死の恐怖から、恵みの支配の中に生かされる幸い

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2021年イースター号より

新型コロナ感染爆発(パンデミック)から一年あまりが経過しましたが、なお終息の目処は立たず、多くの人々が「恐怖」に囚われています。それは聖書では「死の恐怖」と呼ばれます (ヘブル2:15)。仏教的な価値観では、すべての生き物が避けることができない「死」を受け入れ、生命への執着から解放されるための解脱の道を教えます。しかし、聖書では、「死」は人間にとっての「最後の敵」として、キリストによって滅ぼされるべきものと見られています (Ⅰコリント15:26)。

「死」は愛する人との別れであり、この身体が腐敗してしまうことであり、全ての人から無視される契機でもあります。多くの人々は、社会的な「死」を恐れて、必死にこの世の流れから取り残されないようにと働き続けています。それは、人々から忌み嫌われる状態に「落ちぶれる」ことを恐れることでもあります。またこれと反対に、心の奥底で、死を恐れているからこそ、それを忘れるために刹那的な快楽に没頭しようという動きも出てきます (Ⅰコリント15:32)。それが最近は、「コロナ宴会」と呼ばれる現象となっているのかもしれません。実は、「死」とは、私たちが心の底で恐れているものすべてを象徴的に表現したことばとも言えるのです。

多くの人々が自分の損得勘定に囚われて、友人を裏切ってしまったり、苦しんでいる人を前に「見て見ぬふり」をするのも、自分の平穏な生活を失うという「死」への恐怖からともいうことができます。すると、「死の恐怖」とは、「隣人を愛する」ことを妨げる最大の力とも言えます。

ローマ人への手紙5章12節は、「ですから、一人の人によって罪が世界に入ったのと同じように、罪によって死が(世界に入ったのです)。そのように、死がすべての人に及びました。それによってすべての人が罪を犯しました」と訳すことができます。

これはアダムが、「それを食べるそのとき……神のようになって善悪を知る者となる」(創3:5) という蛇のことばに騙されてエデンの園から追い出され、そこで実現した「死」がすべての人を支配し、死の恐怖に囚われたすべての人が罪を犯すようになったことと解釈できます。創造主に従う代わりに自分を神とし、自分を善悪の基準としたことが罪であり、それによってすべての人が死に支配されています。自分の価値観を絶対化して生きる人はすべて、「罪」またはサタンの支配下に置かれています。そして、その結果は、「死の恐怖の奴隷」という状態に表されます (ヘブル2:15)。

それに対しローマ人への手紙5章17、21節は、「もし一人の人の違反を通して、死が(王として)支配するようになったのであれば、なおさらのこと、恵みと義(真実)の賜物をあふれるばかり受けている人は、いのちにあって(王として)支配することになります、それは一人の人イエス・キリストによるのです……それは罪が死にあって(王として)支配したように、恵みが(王として)支配するのです、それは義(真実)を通して、また私たちの主イエス・キリストを通して、永遠のいのちに至るものです」と訳すことができます。

これは、一人のアダムのよって「死」の支配がすべての人に及んだのとは対照的に、一人のイエスの恵みと真実によって生かされている人は、「死の恐怖」ではなく「いのちの喜び」にあってこの世界を治めるという意味です。それは「死の恐怖」の「脅し」によってではなく、イエス・キリストの真実を通しての「恵み」による支配です。

2月の半ばに、行方不明になった学生が、聖書と合わせて持っていた古文書があります。そこには、「クリスタルの海。神はエデンから追放されたアダムに『宝の洞窟』に住みように命じられた……人がその海で身を洗うと、その清らさで清くなり、その白さで白くなり、たとい暗い人であっても、その海の中で身を洗うことができる。神はご自身の喜びのために、その海を創造された」という不思議な文章がありました。そこには偽りの教えの特徴が現れています。それは、この世界の日常生活から分離された「宝の洞窟」のような交わりの中に住むことの勧めが記され、同時に、その洞窟の交わりの指示に背く者への恐ろしいさばきの警告が記されていることです。

誤った教えは、この地での社会生活を軽蔑させ、閉鎖された集団の飴(あめ)と鞭(むち)によって人の行動を支配します。そこには「死の恐怖の奴隷」状態からの解放はありません。ただし、多くの人は表面的には束縛からの解放を求めながら、無意識の中では自分で責任をとって生きることを恐れ、他人の指示に従って自分の身の安全を保ちたいという欲求があると言われます。

しかし、イエス・キリストが私たちに与えてくださった「救い」は、私たちを罪と死の支配者であるサタンから解放するためのものでした。キリストの十字架は、「死」の支配者と「いのち」の支配者との戦いであったと宗教改革者ルター「キリストは死につながれ」という讃美歌で歌いました。

私たちはなお、肉体的な死を避けることができませんが、「死のとげ」はキリストの十字架によって無力化されました (Ⅰコリント15:55、56)。私たちはすでに「永遠のいのち」の中に生かされています。それは、来たるべき「祝福」に満ちた世界の「いのち」が今から保障され、それを既に生き始めているという意味です。

キリストのある「豊かないのち」を保証する真の福音は、私たちに、この暗闇の世界での冒険に向かう勇気を与えるものです。それは、この暗闇の支配者サタンの脅しが、私たちにはもう通じなくなっているからです。私たちに与えられた「永遠のいのち」を奪うことができる者は誰もいません。だからこそ、私たちは失敗することや人々から拒絶されること、この世の宝を失う心配をする必要がありません。キリストのうちに生きる者は、「恐怖の奴隷」状態から解放されています。

以下は、マルティン・ルターが作った名曲で、J・S・バッハがそれをもとに美しいカンタータを作曲しています。この歌詞に「新しい創造の始まりとしての十字架」の意味が歌われています。

讃美歌第二篇100番「主は死につながれ」に楽譜が掲載されています。

  1. キリスト死にたもう われらの罪負い
    主はよみがえりて いのちをたまいぬ
    喜びあふれ、御神をたたえ
    声上ぐわれらも ハレルヤ
  2. いまだに死のとげ たれも折るを得じ
    われらの罪こそ 死の支配 招く
    脅しの力 襲いかかりぬ
    とらわれ人らよ ハレルヤ
  3. 神の子キリスト 死のさばきを受く
    死の力 もはや われらに及ばず
    残るは すでに、力なき影
    とげ今 折れたり ハレルヤ
  4. くすしき戦い 死といのちにあり
    いのちは勝ちを得 死を呑み尽くしぬ
    罪なき死こそ 死の力砕く
    死は死を呑み足り ハレルヤ