ヨブ記全体の振り返り「再創造への産みの苦しみ」

2021年6月27日

ある牧師会で、ヨブと三人の友人たちのやり取りの核心部分を紹介し、「先生方は、苦しんでいる人に向かって、ヨブの友人たちと同じことを言ったことがありませんか?」とお聞きしました。すると、ほぼすべての牧師が、「思い当たることがあり、反省しています」と言ってくださいました。

残念ながら今も昔も、信仰者の善意のことばが、苦しんでいる人の傷口に塩を塗り、教会から遠ざけているという現実があります。

多くの人々は、ヨブ記の最初と最後を読んで、話を分かった気になっています。実は、私自身も長い間、その一人でした……。ただ、ヨブ記の大部分は、ヨブと友人たちとの対話です。しかも、そのどれが自分や友人にとっての慰めのことばとなるのかも分かりません。しかし、人の痛みに寄り沿おうとする者は、このヨブと友人たちとの対話から驚くべき洞察と気づきを得ることができます。

今から22年前にリージェント・カレッジ創立学長のジェームス・フーストン教授が、当教会でヨブ記とⅠコリント2章9節を基に、「賢く生きる」ための「霊性の神学」の核心を くださいました。それは自分の弱さと向き合うところからキリストの御霊による再創造を体験できます。わざわいの中での神との出会いを求めることが信仰の核心です。

1.「隠された宝にまさって死を探し求める」(3:21)

3章1節では、「そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った」と描かれます。そして20–26節には、さらにヨブが死を恋い焦がれる気持ちが描かれ、「なぜ、苦悩する者に光が与えられるのか、心の痛んだ者にいのちが……」と問われます (20節)。

それは「」や「いのち」が、苦しみを増し加える舞台になっているからです。そこで苦悩する者は、「死を待ち望む」のですが、願ったようには「死はやって来ない」と言われ、さらに「隠された宝にまさって死を探し求める」とまで記されます (21節)。

生きることが苦痛でしかないと感じる人はこの世界に多くおられます。ヨブの場合は、まるで神とサタンとの取り引きの中で、「死を待ち望む」と言わざるを得なくなりました。それを見ると、苦しみの原因を探り求めようとすることは、神の神秘の領域に立ち入ろうとすることかもしれないと思います。

私たちはどこかで、自分が神に喜ばれているなら、もっと平安に満ちた日々を送ることができるはずと思ってはいないでしょうか。使徒パウロは「私の願いは、世を去ってキリストともにいることです。その方が、はるかに望ましいのです」(ピリピ1:23) と言うほどに、苦しみに耐えていました。苦しみは信仰者にとっての避けがたい現実です。

それにしても、誰も「私はこの地で苦しむためにクリスチャンになったのです」などと言う人はいませんし、そんな人は、自虐趣味の中に生きる危ない人かもしれません。ヨブにおいてもパウロにおいても、「早く死んでしまいたい……」という気持ちは、健全な心として描かれています。

ですから、「死にたい」と思っている人に、「そんなことを願うのは、罪です」などと言ってはなりません。神はそのような気持ちを受け止めた上で、敢えて、あなたに固有の使命を与え、そこに同時に、人知を超えた喜びをもお与えくださいます。

しかも、最終的な報いは、私たちの復活のときに与えられます。それはオリンピックの金メダルを目指して、苦しい練習に耐えることにも似ています。それこそが、あなたの人生を豊かにする秘訣です。

使徒パウロは、先のことばに続けて、「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要なことです。このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています」(同1:24、25) と告白しています。

パウロは、ピリピの信仰者のためにこの地で生きることに意味があると言っています。ヨブがこの不条理な苦しみを耐えたことは、歴史上の数えきれないほどの多くの人に、生きる希望を与えることにつながっています。

苦しみを避けることよりも、苦しみに意味が与えられることこそ、私たちが望むべきことでしょう。

2.「私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ」(4:8)

4章では、知恵で有名なテマン (エレミヤ49:7) 出身のエリファズが、自分の経験と観察から、「さあ、思い起こせ、だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ」(7、8節) と、因果応報を説きました。

ヨブを襲った「悪性の腫物」も申命記28章35節では、主の御声に従わない者に対するさばきとして描かれています。エリファズは同じ趣旨で、善意からヨブに反省を求めたと言えましょう。

そればかりか、「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ、誤りを認められる。まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと」(4:17–19) と述べました。

これは神が汚れた人間にわざわいを下すことを正当化する議論です。中世のカトリック教会では、神は遠い天から愚かな人間を冷たく見下ろし、それぞれの過ちを記録し、終わりの日にその罪を裁くという考え方がありました。

その際、イエスが厳しい裁判官に祭り上げられ、聖母マリアの母の愛の執り成しにすがることによって罪の赦しを受けられると教えられます。ですから、神の正義ばかりを強調することには、とんでもない落とし穴があると言えましょう。

5章17、18節でエリファズが語っている、「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださるからだ」ということばも、聖書の核心的な教理です。

ヘブル人への手紙12章5–11節でも、「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない……霊の父は……私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです……これによって……義という平安の実を結ばせます」と記されています。

ただしその文脈は、罪との戦いであり、人を神の聖さと義にあずからせるという目的のための訓練です。ヨブの場合は、すでに神ご自身が「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8) と認めている人であったのです。

ですからエリファズのことばは、ヨブの苦しみの文脈には、まったく当てはまりません。残念ながら、私たちもときに、その人の人生の文脈を無視したみことばを一方的に語り、かえってその人の心を傷つけ、かえってその人を神から遠ざけることがあるかもしれません。

3.「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」(8:3)

8章3節はシュアハ人ビルダテの主張の核心部分で、「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」というものです。それは神がヨブを苦しめることには正当な理由があるという意味です。

さらにヨブに対する勧めとして、「もし、あなたが熱心に神を求め……もしあなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神は……あなたの義の住まいを回復されるだろう」(8:5、6) と言います。これは簡単に言うと、「あなた」の将来が祝福に満ちたものへと変えられるかどうかは、あなたの心がけ次第であるという意味です。

続いて「さあ、先人に尋ねよ。先祖たちの探求したことを確かめよ。私たちは昨日からの者で、何も知らない。私たちの地上の日々は影にすぎないのだ」(8:8) と述べます。これは、前例とか伝統に立ち返るようにという勧めです。

その結論として「神は完全(誠実)な者を退けることはない」と言われますが(8:20)、ここには「永遠」という時間の観念が入っていません。ヨブについては「この人は完全(誠実)で、まっすぐで、神を恐れて悪から遠ざかっている」と三度も繰り返されていましたが (1:1、1:8、2:3)、ビルダテのことばは、「ヨブが苦しみに会っているのは、神が彼の隠された罪を見通しているから」という矛盾になります。

さらにビルダテが続けた、「神は、ついには笑いをあなたの口に、喜びの叫びをあなたの唇に満たされる……悪しき者の天幕はなくなる」(8:21、22) ということばも、地上の生活ではそれに反する現実が数多くあります。

4.「神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろうに」(11:6)

11章5、6節はナアマ人ツォファルの主張の核心で、ヨブが神の前に謙遜になるなら、「神があなたにことばを与え、唇を開いていてくださったとしたら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろうに」というものです。

ツォファルは「直感的な知恵」を尊重しています。そして7節の「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか」ということばは、まさに神についての正しい洞察と言えます。しかし問題は、言外に、ヨブは自分の正当性ばかりを主張して、神から与えられる「知恵の奥義」を求める「渇き」を持っていないと、ヨブの傲慢さを責めている点にあります。

11節でツォファルは「神は、不真実な者を知っておられる」と言いますが、それは神がヨブの「不法」に気づいているという意味です。

また12節の「野ろばの子」とは、ヨブの「愚かさ」を嘲ったことばです。17節で彼は、悔い改めるなら「あなたの一生は真昼のように輝き、闇も朝のようになる」という希望を語りますが、理不尽な苦しみに会っている人にその論理は通じません。

18節の望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む」も、人間はどれほどのわざわいの中でも、希望」さえあれば生きて行けるという真理を語ったものとも言えます。しかし、第二次大戦のときの「神風神話」のように誤った希望こそが、現実を見えなくさせ、悲惨を長引かせるという逆説があることも忘れてはなりません。

5.「神の顔を立てるつもり」で、「自分の顔を立てようとしている」(13:8、10)

13章3–12節にはヨブの主張の核心が見られます。3節でヨブは、「この私は全能なる神に語りかけ、神と論じあうことを願う」と大胆な願いを述べます。

さらに4、5節では三人の友人たちを「無用の医者」と呼び、6–9節では、彼らは神を弁護し「神の顔を立てるつもり」で、「神を欺こうとしている」と不思議なことを述べます。

そして10節で、ヨブは友人に向かって「神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てるなら」と宣告します。後に神の怒りは三人の友に向かって燃えることになりますが、彼らの問題は、神の顔を立てようとして、実際は、自分自身の顔を立てようとする欺きがあったことです。

これは、残念ながらすべてのキリスト者に当てはまる問題のような気がします。信仰者の友人が神に関しての疑問を述べた時、それに必死に答えようとする理由に、信仰者としてのプライドがあります。

また、自分の信仰が揺らぐことを避けるために、人の話をじっくりと聞く前に、神の弁護をすることがあるかもしれません。特に、ほとんどの牧師が、一度や二度は、この罠にかかって、「無用な医者」に成り下がっています。

15節でヨブは、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前(顔)に主張しよう」という不思議な逆説を述べます。

彼は激しい痛みのゆえに早く死んでいた方が良かったと嘆いていましたが、ここではたとえ神に殺されても「神を待ち望むと言います。それは神の御顔に向かって自分の正当性を主張するためです。

これは友人たちが神の顔を立てようとしたこととは正反対に、神にすがりついて行く姿勢です。さらに18節では大胆にも、「今、私は自分の言い分を並べる。自分が義とされることを知っている」と述べます。これは友人たちがヨブに、罪を認め、謙遜になるようにと勧めたこととは正反対です。

ヨブはまさに、命がけで自分の正当性を神と人とに訴えようとしているのです。

16章19–21節でヨブは、「今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなして(主張して)くださいますように」と述べます。

これは極めて不思議です。ヨブが祈るべき相手は神ご自身のはずですが、9章33節で「仲裁者」をイメージしたように、ここでも神に「とりなして」くださる方をイメージします。それは、地には自分の真の友、証人、保証人もいないことの中から生まれた憧れです。

ヨブには、神の右の座に立つキリストのような存在を知ることはできませんが、神ご自身が自分を攻撃する不条理を必死に訴えている中で、そのような、神の右の座に立つ「とりなし手」を思い浮かべ、憧れるようになったと言えましょう。

それは、ヨブが圧倒的な神の御支配自分の不条理に真正面から向き合った結果です。

6.「私の肉から神を仰ぎ見る、この方を私は自分自身で仰ぎ見る」(19:26、27)

19章21節からヨブのことばが大きく変わります。そこで彼はまず、「私をあわれんでくれ、私をあわれんでくれ……私の友よ」と呼びかけ、「なぜ、神のように私を追い詰めるのか」と訴えます (19:22)。苦しみの原因を説くことが、苦しむ人を「追い詰める」ことになることを気づくように願っていますが、これは私たちへのことばでもあります。

そして23、24節で、ヨブは「ああ今、私のことばが……鉄の筆と鉛によって、永遠に岩に刻まれればよいのに」と述べます。ヨブは自分の正当性の訴えが、永遠に消えない形で記録されることを望んでいますが、それが今、永遠の聖書として残され、実現しています。

25–27節ではこの書のクライマックス的な告白が次のように記されます。「この私は知っている、私を贖う方は生きておられることを、また後には地のちりの上に立たれることを、私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後に。私の肉から神を仰ぎ見る、この方を私は自分自身で仰ぎ見る、私自身の目がこの方を見る。他の者ではない

この前半はヘンデル作のオラトリオ「メサイア」の第三部の初めで歌われる有名な聖句です。そこではそれに続いて、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20) と歌われます。つまり、伝統的には「私を贖う方」とはキリストを指すと考えられているのです。

ヨブが、そこまで明確にキリストの復活を知っていたと考えることには無理がありますが、彼はこれまでも「仲裁者」(9:33)、また「神にとりなしてくださる私の保証人」を期待していました (16:19、21)。

ヨブは自分が滅びに向かう「奴隷」のような状態であることを認めながらも、自分がこのような状態から解放されることを期待したのです。そればかりか、肉なる存在が仰ぎ見ることができないはずの「神を仰ぎ見る」ことができると期待します。

ここでは「肉から仰ぎ見る」「自分自身で仰ぎ見る」「私自身の目がこの方を見る」と、ことばが微妙に使い分けられながら、ヨブ自身が死の支配の力から贖い出され、神を自分の「自身から見る」ということが強調されます。

そしてこのヨブ記の結末で彼は、「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(42:5) と告白されます。しかもそれは、ヨブの身体がなお苦難のただ中にあった状態の中で起きたことです。

ヨブが味わった苦しみから、キリストの十字架の苦しみが見えてきます。ヨブ記は聖書の最も古い物語と言われながら、最もキリストの福音に近い内容を持っています。ヨブは苦しみの中からキリストの贖いのみわざを待ち望む者となりました。それこそ神秘です。

7.「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(コロサイ1:24)

黙示録では、「神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る」(22:3、4) と描かれます。ヨブの憧れは文字通り叶えられ、私たちもキリストにあって、それをともに体験します。

それを前提に、コロサイ1章24–27節でパウロは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と不思議なことを記します。彼はかつてキリストの教会を迫害しましたが、今や異邦人教会のために命を賭けています。そこには、異邦人の使徒として召された結果として、イエスの代理として苦しみに会っているという意識があるのだと思われます。

そのことが何と、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(1:24) と表現されます。それは、罪の贖いのための十字架の苦しみに「欠け」があったというのではなく、「キリストの苦しみ」から始まった「神の国」が、今、完成に向かう中で「産みの苦しみ」をしているという意味です。

さらに、パウロは、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27) と告白します。私たちの「中におられるキリスト」こそ「栄光の望み」です。主が十字架で死んで、栄光の身体によみがえったように、私たちにも栄光の復活が待っています。

それは、青虫が冬の間、さなぎになることを通して、春には美しいアゲハ蝶に変わるようなものです。私たちは今、青虫のように地に這いつくばって生きています。しかし、私たちにとっての死とは、さなぎになって越冬することに似ています。

越冬さなぎの場合は、5カ月間から8ヶ月間にも渡ってさなぎの状態で、まるで死んだように冬眠しています。しかし、春が来るとそれまでとは似ても似つかない姿に変えられ、空に羽ばたいてゆきます。

それと同じように、キリストのうちに生きる者は、どんなに暗い中においても、栄光の望みに満たされることができます。

エリファズは「経験と観察」から、ビルダテは「前例と伝統」から、ツォファルは「直感的な知恵」からヨブのわざわいの原因を分析しました。そして後に神から厳しい叱責を受けます。それはすべて人間の知恵による分析に過ぎないからです。

今も多くの信仰者が、それと同じく、神の燃える怒りを受けるようなことをしています。なぜ、苦しんでいる人の横で、じっとその人の気持ちを聞くことができないのでしょう。それは苦しみの中に再創造の力が働くということを知らないからかもしれません。

それをパウロは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」(Ⅰコリント2:9) と記しました。それこそ聖霊が与えてくださる啓示です。

しかも人には、傷つかなければ見えない世界があります。苦しみは多くの人に、永遠に続くかのような錯覚を与えますが、神の摂理の中ではごく短い時間に過ぎません。

パウロは「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と告白しました。それはこの神の世界における苦しみには、世界を完成に導くための「産みの苦しみ」(ローマ8:22) という意味があるからです。

信仰者にとっての苦しみは、すべて母親が自分の子に出会うための「産みの苦しみ」です。そこに神の再創造のみわざがあります。