ヨブ記24〜28章「主を恐れること、これが知恵である」

2021年4月11日

目の前の人と争うことが自分にとって損であると思うとき、相手の方に圧倒的に非があると思っても、1%でも自分の側に非があることに関して謝罪することがあります。しかし、そこには相手への不信感が残ります。

同じような態度を創造主に対して取る人がいますが、そこにはわざわいを恐れる気持ちはあっても、真の意味での神への恐れはありません。「神を恐れる」とは、神から逃れることではないからです。

1.「なぜ、全能者……を知る者はその(公正なさばきの)日々が見られないのか」

24章1節もヨブのことばで、「なぜ、全能者にとっては(さばきの)時が隠されてはいないのに、この方を知る者はその(公正なさばきの)日々が見られないのか」と訳すことができます。これは神がご自身のさばきの「」を明確に知っているはずなのに、「神を知る者たち」はさばきの現実を見られず、神の公正な支配を疑い、勝手な生き方を続けることへの疑問です。

伝道者の書の著者も、「悪い行いに対する宣告がすみやかに行われないとき、そのため人の子らの心は悪を行う思いで満たされる」(8:11私訳) と記しながら、神のさばきがすぐに見えないからこそ、この世の悪が助長されるという現実を嘆いています。

そのため、「人々は(勝手に)地境を動かし、(家畜の)群れを奪って……みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り、貧しい者たちを道から押しのける」ようなことを平気でしてしまい、その結果、「地の苦しむ者たちは、共に身を隠さざるを得ない状況に追いやられる」というのです (2–4節)。

そして5節の「その人たち」とは先の「貧しい者」「苦しむ者」たちで、彼らは「荒野の野ろばのように、荒れた地で、子たちのために食べ物を求めて、労苦して獲物を捜す」ような悲惨な状況に落とされます。

さらに彼らは、「野で自分の飼葉を刈り取り、悪しき者のぶどう畑で(摘み残しの)実を集める」ような切羽詰まった生活に追いやられ、「着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中で身をおおう物がない」という極貧の生活に落とされます (24:6、7)。

さらに8–11節でも虐げられた人々の悲惨な生活が紹介され、12節では「町から人の(死に瀕した)うめき声が起こり、傷ついた者のたましいが助けを叫び求めても、神はそれに心を留められないという現実が描かれます。それらはまさに神の公平なご支配が見えなくなっている現実です。

さらに13節は、「光に背く者たちがいると訳すことによって、17節まで、神のさばきを知ろうともしない者たちの暗黒に満ちた生き方が描かれていることがわかります。

これは神の支配が見えないことの結果として起こるこの世の悲惨です。そこでは人殺しや泥棒、姦通者が暗闇の生き方を貫いています。

18–24節は解釈が困難ですが、 訳は、「あなたがたは言う」ということばを追加して、これらが三人の友人たちのことばであると解釈します。一方、Jewish Publication Society 訳では18-20節をヨブの願望として「……であったら良いのに」と訳します。原文をそのまま生かすとしたら、後者の方が良いように思えます。

友人は神の公正な支配が見られると言いますが、ヨブはそれを願望しているに過ぎません。ヨブは、神に背く者にたいする「のろい」がすみやかに実現することを期待しているのです。

なお21、22節では神に背く者の生き方が描かれますが、22節後半は聖書協会共同訳では、「彼は……身を立てても、人生に頼れるものがない」と訳されており、その方が分かりやすいと思われます。

そして23節では、神が一時的にそのような人に「安全を与え」てはいても、「神の目は彼らの道の上に注がれ」、その間違った生き方に正当なさばきがくだされ「いなくなる」、また「枯れる」という結末になると描かれます (24:24)。

25節でヨブは、「今そうでないからといって」と、現実にはそのような神の公平なさばきが見えないことを前提として、「だれが私をまやかし者と言えるのか、だれが私のことばをたわごと(むなしい)と見なせるのか」と問いかけます。

そこでは神の公平なさばきへの期待が短期的には裏切られるように見えてはいても、長期的な視点では、神のさばきは明確に見られるようになるという期待が込められています。

2.「女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか?」

25章にはビルダテの三度目の発言が記されていますが、それはヨブの三人の友人たちによる最後のヨブへの説得でもあります。

2節の「主権と恐れは神のもの」とは、ビルダテが8章3節で「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」と言ったことの要約とも言えます。ただ、ヨブはそれに対して9、10章で必死に神のさばきの不当性を訴えていたことが耳に入っていないようです。

しかも、「神はその高い所で平和(シャローム)をつくられる」(25:2) と言われることも、皮肉なきれいごとに過ぎません。なぜならヨブの苦難は、天における神とサタンとの争いの犠牲者としての苦難とも言えるからです。

天におけるサタンの存在は多くの人にとって不可解です。ヨブも友人たちも、それについて真正面から議論はしていません。私たちも神が全能で正義に満ちておられるなら、なぜサタンの存在を許しておられるかが分かりませんし、聖書はサタンがどこから生まれたかを明確に語ってはいません。

確かにイザヤ14章12–15節では、「明けの明星、暁の子」が、天の「会合の山で……いと高き方のようになろう」として「よみに落とされた」と説明されますが、その文脈は「バビロンの王」に対するさばきに他なりません。つまり、聖書は、サタンの由来を明確に語ってはいないのです。

しかし同時に、サタンの存在を前提としなければ、この世の多くの不条理は説明できません。サタンの存在を前提としない神学は、単なる原理原則を述べるもので、この世の矛盾に満ちた現実に適用できる教えにはなり得ません。

4節の「人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか」という表現も、4章17–20節でのことば以来の繰り返しです (15:14–16参照) 。

今も、「すべての人間が地獄のさばきを受けるにふさわしい罪人である」という説明から「イエスの贖いのみわざ」を語ろうとする福音の単純化が見られますが、そのような語り方では、神がすべての人間をどれほど大切に見ておられるかが見えなくなる恐れがあります。

何よりも「女から生まれた者が……」という表現は、「あなたこそ……母の胎のうちで私を組み立てられた方です」(詩篇139:13) という表現に矛盾します。「母の胎」は神の聖なるご支配の中にあり、「女から生まれた」ことを汚れに結び付けるのは、神と女性への冒涜です。

さらに、5節では「ああ、神の目には 月さえ輝きがなく、星も清くない」と述べられますが、これは聖書の神こそが全宇宙の創造主であるということからすると妥当な表現にも思われます。

しかし詩篇8篇では、「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは」(3、4節) と記されるように、神が創造されものの偉大さから、人の尊厳が説明されます。

ですからこの6節での、「まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人 (アダム) の子はなおさらだ」という表現は、神の聖さや偉大さを描くものとしては不適切と言えましょう。

ヨブの三人の友人たちは、このように目の前の不条理の説明をするために、神の聖さや尊厳を強調する一方、目の前の人間を軽んじるような態度を取っています。

残念ながら今も、目の前の人間の葛藤や悩みに目を留めることがない形で神のさばきの正当性を語るような福音の提示があるような気がします。しかし神はたった一人のヨブを用いて、サタンへの勝利を宣言しようとしておられます。

そればかりか、神は私たち一人ひとりに「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4) と語っておられます。

3.「私たちがこの方について聞き得ることばは、ほんのささやきでしかない」

26章から再びヨブの応答が記され、それが31章まで続きますが、それらは三人の友人を最終的に沈黙させる効果があったことばとして理解すると興味深く思えます。

まずヨブはビルダテに向かい、どのようにあなたは助けたのか、無力な者を。どのように救ったのか、力のない腕を」と、具体的な愛のわざについて問いかけます (26:2)。それは三人の友が、ヨブの気持ちに寄り沿う代わりに、神のさばきの正当性を抽象的に語ることに夢中になっているからです。

さらにヨブは、どのようにあなたは助言したのか、知恵のない者に、また、どのように知性を豊かに示したのか」と問いかけます (3節)。これも彼らが抽象的な議論をする前に、目の前の人にどのように関わってきたかという具体的な愛の行為を問うものです。

そしてそれがさらに、だれに対してことばを告げたのか。だれの息があなたから出たのか」という問いになります (26:4)。ヨブは、友人たちがヨブの激しいことばをまず心で受け止め思い巡らす代わりに、ただそれに反応するように、抽象的な議論しかしていないことに不満を持っていました。

そして、彼らのことばは、彼ら自身の正義感から出ているものではあっても、「神の息」によって語られているものではないことを冷静に見ていました。彼らは「神の息」ではなく「アダムの息」を出しているに過ぎませんでした。

26章5–14節のことばは、25章のビルダテのことばの続きであると解釈する学者も多数います。確かに、これらのことばは25章の延長線上にあるようにも考えられます。

しかし、多くの保守的な学者は、ヨブが彼らの知恵では理解できなかった目に見えない神のご支配の広がりを敢えて述べたと解釈します。

5節の「死者の霊たち」と訳されたことばは、その同じ原語で、詩篇88篇10節では「亡霊が起き上がり あなたをほめたたえるでしょうか」と記されます。ですから、これは私たちが思うような「死んだ人のたましい」のことではなく、神のさばきを受けた人のことを指すと思われます。

さらに6–13節で用いられることばは当時の人々の神話に基づく言葉と思われ、現代人の宇宙理解とは大きく異なるように思えます。

たとえば12節の「ラハブ」ということばは聖書に何度も登場する「海の巨獣」を指す言葉ですが、これが詩篇87:4とか89:10ではエジプトに対するさばきを語るために用いられる場合もあります。

ヨブのことばの核心は14節の、「見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちがこの方について聞き得ることばは、ほんのささやきでしかない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか」という表現にあります。

三人の友人たちは、神の公正なご支配について弁明しましたが、ヨブは当時の宇宙観で不思議に思われた世界も、神のみわざのごくごく外側にしか過ぎないと語っているのです。

実際、現代の宇宙理解ではブラックホールなど当時の人々が思いもよらなかった世界が広がっていますが、それに関しても、「科学が発展すればするほど、未知の領域が広がる」と言われるほどです。

また「私たちがこの方について聞く」ことができる「ことば」は、わずかな「ささやき」に過ぎないと言われます。啓示されたみことばも、神に関してのごくごく小さな「ささやき」程度にとどまっているのです。

また「御力を示す雷」と述べられる際の「」とは、神のさばきの声とも理解されますが (詩篇18:13)、それに関しては、「だれが理解できるだろうか」とあるように、神のさばきの公平さなど、人間が弁証できるものではないと言えます。

ヨブはこれらを通して、友人たちが神のさばきを弁明することの愚かさを指摘していると言えましょう。

4.「私は息絶えるまで、自分の誠実(完全)さをこの身から離さない」

27章1節は、今までの「ヨブは答えて言った」から、「さらにヨブは格言を取り上げて言った」という表現に変わっており、それはこの章の終わりまで続きます。ここでヨブは友人のことばに反論するというよりも、さらに自分の心に蓄えられていた「格言」のようなものを加えて語って行ったことと思われます。

2節の始まりの直訳は「神は生きておられる」で、これは「誓い」の定型句ですから、新改訳は「神にかけて誓う」と訳しますが、直訳とともに続くことばは、「この方は私の権利を取り去り、全能者は私のたましいを苦しめた。それでも、私の息が私にうちにあり、私の霊が私の鼻にある限り、私の唇は不正を言わず、私の舌は欺くことを語らない(2–4節) と訳す方が理解しやすくなります。

これは、サタンが神にヨブの骨と肉を打つように願いながら、そのとき「彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません」(2:5) と言っていたことを思い起こさせます。つまりヨブはここで、神を呪わないと誓っているのです。

そして5節では、ヨブは友人たちの主張に関して、「私にはあなたがたを正しいとすることなど絶対にできない」と言いながら、「私は息絶えるまで、自分の誠実(完全)さをこの身から離さない」と誓います。

これは最初に神が、サタンの攻撃を受けたヨブに関して「彼はなお、自分の誠実(完全)さを堅く保っている……おまえは理由もなく(無駄に)彼を呑み尽くそうとしたが」(2:3) と言われたことを思い起こさせます。

6節でヨブは、「私は自分の正しさ(義)を堅く保って手放さない。私の心は生涯私を責めはしない」と宣言します。これはヨブの友人たちが彼に悔い改めを迫ったことを真っ向から否定する意味があります。

7節から12節は一つのまとまりとして、ヨブが友人たちを「私の敵」と非難し、彼らに神のさばきが下ることを願ったことばと理解すべきでしょう。

その際8節では彼らを「不敬虔な者」と敢えて呼びながら、「どのような望みがあるのか、神が彼を断ち切り、いのちを取り去るときには」と問いかけます。

さらに彼らにヨブと同じような「苦しみが……降りかかるとき……どんなときにも神を呼び求めるだろうか」と問います (27:9、10)。それは彼らが苦難に会う時には、ヨブの妻が「神を呪って死になさい」(2:9) と言ったような絶望に陥り、神との対話を絶つのではないかという彼らへの疑問です。

ただそのときヨブは、その苦難も「神の御手にあることをあなたがたに教える」と約束し、自分は「全能者のもとにあるもの(10節の喜び?)を隠さない」と彼らに保証します。

その上で12節では、「あなたがた」と敢えて強調して呼びかけ、「全員がそれを見たのに、なぜ、全く空しいことを言うのか」と、彼らこそヨブから学ぼうとしていないと非難します。

その上で、27章13–23節のことばは、ヨブが友人たちから言われたような神のさばきが、ヨブの友人たちの上に下るということを言い返したものと理解できます。ほとんど解説の必要のないことばです。

5.「主 (アドナイ) を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」

28章は前後の文脈から独立したような文章になっており、多くの学者は、これはヨブ自身のことばというよりも、ヨブ記の著者自身が挿入した「知恵の賛歌」と言われるようなものであると理解します。

2–11節では、人は金銀や宝石を得るためにどれほどの労力をかけるかが描かれます。3節の「人は闇の果てに、その極みまで行って、暗闇と暗黒にある鉱石を探し出す」という表現は印象的です。高価なものは、誰もふだんは目にできないところにあります。

さらに4節での「彼は、人里離れたところで縦坑を掘り進み」ということばから始まり、7節の「その通り道は猛禽も知らず」という表現を経て、10節の「彼は岩に坑道を切り開き、あらゆる宝石を目にする」という発見に至ります。

そしてその最後の作業が、「彼は水が滴ることもないように川をせき止め、隠されていた物を明るみに出す」と描かれます (28:11)。

そして12、13節では、宝石との比較で、著者は「しかし知恵はどこで見つかるか」と問いかけながら、すぐに「それは生ける者の地では見つからないと、捜しようのないことが述べられます。

同時に、その価値が、どのような金銀や宝石にもはるかにまさるもので、「純金でもその値踏みをすることができない」(28:19) と、知恵」の価値は、この世の尺度では測り得ないほど高価なものであることが述べられます。

さらに20節では、11節のことばが再び、「知恵はどこから来るのか。悟りがある場所はどこか」と繰り返されながら、「神は知恵の道をご存じであり、神こそ、それがある場所を知っておられる」(28:23) と答えられます。

そしてその理由が、「神が地の隅々までを見渡し、天の下をことごとく見ておられるからだ」(28:24) と述べられ、「はじめに神が天と地を創造された」(創1:1) という創造の記事が示唆されます。

25–27節は一つの文章で、「神が風に重さを与え、水を秤で量られたとき、また、神が雨のために法則を、稲妻のために道を決められたとき、そこで神は知恵を見て、これを見積もり、これを確かめ、調べ上げられた」と訳すことができます。

ですからここで記されていることは、私たちは「知恵」を物理的な法則や気象現象のように、人間のことばでは説明することはできないということに他なりません。これはヨブの友人たちが必死にヨブに知恵を語ろうとし、悔い改めに導こうとしていたことと対照的です。

そして、その結論が28節で、「こうして、神は人間 (アダム) に仰せられた。『見よ。主 (アドナイ) を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである』と」記されます。つまり、「知恵」や「悟り」は、努力して獲得する宝のような所有物ではなく、日々の生き方そのものなのです。

神を恐れる」とは、日々の神との交わり、祈りの生活に他なりません。それはたとえば私たちが、「私には明日のことが分かりません。しかし、明日を支配する神を知っています。それで十分です」と言えることに似ています。

それはこの世界の不条理を分析した伝道者の書の結論が、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、『神を恐れよ。神の命令を守れ』 これこそが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される」(12:13、14私訳) と記されていることと同じです。

神を恐れる」とは、最後の審判をびくびく恐れながら生きることではありません。それは与えられた身体や能力、気質をすべて神からの賜物として感謝して受け入れ、人の評価などを恐れることなく、大胆に神に期待して、神の眼差しを意識して、大胆に冒険できる生き方とも言えましょう。

神を恐れる」とは、「神を喜ぶ生き方」でもあるというのが拙著「正しすぎてはならない」(伝道者の書の翻訳と解説)の結論でした。人生が空しいからこそ、今ここで与えられている、神と人との交わりを喜ぶことが大切なのです。

しかもあなたが今、真の意味で「神を恐れ」、神こそがすべての支配者であり、最終的なさばき主であると信じているなら、どうして自分が神から不当に評価され、扱われていると思いながら、それを黙っていることができるでしょうか?それは最愛の人との関係では、黙ってはいられないことです。

神に問いかけないのは、心の底で神から逃げられる?と思っている証しかもしれません。

神を恐れる」とは、自分に対する神の評価を絶対的なものと見ることです。それに関して、真剣に神に向き合わざるを得ない気持ちになるのが当然であり、その姿勢をヨブから学ぶことができます。

その結果として私たちはこの世の人の評価から自由になることができます。最大の悪とは、神の眼差しを忘れて生きることに他なりません。