キリスト教会の伝統では、今日から受難節で、今日は「」と呼ばれます。今年のイースターは4月4日ですが、それから日曜日を除く40日前(日曜日を入れると46日前)の水曜日を、灰の水曜日と呼び、自分たちの罪を悔い改める節制の生活の期間が始まります。
私たち福音派の教会では、あまりこの習慣を取り入れてはいませんが、教会の伝統ではこのような習慣があるということは、心の片隅に置いて、イエス様の十字架への歩みを思い越すことができればと思います。
伝統的に、灰の水曜日には詩篇38篇を読むことになっています。以下に、解説と、私訳を載せますので、お読みいただければ幸いです。
この詩は七つ悔い改めの詩篇 (6、32、38、51、102、130、143) のひとつで、「病者の祈り」とも呼ばれます。これはキリストの受難の「記念」と理解され、伝統的に、受難節の始まりの聖灰水曜日に朗読されてきました。
これはダビデの最も暗い時代の祈りだと思われます。詩篇32篇で解説したダビデの罪の後、長男アムノンは腹違いの妹タマルを強姦し、その復讐として彼女の実の兄アブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムはダビデから憎まれていると思い込んでクーデターを実行するという一連の悲劇が11年間の間に起こりました。この間、ダビデはただ手をこまねいて、引き篭もっていたかのようです。彼はそのクライマックスでこの詩篇を記したのではないかと思われます。
ダビデは、神の「大きな怒り」、「激しい憤り」、「憤り」という類語を用い、苦しみが神の「怒り」によってもたらされたと嘆いています (1、3節)。
それがストレスになって身体全体が病み、自分の骨から「健全(平安、シャローム)」が去ったと言います (3節)。その悲劇の引き金は、「私の罪」(3節)、また「私の愚かさ」(5節) にあると認めています。これは、父親に激しく叱られながら、なお、すがりつこうとする子供の姿に似ています。
ダビデは「私の傷が、うみただれ、悪臭を放ち」(5節) と言います。ほんの一瞬の罪の傷が化膿してしまい、家族全体にまで広がり、彼は打ちのめされ、一日中、嘆いて歩くことしかできません (6節)。「腰は焼けるような痛みに満ち」(7節) とは、感情の座が「腰」にあると見られたからで、自尊心を失った様子を示しています。
そして「私の肉には完全なところがありません」(3、7節) という繰り返しで、自分の罪が、身体全体を重い病気に陥らせていると言っています。彼は今、生きる気力さえ失い、心は乱れ、判断力を失い、うめくことしかできません (8節)。そのような落ち込みのため、ダビデは子供たちが起こした問題に、父親としての責任を果たすことができませんでした。
そのような中でダビデは主を呼び求め、「私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(9節) と告白します。彼は今、神の前でためいきをつくことしかできません。
しかも、彼の心はさらに動転するばかりで (10節)、目の光も失われ、まさに生ける屍のようになっています。
不思議なのは、彼はその自分の状況をこれほど多様なことばで言い表していることです。これは神の霊が、彼の心のうちに働き、ことばにならない絶望感を言い表すように助けてくださった結果です。それこそ、神の御前での呼吸、つまり祈りの本質と言えるのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、「この詩篇を、キリストは、ご自身の御苦しみと嘆きの中で祈られた。それは私たちの罪のためであった。」と簡潔に表現しました(Luthers Psalmenauslegung からの私訳)。
それこそ福音の神秘です。まったく罪のない方が、私たちすべての罪をその身に担い、罪まみれの罪人の代表者となって祈られたのです。
神の御前に祈るとは、答えが見えないまま、ただ、心の奥底の絶望感を正直に受け止め、それを神の御前に注ぎだすことです。そこでこそ、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。
祈り
主よ、私が自分の願望をあなたに訴える前に、私が自分の絶望感、心の底のうめきを、祈りとして表現できるように助け、御霊のとりなしを起こしてください。