詩篇27篇の黙想

主 (ヤハウェ) は、私の光、また救い。 だれを恐れることがあろう

主 (ヤハウェ) は、私の いのちの とりで。 だれにおびえることがあろう
……

一つのことを 私は主 (ヤハウェ) に願った。

それを 私は慕い求めている。

私のいのちの日の限り、主 (ヤハウェ) の家に住み、

主 (ヤハウェ) の麗しさを見つめ、その宮で、深く静まることを。

それは、悩みの日に、主(彼)が私を隠れ場に隠してくださるから、

幕屋の奥深くにかくまい、また、岩の上に上げてくださるからだ。
……

聞いてください!主 (ヤハウェ) よ。 呼んでいるこの声を。

私をあわれみ、答えてください。

「わたしの顔を、慕い求めよ」とのあなたのことばを、この心はささやく。

あなたの御顔を、主 (ヤハウェ) よ。 私は慕い求めます。

先日も書きましたように、最近、改めて自分の傷つきやすさとか、自分の中にある敏感さに気づくようになってきました。

自分を振りかえってみると、そのような自分の傾向を、自分で気づきながら、正直に認めてこなかったことを反省させられました。

ただ、私が詩篇の祈りに魅せられるのは、まさにそのような感性から生まれています。

今から、32年余り前、神学校卒業とともに、サポートしてくださった方々へのお礼もかねて、ヨーロッパの日本語教会を訪ねました。

そこで、合間を縫って、南フランスにある を訪ねました。

テゼ共同体はカルヴァン派の教会で按手礼を受けていた が始めた超教派の男性修道院でした。彼はカトリックとプロテスタントの信者どうしが仲良くできる共同体を目指しました。しかし、第二次大戦が始まり、多くのユダヤ人がドイツ軍に連行されたとき、ユダヤ人を必死に匿いました。一方、戦後は、今度は、フランス人から迫害を受けるドイツ人を必死に匿いました。

現在、テゼ共同体には世界中から多くの若者が集まり、ともに主を賛美し、主にある和解を体験し、それぞれの地に帰って行きます。

僕は32年前、たった二日間しかそこに滞在できませんでしたが、そこで消えることのない感動を味わいました。

ただ同じことばの繰り返して賛美している中で、イエスご自身が、「ここにとどまって、わたしとともに目覚めて、ともに祈っていなさい」と語りかけてくださっているように感じました。

その頃はお元気であられたブラザー・ロジェと短い挨拶を交わすこともできました。ほんとうに麗しく優しい笑顔でした。

そこで僕は祈りの椅子をわざわざ買って帰ってきました(笑い)。でもそのたびにそこでの感動を思い起すことができます。

それから12年後 今度は、スイスの南にあるラサという村で、家内とともに約10日間の静まりのセミナーに参加できました。

それまで僕は、主の御前に静まることに憧れていても、自分の混乱した思いが噴き出すのが怖くて静まることができていませんでした。

この詩篇27篇とは正反対に、主が「私の光、私のいのちの砦である」と、自分に言い聞かせていても、心の底にある恐れやおびえが気になってたまらなかったのです。

僕は神学校時代から、神学論議が大好きでした。他人の神学的な誤りを指摘することに生きがいを感じていたほどです。まさに「プロテスト(抗議)」から生まれたプロテスタント神学の最前線を行っていたのかもしれません(笑い)。しかし、その心の奥底に「恐れ」と「おびえ」があったように思います。

ところが、そのラサでの黙想の中で、主ご自身がそんな混乱した心をもった自分自身を受け入れ、喜び、期待してくださっていることが分かりました。

それはまさに「主の麗しさを見つめ、その宮で、深く静まる」と言う体験でした。

そして、そこで、主ご自身が私に向かって、「わたしの顔を慕い求めよ」と招いていてくださることが分かりました。

私たちが他の人と和解できずに、争ってしまうのは、自分の心の中に争いがあるからです。自分の中にある、自分が受け入れたくない弱さとの戦いが、人と人との争いを生み出します。

今、自由学園公開講座で「霊性の神学」という2時間の講義を六回にわたって行っています。それは今までの学びをすべて見直して、それを再統合する良い機会となっています。

関心を持ってくださる方には毎回十ページ、前回は16頁におよぶレジュメをお送りすることができます。

以下ではテゼ共同体で歌われている詩篇27篇の歌をお聞きいただくことができます。ハレルヤという合唱と共に上記の詩篇27篇の抜粋が歌われています。主の前に静まることが、自分との和解、人との和解、世界の和解につながるということを覚えていただければ幸いです。