礼拝への憧れ〜詩篇詩篇42、43篇

私たちの教会は2月7日から礼拝堂での礼拝を再開します。ただ、当日は奉仕者中心の礼拝で、礼拝を配信することを中心に考えております。

今度からは朝9時からの早朝礼拝を礼拝堂からのZoomで、ファミリー礼拝と午後の第二礼拝を以前と同様のYoutube配信とさせていただきます。サイトを公開はしておりませんが、ご希望の方には個別にご紹介しますので、ご遠慮なくメールをください。

現在、私たちが応援している神学校の卒業メッセージをお聞きいただくことができます。これも、公開されてはいませんが、個別にサイトをご紹介することはできます。

本日は当教会で以前二年間ご奉仕くださった神学生のメッセージです。20分間の中に4年間の学びが集約されているようなすばらしいものでした。

そこで彼が最後の方で語っていたことですが、10年前の東日本大震災の二日後、仙台の地で、危険な中でも礼拝は守られると当然のことのように思っていた。しかし、今は、礼拝堂に集まること自体が危険と隣り合わせになっています。

ただ、そこでいっしょに集まって礼拝できること自体が、どれほど大きな恵みなのかということに気づかされていると証しされていました。

それは、詩篇42篇、43篇のテーマでもあります。

以下に抜粋の私訳を記します。

著者はエルサレムから遠く離れた約束の地の北の果てから、昔のエルサレム神殿での礼拝を思い起こし、再び、神殿での礼拝に導かれて、そこで「立琴に合わせて、主を賛美することに憧れています。

主が私たちを礼拝へと招いてくださいます。ただ、今はそのようにできないことを悲しみ、うめいています。ここに礼拝が妨げられている絶望感と、同時に、主が再び礼拝に招き入れてくださるという希望が交互に歌われています。

私のたましいは、私の前で、うちしおれて(絶望して)います。

それゆえ、あなたを私は思い起こします。

遠いヨルダンの地から、ヘルモンとミツァルの山から。

あなたの大滝のとどろきに

深淵は、深淵を 呼び起こし

砕け散るあなたの波は みな、私を呑み込みました。

しかし、昼には、主 (ヤハウェ) が、慈愛 (ヘセド) を 施してくださいます。

夜には、主の歌が、私とともにあります。

私のいのち、神への、祈りが。

……

どうか、あなたの光と、あなたのまことを、遣わしてください。

それらに、私を導かせて下さい。

あなたの聖なる山、御住まいに向かって。

そして私は、神の祭壇、私の最も喜びとする 神のみもとに行き、

立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。

神よ。私の神よ。

私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? 

なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか? 

神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。

最後に、明日の朝の礼拝で賛美する歌をご紹介します。讃美歌9番「力の主をほめたたえまつれ」です。

これはドイツのライプチッヒのバッハ由来の教会かと思います。何かの記念礼拝のときで多くの方々が集まっているようです。会衆賛美と聖歌隊の賛美の組み合わせが美しいです。