかない、彼の好意(ヘセド:誠実)を得た」
2章では、「この出来事の後、クセルクセス王の憤りが収まると、王はワシュティ……について決められたことを思い出した」と記されます。そしてその後の展開が、「王の侍従たち」の提案として、「王のために容姿の美しい未婚の娘たちを探しましょう……王国のすべての州」から、「容姿の美しい未婚の娘たちをみな、スサの城の後宮に集めて……王のお心にかなう娘を、ワシュティの代わりに王妃としてください」と描かれ (2:2–4)、王命によってペルシア国内の美女たちが後宮に集められることになります。
そして突然ここに、「スサの城に一人のユダヤ人がいて、その名をモルデカイといった。この人はヤイルの子で……シムイの子……ベニヤミン人キシュの子であった」(2:5) という一人のユダヤ人が紹介されます。モルデカイとはバビロンの神マルドゥークに由来するペルシア名です。また「ベニヤミン人キシュ」とは、イスラエル王国最初の王サウルの父の名です。なお、6節初めの原文では「彼」で、モルデカイを指すと考えた方が自然で、「彼は、ユダの王エコンヤと一緒に捕らえ移された捕囚の民とともに、エルサレムから捕らえ移された者であった」と訳すことができます。ただその場合、彼は113歳以上のはずで、不自然になります。どちらにしても彼の先祖はサウル王家につながり、彼もバビロン王室で厚遇を受けていたエコンヤと一緒にいた貴族だということです。なお、ネヘミヤやエズラの例にもあるように、ペルシア帝国の中でそれなりの地位を得ていた多くのユダヤ人とその親族は、エルサレム帰還が許されても、なおペルシア帝国内に留まっていました。まさに、「住めば都」という感じになっていたのだと思われます。
そして、7節ではエステルの名が初めて登場しますが、これはペルシアの名で「星」を意味します。そこでは、「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔だちも良かった(ドーブ)。モルデカイは、彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた」と二人の関係が詳細に描かれます。その上で、エステルが王宮に招き入れられる経緯が、「王の命令……が伝えられて、多くの娘たちがスサの城に集められ、ヘガイの管理のもとに置かれたとき、エステルも王宮に連れて行かれて、女たちの監督官ヘガイの管理のもとに置かれた」(2:8) と記されます。本来、ユダヤ人でありながら、異教徒の王の「側女(そばめ)」とされるというのは不名誉なこと、また律法に反することとも考えられますが、ペルシアの首都に住んでいる娘が王命に背くことなどできません。彼女は、避けられない運命ならば、それを積極的に受け止めようとしたのではないでしょうか。その結果が、「この娘は、ヘガイの心にかない、彼の好意(ヘセド:慈愛、誠実)を得た。そこで、彼は急いで化粧品とごちそうを彼女に与え、また王宮から選ばれた七人の侍女を彼女に付けた。またヘガイは彼女とその侍女たちを、後宮の最も良いどころに移した」(2:9) と記されます。
私たちは今、職業選択や結婚の自由があるのは当然と思っていますが、これが保障されたのは歴史上ごく最近のことです。しかも人生は自分で選ぶことができると思うことから、かえって様々な悩みが生まれてはいないでしょうか。私は自分の就職を入社三日目で、「みこころを読み間違えた」と後悔してしまいました。しかし、今振り返って見ると、あのときの様々な条件を考える時、それが最善の選択だったと心から思えます。人によっては「何で私はこんな家に生まれたのか……」などと悩みますが、自分の人生の中の最も核心的な部分は、すべて自分で選ぶことができない要素から成り立っています。そこに現れる根本的な違いとは、それを積極的に受け止めるか、恥じながら生きるかという違いとも言えましょう。
4.「こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた」
ただ、そこで知恵が求められる部分があります。ユダヤ人は当時のペルシア帝国の中では奇異な目で見られ、誤解を受けがちでした。それはあらゆる偶像礼拝を拒絶し、目に見えない神だけを拝むという生き方を貫こうとすることへの必然的な反感と言えましょう。それに対する対応が、「エステルは自分の民族も、自分の生まれも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはいけないと彼女に命じておいたからである。モルデカイは毎日、後宮の庭の前を行き来し、エステルの安否と、彼女がどうされるかを知ろうとしていた」(2:10、11) と記されます。モルデカイは、エステルを養育するという自分のおじに対する約束を、ここに至っても守ろうと必死でした。彼はエステルが自分のもとから連れ去れられるとき心を痛めたことでしょう。しかし、彼は無駄な抵抗をする代わりに、その状況を受け入れ、エステルにもその中で賢く生きることを勧めると同時に、自分自身もできる範囲でエステルの安否を確かめ続けようと必死でした。
2章12~14節には当時の王宮で、娘たちが一年間の準備期間を経て「王のところに入って行く」ためのしきたりやその後のことが記されます。一度、王のところに入っていった女でも、「王が気に入って指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった」という厳しいおきてがありました。王の側女となった者たちは、自分では何の主体的な行動をとることもできません。王から声がかかるのをじっと待つしかなかったのです。エステルは自分の意に反して、奴隷よりも自由のない立場に身を置きました。私たちは彼女のその後の成功を見る前に、この時期の不安や葛藤をこそ思い巡らすべきでしょう。
15節では、「さて……エステルが、王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である、王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意(ヘン:恩寵)を受けていた」と記されます。彼女は不自由な立場に身を置きながらも、その状況を積極的に受け入れ、宦官ヘガイへの信頼を態度で表現して、彼の好意を得ることができました。なお、人は誰でも、人から好意を持たれたいと願うものですが、そのために最も大切なことは、まず、自分自身の出生や体形、気質、置かれた環境など、自分で変えることができないことをまず積極的に受け止める必要があります。自分を嫌っていながら、人から気に入ってもらおうなどというのは無理な要求です。まず自分自身を受け入れることこそ、人間関係を豊かに保つ最大の秘訣と言えましょう。
16節では、「エステルが王宮のクセルクセス王のもとに召し入れられたのは、王の治世の第七年の第十の月……であった」と記されます。これは紀元前479年1月、王が自らギリシャに遠征してサラミス海戦で敗北し失意のうちに帰国した直後かと思われます。王はエステルによって大きな慰めを受けたことでしょう。そのことが、「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意(ヘン:恩寵)と寵愛(ヘセド:慈愛、誠実)を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。それから、王はすべての首長と家臣たちのために大宴会、すなわちエステルの宴会を催した。諸州には免税を布告し、王にふさわしい贈り物を配った」と描かれます (2:17、18)。このとき王は、国をまとめるためにも自分の勢力を誇る必要がありました。そして、エステルはその従順さと美しさによって王を慰め、王の気持ちに寄り添って王権を支えることに協力できたのではないでしょうか。
エステル記をペルシアとギリシャとの戦争という歴史的な文脈の中で読むときに、興味深いことが見えてきます。私たちの人生にも、緊張を強いられる戦いの日々があります。そのような中で自分を被害者的な立場か、あるいは権力者の気持ちに寄り添う立場に置くかで、人生はまったく違って来るでしょう。そこで大切なのは、「変えられないことを受け入れる平静な心、変えられることを変えてゆく勇気、ふたつのものを見分ける賢さ」です。ただしその平静な心 (Serenity) とは、その時々に神から与えられる賜物と言えます。自分の心がパニックに弱いことを嘆く人は、さらに自分をパニックに追いやってしまいます。
何よりも大切なのは、心が様々なことに敏感に反応し、不安定になってしまう自分の感性や心のあり方を恥じることなく、神と人とに誠実(ヘセド)を尽くすことに心を集中することです。人は誰でも、目の前に働きに心を集中することで初めて自分を忘れることができます。そのように行動するときに、結果的に、他の人の誠実(ヘセド:好意的)な対応を受け、すべてのときが神の摂理の御手の中にあったと安心できます。「平静な心」とは「不安」を通してこそ体験でき、また神の摂理の御手はパニックを通してこそ体験できるとも言えます。ですから、目の前の責任を回避せず、真正面から向き合いましょう。先の見通しが全くつかないと思えるような中でも、主を呼び求めるとき、主があなたのために「道を造って」くださいます。