詩篇37篇〜池江璃花子

競泳の池江璃花子選手のオリンピック出場内定のニュースが「奇跡の復活劇」として報じられています。オリンピックに関してのいろんな批判はありますが、そのようなことを超えて、本当に感動的なストーリーですね。

彼女が2019年2月13日に白血病の闘病生活に入るときのツイッターのことばは以下のようなものでした

私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。もちろん、私にとって競泳人生は大切なものです。ですがいまは、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います

クリスチャンならだれでも知っているみことばがこの背景にあります(彼女がどこからこれを聞いたかは、よくわかりませんが……)。それは以下のとおりです

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練に合わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)

なお、この直前に信仰生活がスポーツ競技と比較されながら聖書では次のように記されています

あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」(Ⅰコリント24–26)

そして、池江選手は、競技人生に戻ってきて、厳しい訓練に耐え、2021年4月4日にバタフライ決勝にて東京オリンピック出場を決めました。そのときの彼女のことばが以下のとおりです

100メートルで優勝できると思っていなかった。何番でもここにいられることに幸せを感じようと思ってやってきた。自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていたけれど、勝つための練習もしっかりやってきたし、努力は必ず報われるんだなと思った

「努力は必ず報われる」ということば、彼女が言うと真実味があります。そして、ここにも聖書のことばが背景にあります。

しかし、現実には、多くの人は努力が報われない現実に直面して悲しむことが多くあります。

それに対して詩篇37篇3、4節には次のように記されています

主 (ヤハウェ) に信頼し 善を行え。
地に住み 誠実を養え
主 (ヤハウェ) を自らの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる

これは、私たちが誠実を尽くして努力を重ねるときに、主が私たちの心の奥底にある願いをかなえてくださることを意味します。

それは、確かに、この地上の生涯で果たされないと思えることがあります。それに対し、聖書は、私たちに「復活のいのち」を約束しています。そして、その永遠のいのちの観点からすると、あなたの努力は必ず報われます。

イエスの復活はそのことを保証するもので、そのことが次のように描かれています

堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)

「主のわざ」とは、主から与えられたこの世での使命を、主に祈りながら行うことで、ここには日々の家事労働から、会社での仕事、水泳競技への参加すべてが含まれます。

これも最終的なからだの復活という視点から保障されていることです。これこそまさに「努力が報われる」という世界です。

この永遠の保証を確信する者は、一時的な効果を超えて、目の前の努力に手中することができます。

つまり、キリストの復活は、私たちの地上の生活での「復活劇」と切り離せない関係があるのです。

以下は、小生の好きな復活の讃美歌です。以下のサイトでその合唱をお聞きいただくことができますが、これは米国で異なった歌詞で歌われているものです(Ⅱ讃美歌104番参照)。

ただ本来の歌詞は1566年のボヘミヤ兄弟団で歌われ始めた復活の讃美歌で、教会讃美歌99番では以下のように歌われています。

喜びたたえよ、もろびと歌えよ
嬉しきおとずれ われらに聞こえぬ
主イエスは死に勝ち ときわの救いを われらにたまえり

われらをかこめる あだをば砕きし
力の主こそは まことの神なれ
主はまたわれらを あめなる御国へ ともない入れたもう

われらの主イエスに ほめうたささげよ
ことばとわざにて みいつをたたえよ
死のやみくぐりて ときわの幸へと 主イエスは導く

以下のユーチューブをご覧ください。