このコロナ禍の中で、多くの方々が孤立して、悶々とした生活を送っています。またこのコロナ禍のゆえに、仕事の負担が急速に増えている人もいます。
一人でも二人でも、身近な人の困難を覚えながら互いのために祈って行ければと思います。そのために、自分の感情を優しく受け止めることは、人の痛みを理解する窓になります。
僕は六十代後半になっていますが、今ごろになって自分の生き難さを示されたりしています。
自分を振り返ってみると、「目の前の問題に過剰に反応する」傾向があることをたびたび示されてきました。刺激や感情に対する過剰な反応は、睡眠の妨げにもなります。また、人の意見に、感情的な反応をしてしまい失敗することもたびたびありました。まさに私は、自分の中に沸き起こる反応をうまく制御できない弱さを抱えているのです。
最近 Highly Sensitive Person(HSP、とても敏感な人)という概念が広まっています。これは五人に一人ぐらいの割合で存在する気質で、生後の環境以前い先天的に与えられている気質傾向です。
そして、自分にもその傾向があるのだということが分かったら、何となく安心できたとともに、改めて取り組んでみたいことが生まれてきました。
詩篇を読むと、勇者ダビデの感性の敏感さに驚かされます。素手でライオンと戦ったかのような勇気を誇っているように見えるダビデが (Ⅰサムエル17:34–36)、恐怖におののいている自分の気持ちを以下のように描いています
聴いてください!神よ、この祈りを。
……
私はうろたえ、うめき、わめくばかりです。
私の心は奥底から悶え、
死の恐怖に襲われています。
恐れとおののきにとらわれ、
戦慄に包まれました。
私は申しました。「ああ、鳩のような翼が私にあったなら、
そうしたら、飛び去って、休みを得ることができるのに……
本当に、はるか遠くに逃れ去り、
荒野の中に、しばし宿ってみたい。 セラ
私の隠れ場に急いで行って
あらしと突風を避けてみたい。
あのダビデが、まるでひ弱な少女のような恐怖心を言語化しています。しかも、そこで、白昼夢に逃れるようなイメージを膨らませながら、神のもとでやすらぎ、前に進む勇気を得ています。
上記のHSPの概念は、1992年にエイレン・アーロン博士が「感覚処理感受性の研究」の心理学者として発表して以来、世界中に広まっています。彼女はサンフランシスコのユング研究所で学んできました。
今、彼女が書いた「敏感すぎる私の活かし方……高感度から才能を引き出す発想術」という本を読みながら、いろいろ考えています。
私自身も自分の感じやすさを恥じてきた面があります。ずっと、「こんなふうに感じる自分が異常なんだ……」と自分の感性を押し殺してきました。
しかし、詩篇の中に自分が感じることと同じことがたくさん書いてあることに気づかされて、慰めを受けました。それを「心を生かす祈り」や「現代人の悩みに効く詩篇」として記されていただきました。
先日も、カウンセリングを受けに来られた方が、その本を手にしているのを見て、とっても嬉しくなりました。
また三十数年前の神学校での卒論では、「堕落と救いにおける恥の意味」という題で、「恥」の感覚から聖書の救いを考えてきました。
先日ご紹介した「傷つきやすさ」について語られているブレーネ・ブラウン博士の続きのビデオは「恥」に関しての話しです。
彼女は前回の「傷つきやすさ」の講演をしてから、恥ずかしさのあまり、三日間も家の中に閉じこもっていたという話から始まります。
きれいな翻訳もある20分ぐらいの講演で、ぜひお聞きいただければ幸いです
自分の傷つきやすさや、自分を恥じる感覚は、とっても大切な感覚です。それは神との交わりを深める機会になります。そこから新しい発想が誕生します。
ダビデの偉大さは、自分の感性を優しく受け入れ、それを言語化して、神への祈りへと変えられたことにあります。それが驚くほど多くの人の信仰を導いてきました。
もちろん、それはすべて聖霊の働きで、人間の知恵である心理学の領域を超えています。
しかし、心理学的な発見が、いろんなことでの「自分の過剰な反応」を優しく理解する鍵となるなら、それはまさに詩篇に記されたような祈りを理解する助けになります。
「男は人前で泣いてはいけない」から始まって、「信仰者はいつも平安を味わうことができるはずだ……」に至るまで、実は、多くの信仰者が自分の敏感さを恥じてきました。
ダビデは、上記の祈りで、逃げてしまいたいほどの恐怖心を描いています。しかし、驚くほどの恐怖を感じることと、臆病の違いは何でしょう。
臆病な人は、目の前の課題から逃げ出す人です。それに対し、信仰者は、「逃げたいです」と神に祈ることで、神の助けを得られる人のことです。
「恐れ退くこと」は不信仰ですが、「恐れ退きたい」気持ちを言語化して祈ることは、何よりも主に喜ばれる信仰者の姿勢です (ヘブル10:36–39)。
そんなことをふと感じさせられています。