衆議院議員選挙で心が騒ぐ毎日ですが、いかがお過ごしでしょう。なかなか私たちの理想に合致する政党がなくて困る……というのが多くの方々の感想かと思います。しかし、投票に行かなければ、結果的に、自分が一番嫌う政党を応援することにつながりかねませんから、ともに祈って行きたいと思います。今、月に一度程度参加している、「キリスト教と公共性研究会」というのがあり、昨日はそこで、信仰義認の教えを巡って小生がレポートしました。その結論部分だけでもお分かちさせていただければ幸いです。
「神のさばき」を福音として受け止めながら、
この世の矛盾の中で生きる
多くの日本の福音的な教会は米国の信仰覚醒運動の影響を受けています。たとえば は1741年に「Sinners in the Hands of an Angry God(怒る神の御手の中にある罪人たち)」という説教をしました。そこで彼は、「すべての者は神の怒りを受けるべく地獄の上に宙吊りになっているのであり、回心しないなら地獄に落ちる。キリストを信じて、神の怒りから、迫り来る滅びから、逃れなければならない」と説き、米国での大覚醒(リバイバル)運動を指導しました。同じように今も、神の最後の審判でのさばきを語りながら、イエスを救い主として信じることで、そのさばきを免れ、永遠のいのちが保障されるというストーリーで福音が語られがちです。しかし、最近は、そのような福音の提示の仕方がかえって人々の混乱を招くという反省が生まれてきています。このジョナサン・エドワーズの説教は次の で紹介されています。
彼は神の怒りのさばきを説くときに、最初に申命記32章5節の「復讐と報復はわたしのもの……彼らのわざわいの日は近く、来たるべき時が速やかに来る」というみことばを引用しました。しかし、使徒パウロはローマ人への手紙12章19、20節以降では、「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」と言いながらこのことばを引用し、その上で「もしあなたの敵が飢えたなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むのだから」と勧めています。つまり、パウロが理解した申命記の文脈は、神がご自身の敵に報復されるから、諦めることなく神が勧める隣人愛に励みなさいということなのです。
またエドワーズは続けて、詩篇73篇18、19節の「確かにあなたは彼らを滑りやすい所に置いておられ、彼らを滅びに突き落とされます。ああ 彼らは瞬間に滅ぼされ、突然の恐怖で滅び失せることになります。」とのみことばを引用していますが、この文脈も、その前の2、3節の、「しかし、この私は 足がつまずきそうで、歩みも流され(滑り)かけていた。それは私が誇り高ぶる者をねたんだからだ。悪しき者たちの繁栄(シャローム)をそのとき私は見ていた」という疑問から始まっています。ですから、これも文脈的には、この世の不条理を見て、神の前に誠実に生きることが馬鹿らしく思えてきたという疑問に対する答えとして記されています。
確かにエドワーズが引用したみことばは、罪人に回心を迫るために引用することは間違ってはいませんが、そこに記されているストーリーは、神がご自分の敵に時が来たら正しく報復してくださるので、あなたは目に見える結果に一喜一憂することなく、神に信頼して、神の義に倣う生き方をしなさいということになります。聖書のストーリーでは、「神のさばき」は信仰者への励ましとして記されていることを忘れてはなりません。
本来、パウロの文脈では、イエスを救い主として信じて義と認められるという「信仰義認」の教えは、神を忘れていた民、また神に逆らっていた民が、キリストの犠牲によって神と和解させられて、神の民として歩むための出発点を意味します。それは、その人の人生を百八十度変える決定的な出来事ではありますが、信仰に導かれた者が、「私の救いは確かだろうか、私は救いへと選ばれているのだろうか?」と疑問を持つ際の答えとして記されているものではありません。神の選びを本来の趣旨から離れて詮索すると信仰の落とし穴にはまります。パウロが描くストーリーは、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1) と宣言しながら、「キリストとともに苦しむことで、ともに栄光を受けよう」と励まし (8:17)、さらに「被造物のすべて」が「ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」ことに合わせて、最終的な「救い」を待ち望みつつ、御霊の初穂を受けた者として、「ともにうめく」ということなのです。そのために私たちは今、この被造世界の「うめき」に心の耳を傾ける必要があります。
私は自分の強迫神経症的な傾向、また、HSP(highly sensitive person)的な傾向のゆえに、「うめいて」きました。しかし、それは似たような生き難さを抱える人と、「ともにうめき」、ともに救いを待ち望むために「窓」として用いられています。それは、ヘンリ・ナウエンが「傷ついた癒し人」で語っている生き方に倣うことでもあります。
また、私は野村證券での証券営業で良心の葛藤に悩む時期がありました。それは個人顧客を株で大損させたことばかりか、本社の営業キャンペーンに駆り立てられてドイツの機関投資家に結果的に大きな損をもたらしたことも含みます。つい先日も、40年近く前のドイツの保険会社の担当者の顔が浮かび、夢でうなされてしまったほどです。「もっと身体を張って、会社の方針に抵抗できていたら……」と夢の中で自問自答していました。
私たちは互いの利害がぶつかり合い、互いに騙し合ってしまうような市場経済の中に生かされています。そのような中で、そのようなお金を偶像としてしまう市場経済を批判し、そのシステムを否定することは簡単です。しかし、人類はそれに代わるシステムを開発できていません。それは自分の利益を求めることを正当化することと、思想信条の自由の保障が切り離せない関係にあるからです。つまり、個々人が自分にとって大切と思われることに自由に情熱を傾けられることを保証するシステムが市場経済でもあるからです。
今、世界経済で圧倒的な力を振るっているGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)だって、実質的には約20年前に市場経済の中に登場してきたような新興企業に過ぎません。多くの人々は、それらの企業の開発力に助けられて、このコロナの中でも、互いの意思疎通を図ることができています。しかしこのような時代の急速な変化は、二十年後にはまったく異なった企業群が市場をリードする可能性が高いということを意味します。そこにあなたの熱い思いが生かされる可能性だってゼロではありません。ただ、現在、日本のどの政党も一様に、新自由主義的な政策を批判するようになっていますが、自由な経済活動を保証することは、貧富の格差を生み出すことと表裏一体の関係にあります。それは市場経済を尊重するときの必然的な副産物です。しかし、それを否定することは、個々人の自由を制限することにつながります。
聖書の世界では、七年毎の債務免除とか、五十年に一度のヨベル(解放)の年の教えによって、貧富の格差が次の世代に続くことを是正するシステムが提案されています。まさに、現在のどの政党でも強調している「所得の再分配」こそが政治の使命なのです。ただそこでは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という矛盾が必ず生まれます。私たちはそのような矛盾のただ中に身を置いて、置かれている場での働きを全否定することなく、一歩でも二歩でも改善できる方向を「うめきながら」模索する必要があります。それこそが、イエス様が私たちをこの地に遣わしてくださることの意味ではないでしょうか。使徒パウロは次のように記しています
御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちはこの望みとともに救われたのです。
ローマ8:23、24
神の救いは、この世の不条理の中での、聖霊の導きによる「うめき」として表現されています。