天皇家の結婚〜詩篇2篇

—— 今ここにある「神の国」について ——

昨日は皇嗣こうし家のご長女の結婚に関しての報道に多くの国民の心が釘付けになっていたことと思います。選挙日程を考える際に、このタイミングも考慮されたと公に報道されていたほどでした。

私たちクリスチャンやキリスト教の伝統を持つ国々から見たら、なぜこの結婚がこれほど大きな話題になるのか、理解に苦しむことと思います。

しかし、これは日本という国を理解する、良いきっかけにもなったのかと思います。昔、森元総理大臣が、「日本は天皇を中心とした神の国である」と発言し、物議をかもしたことがありました。その発言は、後に否定されたのかと思いますが、実は、このことばこそが、多くの日本人の心の奥底に、無意識のうちに根付いている考え方なのかもしれません。

何しろ、天皇家の由来は、太陽神と呼ばれる天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫であるニニギノミコトが天から地に降ったことからはじまるからです。そしてそのまた子孫として、神武天皇が誕生します。宮崎県には神武天皇の誕生の地に壮麗な神社が建っています。

そして、天皇を神として敬う伝統も、それとともにあります。日本語の伝統では、天皇を神と呼ぶのは、極めて自然な発想とも言えます。なぜなら、日本語の神ということばには、本来、聖書の神のような意味はなく、「恐れ敬うべき存在、世の普通の人の次元を超えた存在」という意味しかないからです。

多くの神学者が、聖書の創造主を、日本語の「神」ということばに翻訳したことこそが、日本の第二次大戦を初めとする様々なわざわいの原因であるとさえ言っています。

今回の結婚が問題になったのは、人々の日常から超えた存在である天皇家あるいは皇嗣家の長女が、金銭トラブルを抱えているという極めてこの世的なレベルの人と結婚するということが、この世の次元を超越すべき天皇家の威信を傷つけるということにあります。今回のことは、伝統的な天皇観を保持する人には耐え難い冒涜と見えたのでしょう。

しかし、今回のことで明らかになったように、天皇家の人々も、私たちと全く同じ次元の人々で、彼らに神的な立場を期待することは、彼らの人間としての尊厳、またそのかけがえのない心を傷つけることになるということです。簡単に言うと、人間であることと、皇族であることには、日本の価値観から見たら齟齬が生まれるのは当然ということになります。

今回の出来事は、いわば、天皇家の非神話化にとっても良い影響力を発揮したとも言えましょう。

詩篇2篇に創造主がご自身の御子にかたりかけることばが次のように記されています。

わたしが わたしの王を立てたのだ。
わたしの聖なる山 シオンに
……
あなたはわたしの子
……
わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
地の果てまで あなたの所有として (6–8節)

詩篇2篇が語るのは、私たちの罪を負って十字架にかかり、三日目によみがえられたイエス・キリストこそが、真の神の御子であり、この目に見える世界は、復活したイエスのご支配の中にあるということです。

この日本の私たちも、イエスが始めた「神の国」の民であるということです。しかし、多くの異教徒の方々にとって、この日本の真の王がイエスであるということは受け入れ難いことです。それは信仰の自由の領域ですから、私たちに彼らをバカにする権利はありません。今、エズラ記を読みながら、イスラエルの神ヤハウェは異教徒の王キュロスの心を動かして、エルサレム神殿の再建を導くというストーリーを見ています。

そこでペルシアの王が、エルサレム神殿を再建させる理由を、「こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ」という記述があります(エズラ6:10)。

これを異教社会日本に生きる私たちキリスト者に当てはめると、私たちは天皇を中心とした日本の社会システムを批判する前に、彼らの繫栄のために祈る必要があるということです。

日本の様々な神話を言葉を用いて否定するのではなく、キリストによって始まった神の国の福音の中に生きることができるよう、真の神に祈ることを教え、助けることこそが伝道の本質です。

この世界は、イエス・キリストの支配の中に既にあります。それは私たちが互いのため、また日本の指導者たちのために祈ることによってしか明らかにされません。

今後も日本の平和、平安、繁栄というシャロームのためにお祈りして行きたいと思います。