マタイ16章1〜12節「時のしるしを見分ける」

2021年4月18日

多くの人々は信仰を二つの観点から考えるように思います。第一は、人々から尊敬されるような人格者になるための道です。それはイエスの時代のパリサイ人が示していたものでした。彼らは政治や社会の事情がどのような状態であっても、神の前に敬虔な生き方を貫くという生き方を教えていました。

第二は、今ここでの生活をより豊かにするための現実的な信仰のあり方で、それはサドカイ人が示していたものと言えるかもしれません。たとえば、米国の前大統領のトランプ氏を高潔な人格者と見る人は少なかったとは思いますが、彼は多くの福音的な信仰者の支持を得ていました。それはこの現代において、信仰者として生きるための制度的な枠組みを大切にする現実主義者であったからです。サドカイ人はローマ帝国の権力者との衝突を避けて自分たちに神殿礼拝を守るために極めて有能な政治力を発揮していました。

しかし、イエスが広げた「神の国の福音」は、個人的な神を恐れる生き方とともにこの社会の仕組みをも変える現実的な力の両面がありました。ただそのための方法は上記二つの立場とまったく違いました。それは全世界の罪人の代表者として十字架にかかることと、神の力によって死人の中からよみがえるということでした。

すべての真のキリスト者のうちには、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力が生きて働いています。キリストの十字架は、世界を根本から作り変える革命的な神のみわざでした。私たちはキリストにある救いを、聖書全体に描かれた「神の壮大な計画」の中から読み取る必要がありましょう。

なおこの世界には様々な矛盾が存在しますが、キリストの再臨の時にすべてが変えられます。その「時のしるし」を私たちは「見分け」、この地上の政治的な立場の違いを超えた神の視点を提示する必要がありましょう。

1.「空(天)模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできない」

15章39節では、「それからイエスは、群衆を解散させて舟に乗られた。そしてマガダン地方に行かれた」と記されます。

これは四千人の給食の後でイエスは人々の心も体もともに満たした上で、彼らをそれぞれの家に帰し、その上でイエスが向かわれた地名は諸説ありますが、ガリラヤ湖の西側のユダヤ人の村で「マグダラ」と解釈する人も多くいます。それは「マグダラのマリア」の出身地かもしれません。

とにかくその地方でのできごとが16章に描かれています。そこで最初に、「パリサイ人たちやサドカイ人たちが近づいて来て、イエスを試そうと、天からのしるしを彼らに見せるようにイエスに求めた(1節) と記されます。

パリサイ人は民衆に支持され、聖書の教えを実生活にどのように生かすことができるかを親身に指導していました。使徒パウロは自分を模範的なパリサイ人であったと紹介しています (ピリピ3:5、6)。

一方、サドカイ人はエルサレム神殿を中心とした祭司家系に連なる裕福な上流階級に属していました。

使徒パウロは最高法院で尋問を受けた時、「彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって……『私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです』と言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派の律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、『この人には何の悪い点も認められない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない』と言った」と描写されています (使徒23:6–9)。

ここに二つの派の日頃の対立関係が現わされています。サドカイ人は、神殿での礼拝儀式を司ることに注意を払う現実主義者で、既得権益を守るためにローマ帝国の支配を受け入れる一方、パリサイ人は民衆に寄り沿い、ローマの支配を悲しんでいました。

この二派は犬猿の仲でしたが、イエスの人気が民衆に広がってきた時、「敵の敵は味方」という論理で互いに協力し合い、イエスに罠をかけて追い落とそうとしていました。

なおここで彼らはイエスを「試そうとして」「天からのしるしを要求した」と記されますが、これはエリヤが天から火を呼んだような、圧倒的なしるしなのだと思われます。

なお先の12章38節でも「律法学者、パリサイ人の何人かが」イエスに、「先生、私たちはあなたからしるしを見せられることを望んでいます」と言ったと記されていました。それは、モーセでさえエジプトで奴隷状態であったイスラエルの民に神のことばを告げるときに、杖を蛇に変えまた戻すとか、自分の手をツァラアトにしたりそれを回復させたりとか、またナイル川の水を血に変えるなどの「しるし」を見せていたからです。

ただここでは、彼らは単なる「しるし」を「望む」代わりに、「天からのしるし」を「見せるように求める」というようにエスカレートしています。

それに対して「イエスは彼らに答えて、夕方になるとあなたがたは、『これから晴れるでしょう、それは天(空)が焼けるように赤いから』と言い、また朝には、『今日は荒れ模様だ、天(空)が焼けるように赤くてどんよりしているから』と言います。天(空)の模様(顔)を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることができないのですか」(2、3節) と言われました。

これは「パリサイ人たちやサドカイ人たち」が「天からのしるし」を見せられることを「要求」したことに対し、イエスがまず「(空)からのしるし」としての天候の話をしたという流れになっています。まるでイエスは彼らにユーモアをもって答えたかのように思えます。

それは、彼らが(空)の「しるし」をうまく予測ができるのに、「時のしるしを見分けることができない」こと、つまり、バプテスマのヨハネが現れ……『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言った(3:2) ことの意味を全く理解していないと、イエスが指摘したとも言えましょう。

それはイエスが「足の不自由な人」「目の見えない人」「口のきけない人」たちを癒されたのは (15:30)、イザヤ書35章に預言された「神の国」の成就であることを、彼らがまったく見ようとしていなかったからです。

彼らはエルサレム神殿での礼拝が守られることを気にはしていても、真の意味で「神のイスラエル」の行く末を心配してはいません。しかし、イエスを拒絶したイスラエルは、これから約四十年後に、ローマ帝国によって滅ぼされることになります。

2.「しるしは与えられません、ヨナのしるし以外は」

さらにそのときイエスは続けて、「悪い(よこしまな)姦淫の時代はしるしを捜しますが、しるしは与えられません、ヨナのしるし以外は」と述べ、その上で、「こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた」と記されています (4節)。

この同じことばは、先の12章38節でパリサイ人が「しるし」を求めたときに語られていました。ただその際は、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中心 (heart) にいるからです」ということばが追加されていました。

ここでイエスはすでに以前説明していることでもあるので、その部分を省いて、そっけなく「彼らを残して去って行かれた」ということかもしれません。

とにかくイエスはそこで彼らが捜し求めるような「しるし」は与えられないと言われながら、「ヨナのしるし」だけは与えられると言われました。

なお「この姦淫の時代」とは偶像礼拝に流れる時代を指しますが、当時のパリサイ人がモーセの律法の本来の意味を忘れて、その一字一句を偶像のように扱っていたことを指摘したのかもしれません。

なお、ヨナは最初、ニネベへの宣教を命じられて、それを拒否して「三日三晩」、大きな魚の腹の中に閉じ込められることになりましたが、そこから救い出されたとき、ヨナのことばにはニネベの人々を「ことば」だけで悔い改めに導く迫力が生まれました。

ニネベの人々は、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた」ということを目撃はしていませんでしたが、ヨナのことばに敏感に反応しました。そこでは彼らがさばきを語るヨナの人格に、神から遣わされた者としての真実を見分けたからでしょう。

パリサイ人やサドカイ人」も、見ようとする心さえあったなら、イエスの人格ことばの背後に神の真実な救いのご計画を見ることができたはずです。「ヨナのしるし」とはそのイエスの人格とことば自体が、神からの最高の「しるし」であるという意味です。

それは現代の「みことばの説教」につながるとも言えます。

残念ながら、先入観や自分の構えが強すぎる人は神のみわざを認めることはできません。

17世紀の最高の科学者パスカルは、「奇跡が一つがあれば、私の信仰は堅くされるであろうに」と、人が言うのは、「奇跡を見ないときである」と言いました (パンセ263)。

また、20世紀最高の科学者と称されるアインシュタインも、「人生にはたった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡などないかのような生き方、もう一つは、まるですべてが、奇跡であるかのような生き方だ」と言っています。

世界は不思議に満ちています。少なくとも私は、ドイツで加速器を使って素粒子の構造を地道に調べている最先端の物理学者である福音自由教会の信者に出会い、一緒に聖書を学ぶようになって初めて、聖書の奇跡を信じられるようになりました。問われているのは、科学的な知識などではなく、その人の、人生に対する心の構え、心の方向性です。

イエスのもとに遜って、救いを求めてくる人は、驚くべき救いを体験できました。信仰があるから奇跡を見られるというのではなく、「神の前に心を開くことができる人」が神の不思議なみわざを見ることができるのです。

自分のものさしで神を見ようとしてはなりません。パリサイ人のように、誰の目からも信仰深く見える人は、かえって神のみわざを見ることができませんでした。心の柔軟さを求めてゆきたいものです。

3.「パンの種ではなくパリサイ人やサドカイ人の教えに用心するように」

その後のことが、「さて弟子たちが向こう岸に渡ったとき、彼らはパンを持ってくるのを忘れてしまっていた」(5節) という不思議な描写から始まります。

ガリラヤ湖の「向こう岸とは、湖の東側の異邦人が住む地域で、当時の敬虔なユダヤ人は、異邦人が焼いたパンなどを食べはしませんでした。ですからパンを持って来なかったことは驚くべき不注意なことと思われました。

そこで突然、「イエスは彼らに言われた、『よく見て、注意を払いなさい(くれぐれも用心しなさい)、パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に』と」という記事が記されます。

弟子たちはイエスのことばの意味が分からずに、「すると彼らは自分たちに間で議論を始めた、『私たちがパンを持って来なかったからだ』と言いながら」という状態になりました。

それに対し、「イエスはそれに気づいて言われます、『なぜ、互いに論じ合っているのですか、信仰の薄い者たちよ、あなたがたがパンを持っていないなどと。

まだ分からないのですか、覚えていないのですか、五つのパンを五千人に分けて、いくつの小籠に集めたのか、七つのパンを四千人に分けて、いくつの大籠に集めたのか。

どうして分からないのですか、わたしが言ったのはパンのことではないということを、注意を払いなさい(用心しなさい)、パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に』と」(8-11節)。

そしてその結果が、「そのとき彼らは悟った、イエスがパンのパン種について注意を払う(用心する)ように言われたのではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えについてであることが」と記されます (12節)。

英語では「パン種」は leaven という一つの単語ですが、福音記者はここで敢えて、「leaven of bread(パンの種)と言い換えることで、イエスがパリサイ人たちの「教え」を「パン種」ということばにたとえたということを明らかにしました。弟子たちの誤解が、最後になって福音記者によって正されています。

ここにもイエスのユーモアが見られます。イエスは弟子たちが、パンのことを心配しているということを十分に分かった上で、彼らの心配を加速させるかのように「パン種」についての話を切り出します。それは彼らがパリサイ人やサドカイ人の教えに従って、異教徒が焼いたパンを買うことができないと思って、パンのことで心配していたという状況を捕らえてのことばでした。

その際、イエスは弟子たちのことを「信仰の薄い人たち」と呼びましたが、これは「オリゴピストイ(薄い信仰者たち)」という一つのギリシャ語で記されます。それは彼らを断罪するというよりも、彼らの信仰を呼び覚ますための声掛けであったと思われます。

イエスはここですぐに、彼らに向かって五千人のパンの給食と四千人のパンの給食において、それぞれで「いくつの小籠」「いくつの大籠」ということばを使いながら、少ないパンがどれほどに増えたかを思い起こさせています。

最初の例では「余ったパン切れを集めると、十二の小籠がいっぱいになった」(14:20)、また後の例では、「余ったパン切れを集めると、七つの大籠がいっぱいになった」(15:37) と記されています。

その二つに共通するのは、人々の必要を満たすにはあまりにも少なすぎると思われるパンを用いて、驚くほど多くの人々の必要を満たしたあげく、残ったパンが弟子たちに必要を満たしてあまりあるという状態が生まれたことです。

マルコによる並行記事では、「一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった」(8:14) と記されますが、過去の経験からすると「一つのパン」があれば充分と言えましょう。

つまり、イエスの話しの核心は、イエスがともにおられるなら必要がすべて満たされるということであるとともに、少ないものを大きく増やすことができるという実際の現象を思い起こさせながら、「パン種」の作用に目を向けさせたとも言えます。

イエスはかつて「天の御国」の成長に関して「天の御国は、女の人がパン種をとって、三サトンの小麦粉の中に隠すと、全体がふくらむようになることに比べられます」と言われました (13:33)。そこでの「パン種」は、地に蒔かれる種のように、小麦粉の中に隠されることの効果が描かれます。

なお「三サトン」は約40ℓで、当時焼くことができた最大量、百人分のパンに相当しました。「パン種」はその中で隠れる程小さなものでしたが、これほど大量の小麦粉を膨らませる力がありました。

ただ同時に、パン種は腐敗をもたらす原因でもありました。そのことを後にパウロは、「古いパン種をすっかり除きなさい……私たちの過越しの子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」(Ⅰコリント5:7、8) と記しています。

そこでは、自分たちの交わりのうちにある「淫らな行い」を「取り除く」という厳しい対処をしないことで、悪い習慣が群れ全体を腐敗させるということが警告されています。

ですから、イエスは相も変わらず地上のパンの心配ばかりしている弟子たちの薄い信仰?を非難したというよりは、小さなものが驚くほど多く増えたという、ご自身のパンの奇跡を思い起こさせながら、「パリサイ人たちやサドカイ人たちの教え」の爆発的な影響力、その腐敗の作用のことを語ったと言えましょう。

どちらにしてもイエスのお話しは、このように敢えて、弟子たちに誤解を引き出すようにしながら、それをある意味でユーモアをもって正しながら、彼らの信仰を目覚めさせています。

信仰の薄い者たち」という叱責のことばとともに、彼らの信仰を成長させる驚くべき配慮があることを覚えたいと思います。

4.敬虔な生き方、政治的な生き方を超えた イエスに倣う生き方

それにしても、「パリサイ人たちとサドカイ人たちの教え」にはどのような問題があるのでしょう。不思議にもマルコの並行記事では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」と「パン種」ということばが重ねられながら、「サドカイ人たち」の代わりに「ヘロデ」と記されます。

それは「ヘロデ党」とも言われ、彼らはローマ帝国の傀儡政権のようなヘロデ王朝を支持する人々で、エルサレム神殿での礼拝を司ることで生活を成り立たせているサドカイ人と重なるか、基本的に同じような政治見解を持つ人々だったと思われます。

パリサイ人たち」は、日常生活の中に律法を丁寧に適用しようという理想主義者でしたが、そのためにみことばを用いて自分たちの枠にはまらない人を排除する分離主義者的な面がありました。

一方、「サドカイ人たち」は自分たちの特権を守ろうとする現実主義者で、イスラエルの神への信仰を利用して権力を握り続けようとする傾向が見られました。パリサイ人とサドカイ人の考え方は、水と油のように相容れない互いに対立するものでしかなかったはずですが、「パン種」がパンを膨らませるとともに時間とともに腐敗させるように、パリサイ人もサドカイ人も、神のみことばの本質を捻じ曲げ、腐敗させていまいした。

現在も、みことばを良い生き方の教科書のように考える律法主義や、みことばをこの世で成功するための知恵のように求める人々がいます。今も昔も、聖書のことばを、人間関係やこの世を生きる上でのハウツー式のガイドとして提示する本があります。

そこには良い面がないわけではありませんが、問題点も多くあります。聖書は神からの愛の語りかけの書です。そこには独特のストーリーが描かれています。その全体のストーリーを理解することが何よりも大切です。

なおイエスは、「まだわからないのですか」「どうしてわからないのですか」と弟子たちの無理解をたしなめましたが、わかる」とは、物事の本質を心で理解することを指しました。弟子たちもパリサイ人たちと同じように、自分の基準によってイエスを見ようとしていました。

私たちの場合も、聖書を繰り返し読み、毎週礼拝に出席していても、それまでの先入観や価値観がこびりついているので、神のみこころを見ることも、聞くこともできないという面があるのかもしれません。

イエスは「パリサイ人たちとサドカイ人たちの教えに用心するように」と弟子たちに言われましたが、それをわざわざ、誤解を与えるような表現でまず述べられ、その上で、彼らにイエスがすでに見せてくださった「しるし」から思い起こし、彼らの教えの危なさを見分けるようにと命じられました。

そしてイエスはパリサイ人やサドカイ人に、「空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることができないのですか」と非難されました。それは現代の信仰者にとっては、世の終わりのしるし、キリストの再臨のしるしと言えるかもしれません。

しかし、同時に「あなたがたには、明日のことは分かりません」(ヤコブ4:14) とも言われています。

ただ、それは「いつも主にあって喜びなさい……主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:4-7) という感謝と祈りの生活の中で体験できます。

私たちは「時のしるし」を日々の祈りの生活の中で体験できます。そしてそれはこの世界を神のご支配の視点から見直す契機にもなります。私たちは、神がキリストにおいてなしてくださる「新しい創造」の中に生かされているからです。